07.見苦しい夫
突然かけられた第三者の声に、フーベルトゥスは握っていたイレーネの手をさっと放した。やはり、見られては困るような意図があったのだ。
「フェルゼンシュタイン伯爵……!」
クリストハルトはずかずかとテラスへ進み出ると、その長身で二人の間に割って入った。彼の背中に遮られてフーベルトゥスが見えなくなる。
「私の負傷を治し、この顔も修復していただいた。心から感謝している」
発言の中身とは裏腹に、口調は随分強い。
「だがその礼は私から十分にさせてもらうので、妻には求めないでいただけるだろうか」
「い、いえ、過分なお言葉をいただきましたので……、私はこれで!」
そう言い残し、フーベルトゥスは機敏な動きでテラスから出ていった。彼より上位の伯爵の反感を買うべきでないと思ったのだろう。
クリストハルトは嫌いだが、イレーネは助けが入ったことにほっと息をついた。男性に迫られたことなど初めてだったので、対処の仕方が分からなかった。
少しの間、彼の去った出入り口を睨みつけていたクリストハルトだったが、振り返って今度はイレーネを険しい表情で見下ろした。
「どこへ行ったのかと思えば、こんな場所に一人でいるなんて、どういうつもりだ?」
「それは――」
これまでは、毎回そうしていた。王宮以外での夜会の時も、なるべくどこか隅の方、可能であれば会場を出て一人になれる場所で過ごしてきた。ホールやすぐ近くのテラスに長居すると、「あまり監視しないでもらいたいのだが。それとも大声で名乗り出たいのか? 私がフェルゼンシュタイン伯爵夫人です、と」などと、後からクリストハルトに詰られるのだ。
「これでは恋人の欲しい男たちに、声をかけてくれと誘っているようなものだ」
いつも通りのことだと伝えようとしたイレーネは、クリストハルトの言葉に愕然とした。そんな風に受け取られる行動だとは、思わなかった。知っていて、彼は以前からイレーネをホールの外へ追い出していたのだ。
怒りと羞恥に体が熱くなってくる。
「手を握られても振り払わずに……。まさか、あの魔術師と示し合わせてここに来たのか」
「なっ……!?」
フーベルトゥスとの不貞まで疑われているのか。相変わらず、物事を自分の都合の良いようにしか捉えられない男に、イレーネは嫌気がさしてきた。
「フーベルトゥス様はあなたの命の恩人でしょう」
「そうだ。私のな。私を救ったあの男に、君が恩を感じているのか? そんなはずはないだろう」
その通りだ。クリストハルトなど死んでしまえばいいと、冷静さを欠いていた当時は願っていた。だが、対外的に、夫の恩人を妻は無下にできない。
「なぜ、あの男がわざわざ私の顔を治しに来たんだ? 治癒魔術については居合わせたからだという理由がある。だが一か月後、他の魔術師ではなく、またあの男が来たのはなぜだ?」
「私が知るはずないわ」
「最初にあの男が屋敷へ来た時、何かあったんじゃないか」
「いい加減にして! 自分を治してくれた人をそこまで疑うなんて、どうかしているわ。あの方が親切だっただけよ!」
イレーネが声を荒げても、クリストハルトは止まらない。むしろ、イレーネがフーベルトゥスを庇うような発言をしたことで勢いづいている。こんなことで激する男だっただろうか。
「親切? ただの親切な男は、このような場所で女性に迫ったりしない」
「あ……!」
先ほどフーベルトゥスがしていたように、クリストハルトはイレーネの手に触れた。それだけでなく、掴んで引き寄せる。
「それともその寛容さで、手に触れることを許し、彼の讃美を受け入れ、最後には唇でも与えてやるつもりだったか?」
あのままでは、イレーネが望まなくてもそうなっていたのだろうか。そんなぞっとするような想像をしても、湧いてきたのはむしろクリストハルトへの反抗心だった。
