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穂積さんが繰り出した発信は、正々堂々とした直球勝負だ。見方を変えれば、喧嘩を買ったとも、売ったとも見える。
これを放った場が陰口、悪口の類が跋扈していたのなら火に薪どころではない、ガソリンを投入したに等しい燃え盛り方をしたかもしれない。
しかし、その場は、折り目正しい生徒たちが正体を明かしている場で、さも被害者を慮るような立ち位置をとって正義の鎚を振り下ろしていたのだ。
当事者による正確な情報提供で整理されてしまえば、推測や感覚による被害者が可哀想、加害者がひどいなどの論の余地はなくなる。そも、被害者も加害者もいないのだから。
話題を継続させることはできる。
でもそれは、穂積さんのこととは関係ない出来事として自ら認めた上でのことになる。それをやっていた連中にとって、それでは意味はないのだろう。
「攻撃を加えて良い対象」が不在になり、「なんだ、そう言うことだったんだ」「そうだったんだ、安心した」などど、これまでのやり取りは誤解によるわだかまりで、それが解けて良かったと言う雰囲気でその場は着地した。
安心した、よかったなどの言葉はあっても、連中からの謝罪の言葉はない。誤解が原因だったとしても加害者になるわけにはいかないのだ。
あくまでも自分たちは被害者のために加害者を叩く正義の側で、誤解させた側が誤解を解いたので、「良かった」という構図にこだわるのである。
もちろん、着地など表面的なものである。
連中のその根にある感情はなんら解消されてはいない。
根本にあるのは穂積さんへの嫉妬なのだから。
穂積さんの側も、謂れのない攻撃を受け、傷ついたのに謝罪もしない相手を無条件に許せるかと言われれば難しい。
それでも、目に見えるところで明確な敵意をぶつけられなくなるのであれば、穂積さんはそれで良かった。
裏のことなどどうせわからないし、無くすことなんてできない。
それを気にして生きるよりも、穂積さんにはやりたいこと、やるべきことがいくらでもあったのだから。それこそ連中が羨み、嫉妬するような、充実した日々が。
穂積さんは一連の出来事をわたしに話して聴かせてくれた。
そして、言った。連中には感謝していると。
「単純な柊が一ヶ月くらい怒りを継続させるほどの姉妹喧嘩をしていても、いざという時は一瞬で味方に戻る。
それほど、根っこでは愛情で繋がっていることがわかったんだから」
柊にとっては、だいぶ恥ずかしい要素の多いエピソードだったが、それでも、時折「やめてよー」なんて言う程度で、穂積さんの話をにこにこと聴いていた。
本当に、穂積さんと一緒に踊ったり話したりするのが、好きで仕方がないと言った風だ。
穂積さんが伝えてくれた、伝えようとしてくれたのは、不変の姉妹の絆。
もちろんそんなのは人それぞれだ。
だから、押し付けないよう、自慢にならないよう、とても気を遣って話してくれたのがよくわかった。
文字通り人それぞれ。姉妹の関係性なんて姉妹の数だけあるなんてわかっている。
それでも穂積さんはわたしに伝えたかったのだ。
このままで良いのかということを。
このままじゃない方が良いと少しでも思っているなら、自分次第で良くなる方向に行くことはできるということを。
その日、わたしは祷に話しかけた。
自分から声をかけたのはいつ以来だろう。下手したら年単位かもしれない。
それくらい、最近では珍しいことだったのに、祷はあの頃と変わらず、穏やかに接してくれた。
もはや記憶も遠い彼方の、わたしがまだ祷をお姉ちゃんと呼び、どこに行くにもついて行ったあの頃のままだった。