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06.改心したかもしれない夫(2)

本日2話目投稿

 ホールを無事に抜け出せたイレーネは、嫌な視線に晒されない場所を求めて廊下を歩いていた。先ほどまでホールに留まっていたのは、移動してもどうせクリストハルトがついてきてしまうからである。


(やっぱりテラスが一番よね……)


「――イレーネ」


 不意に、普段通りにテラスへ向かおうとしていたイレーネの背中に冷たい声がかかった。

 すかさず振り返ったイレーネは、廊下の柱の陰に佇む男の姿に、身を竦ませた。緊張で、じわりと汗がにじんでくる。


「……ご無沙汰しております、お父様」


 焦げ茶色の髪の壮年の男。彼がイレーネの父、トレーガー男爵である。父もこの舞踏会に出席していたようだ。

 スカートを軽く持ち上げて膝を折り、挨拶するが、父に感じるところはなさそうだ。ただただ、イレーネを冷たく見据えている。


「あの若造の動きが変わった。私の計画をどこまで話した」


 ――最低十年は、伯爵夫人でいろ。伯爵家が主要産業である宝飾品の加工を頼みにし続け進歩しない限り、いずれ沈む船だ。こちらも長く付き合うつもりはない。我が男爵家がその座を手に入れれば、お前の役目は終わりだ。


 婚約に際して父から告げられた言葉だ。

 父は密かに、宝飾加工はフェルゼンシュタイン領で、という信頼と名声を奪い取る計画を立てている。近年、男爵領でも宝飾加工を事業として取り組み始めたところであるが、技術は伯爵領の職人に追いついても、歴史が浅く貴族などの大物の顧客がつかない。ここで、姻戚になることで伯爵家の警戒を解き、業務提携を持ちかけ、しばらくは伯爵家のお墨つきという形で男爵家の宝飾加工の信頼度を上げ、一定の域に達すれば他の事業で培った営業力ほか汚い手段を駆使して顧客を奪い、その立場に取って代わる算段だ。

 父にとって財政難の伯爵家への資金援助は『投資』であり、イレーネは一時的に伯爵家の名を借りるための餌でしかない。どんな扱いを受けていようと、父の目的が達成されるまで伯爵家の妻であってくれれば、それで構わないのだ。その後イレーネがどうなるかなど、知ったことではない。


 もしイレーネに才覚があれば、子供を産んで次代の伯爵家の実権を握り、実家への貢献を期待されたかもしれない。だが父は、イレーネにクリストハルトを含む伯爵家の親戚たちを掌握する力がないと分かっている。この代で終わる関係だと、イレーネもろとも見限られている。

 そしてクリストハルトは、父の企みは知らずとも、イレーネが父に疎まれていると感じ取っている。だから安心してイレーネを生かさず殺さず虐げているのだ。実際、イレーネが実家に訴えたとしても、父はどうでもいいと無視するだろう。


「いいえ、話していません」


 イレーネは小さくなりながら、かぶりを振る。

 本当に、クリストハルトに父の計画を打ち明けたことはない。信じないか、あるいは間諜扱いされて危険な目に遭う。父が捨てたも同然の娘に事前に計画を明かしたのは、それを見越して、どうせイレーネがクリストハルトに訴えることはないと踏んでいたからだ。


「ふん。まあ、仮に計画を知ったところで、奴に今さら私から逃れられる商才はないだろうがな。そうなると、入れ知恵をした人間でもいるのか……。新たな交友関係はあるか」

「存じ上げません」


 どうやら、何か父にとって想定外のことが起きているようだ。しかし、伯爵家の事業に関与していないイレーネには分からない。

 虐げられているとはいえイレーネはもう伯爵家の人間である。それでも父の計画をクリストハルトに対し秘密にして、今こうして父の詰問に正直に答えているのは、子供のころからの刷り込みのようなものだった。父が、イレーネの狭い世界の中では最も恐ろしくて、従うべき存在だから。


「怪しい動きがあれば報告しろ」

「……」

「いいな?」

「……はい」


 結局、喉の奥から出てきた焦りが、イレーネに勝手に返事をさせる。それを聞き届けると、父はホールの方へ戻っていった。

 その背中が見えなくなって、イレーネはようやく、体じゅうに圧し掛かっていた重みから解放された。


 記憶もおぼろげな幼い頃は、あんな人ではなかった。元から商売のやり口は汚いところもあったようだが、少なくともイレーネから見れば、自らと母を愛する優しい父親だった。それが、ある日を境に変わってしまった。