「あなたが私の振る舞いを責めるの? 自分は女性たちと遊んでいるくせに。それなのに、どうして私があなたの言うことを聞かなくてはならないの。私に指図しないで……!」
クリストハルトは反論された驚愕で目を見開く。しかしイレーネに行動を改める気がないと思ったのか、すぐに柳眉を吊り上げ、イレーネの肩を掴んだ。
「君は、私の妻だ!」
体を竦ませる怒声に、イレーネは一瞬身を固くした。
だが、その怯えを途端に忘れ、ある驚きに支配されていく。
(なんて見苦しいのかしら……)
みっともない主張と嫉妬。妻という法的な関係を主張しなくては、命令をきかせられず、夫婦としての繋がりも維持できないと認めたも同然だ。かつては、自分こそがイレーネを支配する主人だと傲慢な態度を取っていた男が。
これまでの、すげなくされても続けていた会話や贈り物も同じ。一生懸命で、なりふり構わない露骨な手段。元の彼では、自分の方から尽くしてやっているというのに拒絶されては我慢ならず、すぐにやめていただろう。
これらは、本心からイレーネを求め、心の中で足元に跪き縋っていなくては取れない行動。イレーネを見下していた以前のクリストハルトなら、絶対に見せなかった姿だ。
イレーネはようやく、夫の本気を知った。
◆
舞踏会の帰りの馬車の中。王都の屋敷に着くまで、気まずい沈黙の中、夫と二人きりでいなくてはならなかった。
イレーネは窓の外へ視線を向け続けていたが、暗くてほとんど何も見えないので、結局さきほどのことをずっと考えてしまっていた。
あの時は、こういった夜会で普段イレーネが人気のない場所にいたことが、実は奔放なことだと知り、そしてそれを知りつつクリストハルトはホールから追い出していたと気づき、羞恥や反発で彼の指摘を否定し、フーベルトゥスを庇った。
だが、冷静になって思い直せば、クリストハルトが来なければ危ないところだったのだろう。実際イレーネは手を握って迫られ、悪い意味で緊張していた。あれは、怖かったのだ。
それでも、彼の主張や疑念の全部が正しいわけではない。
「私がテラスに、一人でいたのは――」
おもむろに口を開くと、進行方向を向いて座るイレーネの対角の位置にいるクリストハルトが、視界の端でこちらを見た。
「あなたがいつも、私にどこかへ行けと文句を言っていたからよ。あなたのように、恋人が欲しかったわけではないわ」
窓の外へ視線を固定したまま、淡々と侮辱に近い誤解を解いていく。そちらがそうさせたのだ、と言外に責めながら。
「けれど、一人であそこにいることが、そういう意味だとは知らなかった。私、成人して社交に出る前からあなたと婚約していたから、あまり夜会の経験がなくて……、身近に夜会での俗な振る舞いを教えてくれる人もいなかったの」
知らなかったこととはいえ、軽率だった。特段彼に謝罪や感謝をするいわれはないが、イレーネは自らの行動を反省した。先ほどは、フーベルトゥスを庇いたかったのではなく、自らの軽率さを認めたくなかったのだ。
「そうか。私の以前の言葉が原因だな……。すまなかった」
また、クリストハルトは、簡単に謝罪を口にした。三年もイレーネを虐げてきた男が、たったひと月の看病で心を入れ替えたなどと、軽々しく、独りよがりに。
イレーネは怒りのままに、クリストハルトを睨みつけた。
真摯な、本当に心から悔いているかのような眼差し。
こんな態度、以前の彼なら取らなかった。イレーネも恐ろしくて、彼にこんな態度を取れなかった。
腹立たしくて、行き場のない感情を詰問の形でクリストハルトにぶつける。
「どうして『土砂降りの日でなくては隣に立たせられない女』を連れて歩く気になったの」
「すまない」
クリストハルトが社交界で女性たちへ声高に言い触らしていた、イレーネの悪口。そんな女と、今日は離れようとしなかった。
「君を、美しいと思っている」
これほど心に響かない称賛があるのだろうか。むしろ、イレーネの怒りの炎に薪がくべられた。
