08.変わった夫(1)
例の舞踏会からしばらく経ったあと。
イレーネは王都の屋敷の二階の窓の傍に立ち、階下を眺めていた。ちょうど、商談があるとかでクリストハルトが外出するところだった。馬車の前で屋敷の管理人と話し込んでいる。なお、執事のベンノは領地の屋敷にとどまっており、王都にはいない。
今のクリストハルトは、イレーネが見送りに行かなくても後から文句は言わない。事故後の当初はそれまでどおり嫌々見送っていたが、気が乗らない時は部屋でゆっくりしていればいいと言われて、以来彼が出かけるとなるとすぐに私室へ引っ込んでいる。
クリストハルトはやはりイレーネを尊重し、愛しているかのような振る舞いを続けていた。以前の王都での社交期間中は基本的にこの屋敷に放置されていたのだが、今期は舞踏会のみならず、晩餐会や美術展などにも連れ出して、何か楽しませよう喜ばせようと手を尽くしている様子だ。
終始二人でいる夫婦に、不仲を知る知人たちは不思議そうにして、おそらくクリストハルトの一時の恋人だった女性たちからは面白くなさそうな視線を送られた。イレーネは周囲には最低限の硬い愛想笑いを返し、夫とは基本的に目も合わせなかった。
最近分かったのは、伯爵家の事業が急に上手くいきはじめたということだ。
フェルゼンシュタイン伯爵領の主力産業である宝飾加工について、以前は安定はしているが取り立てて盛んというほどでもなかった。それこそ、伯爵家が見栄を張るには足りず、成金の男爵家の娘を妻に迎えなくてはならないほどであった。
父の口ぶりによると、黙々と注文通りの精巧な加工のみにこだわりすぎて、前後の工程に手を出そうとしてこなかったことが成長しない要因だったそうだ。事故後の夫は、王都から芸術家を呼び伯爵領で意匠企画も担えるよう動いている。今度は王都に直営店を出すと小耳にはさんだ。社交だけでなく、その仕事のためにも度々外出している。以前は遊び歩いているだけだったというのに。
(父の企みを、話した方がいいのかしら……)
イレーネの父トレーガー男爵は、フェルゼンシュタイン伯爵領の宝飾加工事業を、ゆくゆくは奪おうと画策している。伯爵家の宝飾加工への信頼性を事業提携の形で借り受けて成長し、まさか姻戚の仕事を潰しはしないだろうという油断を誘っていずれその座に取って代わるのだ。そのためにイレーネを結婚させた。
これが成功しても、イレーネに本当の意味で帰る場所はない。伯爵家と共に没落するか、その前に何らかの理由で離縁されて実家に戻され、父によって即座にどこかへ売り飛ばされるか。
以前は、この話をクリストハルトに打ち明けても、おそらく彼に事業をどうにかする才覚はないし、敵だと認定されて最悪殺されると思っていたので、黙っていた。父が恐ろしかったというのもある。
しかし、今のクリストハルトになら、話せるような気がしていた。どれだけ責められても抗弁せず、つれなくされてもめげず、そして事業を自らの手で良くしようとしている彼であれば、イレーネの言葉に耳を傾けて冷静に対応してくれそうな気がしている。
許そうとしているのだろうか。そんな考えが頭を過って、イレーネは嫌な気分になった。
だが、以前のような重苦しい怒りではない。クリストハルトを責めて、傷つけてやらなくては溜飲が下がらないという、激しい感情を脱している。結婚して三年間、辛くて苦しかった。その苦しさは未だ喉元まで這い上がってくる。それでも、呑み込んで前を向いてもいいのではないかという気分になっていた。
イレーネの心が変わったのは、クリストハルトの真摯な態度のためだ。必死にイレーネに償い、求めている。嘘であそこまで無様に乞える男ではないから、本心なのだろう。たったひと月の看病で心変わりし、物などで分かりやすく機嫌を取ろうとする、浅はかな見苦しい男。でも、本気だ。
窓の外の階下で、馬車へ乗り込もうとしたクリストハルトと、不意に目が合った。
微笑み、手を振るためだろう。腕を上げかけたクリストハルトに、イレーネはなぜか焦ってすかさずカーテンを閉め、夫を視界から追い出した。
見送ろうとしていると勘違いされては不快だが、それでも慌てる必要などなかった。イレーネがそうしてしまったのは、心の中に生まれた後ろめたさを見透かされたくなかったからだ。
イレーネは、父の企みを黙っていることを、後ろめたく思うようになったのだ。
(違う。これは、これは……。そう、私の居場所が心配だから。伯爵家が父に潰されてしまったら、私には行くところがないから……)
心の中で言い訳をしながら、イレーネはカーテンの端を握りしめた。
◆
その日の夜は、ノイシュテッター伯爵家の夜会に招かれていた。舞踏会のような大々的で正式なものではなく、食事をして少しダンスの時間があって、あとはお喋りや賭け事に興じる、それなりに親しい者だけの集まりである。
