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09.変わった夫(2)

 父の冷たい視線を受けて俯くイレーネのその肩へ、抱き寄せるように手が回された。イレーネは驚いて、隣のクリストハルトを見上げる。

 彼は背筋を伸ばし、立ち向かうように父を見据えていた。支援を終了すると言われても、まるで動揺していない。肩に置かれたクリストハルトの手の温度が、イレーネの恐怖を和らげていく。


「当然です。提携の対価でしたから。これまで支援により損失が出るばかりではなく、伯爵家の名を使いそちらも十分に利益をあげられたでしょう。そろそろお互い別の道を行く頃合いです」


 こうも決別を明言されては、関係の修復は不能だ。父の計画も頓挫する。


「イレーネ、お前には失望した」


 父は怒りの矛先をイレーネに向け、睨みつけた。クリストハルトの変化を察知して、父に報告できなかったからだ。

 また体が竦みそうになる。だが、クリストハルトが肩を抱く手に少し力を込めたことで、その存在を思い出した。怖い。けれど、目は逸らさずにいられる。


「男爵、彼女は既に私の妻。あなたの娘である前に、フェルゼンシュタイン伯爵夫人だ。無礼や恫喝は許されない」


 クリストハルトと父の間には、歴然とした爵位の差がある。父も流石に軽率だったと考えたのか、黙り込む。

 そこへ、廊下の向こうから、夜会の別の参加者たちが姿を見せた。これ以上は人に聞かれてしまう。


 会話を打ち切ることにした父が先に歩き出した。クリストハルトの隣を通り過ぎざまに立ち止まる。


「その些細な成功が、今後も続けばよいのですが。……では」

「ええ。これまでお世話になりました。男爵も、ご自身のしてきたことの報いから逃れ続けられるよう、願っております」


 お互いに呪詛を吐きあって、父はその場を後にした。


「行こう」


 まだ胃を締めつけられるような緊張感に固まっていたイレーネは、クリストハルトに促されて歩き出す。


 そのまま夜のテラスへ出て、手近な椅子に二人で腰を下ろし、ようやく息をついた。

 落ち着くと、どんどん別の不安が戻ってくる。クリストハルトは男爵家の支援を手放してしまった。彼の新しい取り組みにより事業が上向き始めているとはいえ、今後どうなるのかわからない。一朝一夕に財政難が解消するはずはないのだ。


「どうして、あえて反感を買うようなことを……。父はまた、別の方法で伯爵家を追い詰めようとするはずだわ」


 そう口走ってから、イレーネは自分の失言に気づいてしまった。これでは、イレーネが以前から父の計画を知っていたと明かしたようなものだ。

 だが、もう言ってしまったからには仕方がない。イレーネは、父から聞いた範囲の話を、なるべくそのまま、私見が入らないよう注意しつつクリストハルトへ伝えていった。

 伯爵領の主要産業を奪い取るという父の企みと、イレーネはその計画の一環で嫁がされたことと、ずっとそれを知りながら黙っていたことを、クリストハルトは口を挟むことなく、相槌を打って促すだけで聞き入れていく。


「軽蔑……、すればいいわ。あなたが自分で気づいた今になって、ようやく打ち明けたのだから……」


 責められて当然だ。イレーネは以前のクリストハルトのような、憎悪に満ちた言葉を覚悟して待った。

 ところが彼は、話を聞く前と変わらず冷静だった。


「いや。以前の私では信じなかっただろうから、君も話す気になどなれなかったはずだ。黙っておくこともできたのに、よく打ち明けてくれた。……ありがとう」

「そんな、こと……」


 穏やかな口調で微笑むクリストハルト。柔らかく細められた眼差しに、イレーネは俯いて口ごもった。いつから、彼に安心させられるようになったのだろう。

 イレーネは事故前までは、婚約に至る前からの付き合いを元に、夫の機嫌を損ねる状況をおおむね予想できた。しかし、なぜ事故後のクリストハルトはその予想をことごとく裏切るのだろうか。放っておいてほしいという期待も、責められて当然だという覚悟も全て。まるで知らない人のようだ。