「あなたの指示どおりに髪を下ろしたから? 贈られたドレスを着たから? 私の顔形は変わっていないわ。あなたが嫌いなこの髪の色も……!」
「申し開きのしようもない。よく分かっている。だが、本当に、美しいと思っているんだ。今だからではない。昔から、いつでも君は美しい人だった」
本心では醜いと思っていなかったとでも言いたいらしい。見苦しい。フーベルトゥスとの口論の後や今の言動だけではない。療養生活を終えてから、ずっと不愉快でしかたがなかった。以前の最低な夫以上の不快さだ。
これだけ腹立たしいのに、どうして涙が溢れてくるのか、実家でも伯爵家でも怒りをあらわにできなかったイレーネには、理解できない。
「以前のひどい言葉も、今の言葉も、全部あなたの口から出た言葉だわ。どうして三年間を忘れて、今のあなたを信じられるというの。無かったことにできているのは、あなただけよ!」
「無かったことになど、しない!」
非難を受け止めるばかりだったクリストハルトは、突然、身を乗り出して声を荒げた。イレーネが目を見開き黙り込んだのを見て、すぐに声を落とす。
「全部、覚えている。君に投げつけられた言葉を。君の受けた仕打ちを。君がどんな反応をして、傷ついていたのか。忘れるはずが、ない。あれを、君が忘れてくれるのなら、どれほどいいか……」
悔やむように押し殺される声。
それは、自分の責任をなくしたいという響きではないように聞こえた。イレーネが忘れてくれたらという責任逃れな発言のはずなのに、彼はそれが叶うなら全てを差し出して構わないとでも言うような悲愴な眼差しをしている。
「いくらでも、君に償う。一生をかけて、これからの人生、私の血の一滴に至るまで、君への贖罪に捧げる。だから、どうか私の傍にいてくれ。私の言葉を聞いてくれ。聞くだけでいい。呪いの言葉を返しても構わない。それでも、君に伝えたいことが、まだ数えきれないほどあるんだ」
ずっと、クリストハルトは軽い贖罪を続けているのだと思っていた。贈り物や上辺だけの言葉で、イレーネに早く折れてくれと念じ、内心煩わしく感じているのだろうと。
しかし、これほど重々しく一生を口にした彼は、もしやイレーネに許されない覚悟までしているのではないか。
「これまで、押さえつけられてきた分、君も私に話してくれ。何を言われても、受け入れる。昔のように、いや、それ以上に、率直に自分を出してくれていいんだ」
促されずとも、既にこうして怒りをぶつけている。
そう頭に過ってからイレーネは、ようやく自分の心の変化に気がついた。凍らせ押し込めてきた感情を、自然と出せている。クリストハルトの態度がそれを促しているからだ。
クリストハルトのしてきたことは、忘れられない。だから、イレーネは彼への怒りや嫌悪など、自らが胸に抱えるものが変わることなどないと思っていた。そしてたしかにそれらは未だにある。許してなどいない。
けれど、自らが変化していると今になって自覚した。イレーネが変わったから、クリストハルトに率直にものが言えるようになったのだ。彼の全てを受け入れるまいと頑なであっても、確実に影響は受けている。
イレーネは、乞うような目で未だにじっと見つめてくるクリストハルトから、視線を逸らした。
自尊心の高いクリストハルトが、これほどなりふり構わず見苦しくイレーネに接しているのだから、嘘ではないのだろう。それでも、受け入れたくない。こんな男、嫌いだ。
(でも、この変わり始めている心が、いつしか私にこの人を許させてしまうのかしら……)
これまで受けた仕打ちの何もかもまで。あれだけ傷つけられたことを、許してしまうのか。許せるようなことではないというのに。許してしまったら、もう自分が自分でないように感じる。
イレーネはいつか来てしまうかもしれない未来に怯えながら、馬車の窓の外へ視線を逃がした。
外は、いつの間にか雨が降り始めていた。