ノイシュテッター伯爵家とフェルゼンシュタイン伯爵家は親戚の関係にあり、先代同士も仲が良かったそうだ。そのためクリストハルトとイレーネも招待を受けている。
クリストハルトが散々イレーネの悪口を吹聴していた所為でいつもどおり居心地は悪いのだが、常に彼が隣にいるおかげでこれみよがしな陰口は今のところ聞かされていない。
しかし、ホールで一曲踊り終え、端に並んだ椅子で休むイレーネは、おそらく誰の目から見ても青い顔をしているだろう。
「イレーネ、大丈夫か」
「え、ええ……」
気遣わしげなクリストハルトに、イレーネは曖昧な返事をした。だが頭の中は彼ではなく、先ほど遅れて到着し、主催者がいるはずの談話室の方へ案内された人物のことでいっぱいになっていた。
「具合が悪いなら、テラスの方へ出ようか。風に当たろう」
促されて、たしかに庭に面したテラスの方なら出くわさないだろうと考え、クリストハルトと二人で席を立つ。
ところが、ホールを出た廊下でばったりかち合ってしまった。談話室で主催の伯爵と話し込むと思ったのに。
「これは……、トレーガー男爵」
「おや、フェルゼンシュタイン伯爵、と……。珍しいこともあるものですな」
冷たい印象の顔立ちをした、焦げ茶色の髪の壮年の男。イレーネの父のトレーガー男爵だ。
父は、以前は最低限しか一緒にいなかった二人が寄り添い連れ立っている様子を見て、意外そうに眉を上げている。
元々父と夫はそこまで仲が良いわけではない。先代伯爵は利害の一致を含めてある程度好意的に思っていたかもしれないが、クリストハルトは無理矢理結婚させられたと被害者面していたので、イレーネだけでなく父のことも嫌いだった。金のために我慢して付き合っていた。一方の父は、伯爵家だけでは立ち行かない商売下手と見下しているので、彼の不愛想な態度を鼻で笑って捨て置いている。
「そうだ、男爵にお伝えしておきたいことがありました」
「ほう、お聞かせ願います」
いつも苦虫をかみつぶしたような表情で父に相対していたが、今日のクリストハルトは違った。
「どこの商会かは分からないのですが、当家の商会の顧客に接触して、取引条件を執拗に聞き出そうとしている輩がいるようです」
「……」
「幸いにも当商会の顧客は、低廉な価格や迅速な供給だけを重視しているわけではありませんから、取引条件を聞かれようとも取り合わなかったそうです。貴族相手の商売には慣れていない商会だったのでしょうね」
父の纏う空気が、表情はそのままに剣呑さを帯びる。これは、おそらく父の商会のこと。クリストハルトは父の企みに気がついたのだ。
父は下級貴族や市民の中での富裕層、中流層を顧客にしている。成り上がりの男爵でも取引ができる相手だ。そしてフェルゼンシュタイン伯爵家から奪おうとしている宝飾加工の最終顧客は、爵位が上の相手ばかりである。
「彼らが求めるのは、長い歴史に裏打ちされた技術力と、何より信頼です。まともな商会か、その後何代にも渡って付き合える相手かをよく見ています。同程度の品をその時点で差し出されたからといって、安易に乗り換えてもらえると考えるのは浅はかとしか言いようがありません」
その信頼こそ、父が何よりも求め、奪いたがっていたものだ。ただ、品質だけで信頼を奪えると期待したことは誤算だった。顧客たちは、品質はもとより、歴史あるフェルゼンシュタインと何世代も取引しているからこそ、信頼している。
新興の父の商会が同程度の商品を持ってきても、それでは足りない。原石の出所、まともな業者を仲介しているか、最終製品になるまでに一切の瑕疵はないか。また、購入後の対応や、流行や好みに応じた提案等もされるか、全てを見られている。父の商売のやり口は、後ろ暗いところがあった。
「……随分と、考え方を変えられたようですな」
以前のクリストハルトは昔からの顧客を軽視し、馴染みに胡坐をかいていた。そんな男が突然、信頼を得続けなくてはならないと理解したのだ。
「ええ。今からでも、やり直せると信じています。その第一歩として、そちらの商会との提携を今年度末で終了させていただきたい」
「なるほど。では業務提携の対価として行っていた、伯爵家への支援はもう不要と仰るのですな。私はたとえ娘の婚家であろうと、無償で支援をするほど甘くはありません」
「そんな……」
財政難の伯爵家が、男爵家からの支援なしにやっていけるのか。思わず声を上げたイレーネに、父の冷たい眼光が突き刺さる。その恐怖を隠すこともできず、イレーネは無様に絨毯へ視線を落とすしかない。
だが俯いたその時、肩を抱き寄せるように回された手があった。広いその手のひらは、クリストハルトのものだった。
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