「後になって振り返ってみれば、これまで怪しいところは散見されていた。こちらの顧客を入念に把握しようとしたり、大口の顧客へ秘密裏に接触しようとしたり……。私が漫然と経営を行っていたから、見落としていたんだ。最近始めたこれまでの宝飾加工依存からの脱却は、防衛策の一環でもある」


 ただただ新しいことを始めようとしているのだと思っていた。だがその裏には、イレーネの父への対抗の意図があったのだ。


「だ、大丈夫、なの……。その、父に、潰されないのか……」


 こんなことを聞ける立場ではないと承知しつつ、イレーネは心配せずにはいられなかった。

 クリストハルトがイレーネを嫌々妻に迎えたのは、伯爵家の財政難からだ。主要産業の宝飾加工による収入が、安定しつつも十分ではなかった。一方、体面を守るためか、伯爵家の人々が生き方を変えられなかったからか、贅沢な暮らしは止められず支出は変わらない。少しずつ資産を減らしていく中で、男爵家からの支援を期待して縁を結んだ。婚姻による男爵家にとっての利益は、対外的には伯爵家の縁戚である箔、ということになっている。

 さきほど、男爵家からの支援は無くなることが決まった。暮らしぶりはあまり変わっていない様子で、加えてクリストハルトがイレーネへの望まない贈り物で散財していることも理解している。自ずと破産するのではないかと気がかりだった。


 ところがクリストハルトは、イレーネの不安を払うような、自信に満ちた不敵な笑みを浮かべていた。


「もちろんだ。伯爵家は正直なところ、無意味な支出が多かった。……私がそれを言える立場ではないが。とにかく、それを見直していくらか不動産を処分しただけで当面の財政状態に不安はなくなった。宝飾加工の商流も整理して、前より二割ほど利益が上がっている。あと、意匠企画した試作品の評判がかなり良くて、王都の直営店は営業前だが既に多くの顧客から注文が入っている。男爵家の支援がなくても、伯爵家は問題ない。これから一層上向いていくよ」


 以前のクリストハルトは、財務を先任の執事のヨーゼフに任せきりに見えた。財政難にもかかわらず愛人に湯水のように金を使う一方で、本人が小難しい話をしている場面に遭遇したことがなく、普通に考えて資産管理は執事がしていたのだろうと。

 しかし今の彼は、イレーネに伝わるよう噛み砕いて平易に説明しているが、しっかり根拠を持っていることが窺える態度で、普段から帳簿に触れていて内容が頭に入っている素振りである。


 内心見くびっていた夫の変わりように、イレーネは驚いて何も言えなくなった。

 それを別の意図と受け取ったのか、クリストハルトは少し恥ずかしそうに苦笑した。


「ああ……。君への贈り物は無理をしていたわけではないよ。れっきとした余剰資金からだ。財政難の中、散財していると思われていたのは恥ずかしいな……」

「……ごめんなさい」


 イレーネの方も恥ずかしくなって視線を落とした。伯爵夫人の立場にありながら、伯爵家が財政難を実質脱していることも知らずに、ある意味失礼な心配を続けていたのだ。


「これからは、君にもっと事業のことを話すよう心掛けるよ」


 気を取り直してそう告げた夫は、本当に、以前とは別人のようだった。

 執拗に、あるいは理由なくイレーネを責め立て虐げる、無能な男。もうそんなクリストハルトは、見る影もなかった。理性的に、ともすれば思いやりを持って会話をしてくれる。

 イレーネは、頭を強く打って怪我をした人間が、回復後、以前とは人格が変わってしまったという話を思い出した。クリストハルトは顔の負傷が一番重かったが、同時に頭も強く打っていたのだろう。きっと、彼の豹変はそういうことだったのだ。

 クリストハルトはもう別人になっている。イレーネはそう思い始めていた。

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