 父の弟が闘病の末亡くなり、彼の遺品整理をしていた折に、日記が出てきた。妙に厳重にしまい込まれていたその中には、母が新婚の時に彼と不貞をしていて、イレーネはその時の子供だという記述があったのだ。

 父は母ではなく、叔父の日記を信じた。それでも母への愛があったのだろう。屋敷から追い出すことはなかった。ただ、離れに住まわせ、寝食を別にするようになった。そしてイレーネに対しては、まるで汚いものでも見るかのような目を向ける。仲の良かった弟と、愛する妻の裏切りの象徴。それが父にとってのイレーネだ。

 母は生前イレーネに、推測混じりの真相を語ってくれていた。たしかに、父の弟から好意を向けられた。けれど、彼に対する思いは無かったし、父を愛していたからはっきり断ったそうだ。しかし拒絶された彼の目には怒りがあった。ここからは推測だが、あの日記の内容は彼を拒絶した母に復讐するための捏造なのではないか、と。


 実際にイレーネが誰の子なのか、真実を確かめる方法がある。それは魔術の一種で、その場に立ち会う本人と比較対象者の、血縁の有無と血の濃さを判定するものだ。家中の騒動を知られることにはなるが、貴族からの申し立てであれば、王宮から許可は得られただろう。仮に今からでも、父とイレーネをその術にかければ、答えは出る。

 ところが父は、再三母に頼まれても、その確認を頑として行わなかった。おそらく、母の不義が事実になるのが怖かったのだ。それをしなければ、たとえ自らが弟の日記を信じていたとしても、確かめていないのだから妻が不貞をしていないという一縷の希望は保たれる。確かめてしまえば、事実になる。つまり、父の中では母の不義はほぼ確定事項であり、魔術による血縁確認をしないことで、弟の日記は嘘かもしれないという幻想を抱き続けられるのだ。

 やがて、母は病で亡くなり、父の弱さにより二人の仲は壊れたまま終わってしまった。

 母に対しては、憎悪はあれど苦悩と愛情も垣間見えていた。一方イレーネに対しては、純粋な憎悪が向けられ続けた。その眼差しが怖くて、怖くて、イレーネは今でも父にものが言えない。



 父の詰問によりすっかり気落ちしたイレーネは、ホールから離れた場所にあるテラスで一人夜風に当たっていた。月が出ているおかげで、見下ろせば壮麗な庭園の夜の姿が照らし出されている。白い彫像は冴え冴えと暗闇に浮かび、噴水の流水が月光を跳ね返して星明りのごとく散らす。

 イレーネはこれまで何度か、王宮の庭園を眺める機会に恵まれてきたが、昼間より夜のこの静かな光景の方が好きだった。


 背後の開け放たれたテラスの出入り口の廊下から、人の気配を感じ振り返るのと、男の声がかかったのは同時だった。


「伯爵夫人?」


 少し驚いたように眉を上げている、茶色い髪と紫色の瞳の男性。普通の貴族の青年に見え、誰だかすぐには分からなかった。頭の中で、後ろへ撫でつけた髪を下ろして盛装を白いローブに変えれば、ようやく見覚えが出る。


「まあ、フーベルトゥス様」


 彼は王宮勤めの魔術師で、先日クリストハルトの治療と顔の修復をしてくれた人物である。イレーネは王宮の役人など四角四面な人間だろうと思い込んでいたのだが、彼は非常に親切だった。


「先日は十分なお礼もできないままで――」

「いえ! どうぞお気になさらず」


 深々と頭を下げるイレーネに、フーベルトゥスは慌てて恐縮した。

 そのまま流れで、テラスに二人きりで立ち話をはじめる。


「フーベルトゥス様も参加していらしたのですね」

「ええ。王宮に所属する魔術師は、一代限りですが男爵位を与えられるのです。とはいえ私は平民出身ですし、こういった場は慣れなくて苦手なのですが……」


 フーベルトゥスは気恥ずかしそうに笑った。強大な力を持っているというのに、気安く素直な物言いで好感が持てる。


「上司に、陛下の誕生祝いぐらいは出席しないと、評価を下げると脅されまして」


 本当か冗談か分からない話に釣られて、イレーネはふっと笑みを零した。笑ったのはいつぶりだろうと、明後日のことを頭の片隅で思う。


「――けれど、今夜は、参加してよかったです。夫人とまたお会いできましたから」

「え?」


 突然、フーベルトゥスは真剣な表情で、イレーネをじっと見つめた。


「先ほどまでホールにいたのですが、伯爵は女性陣に囲まれて大人気ですね。こんなにお美しいご夫人がいらっしゃるというのに」


 テラスの柵に置いていたイレーネの手に、彼の手が重ねられる。驚きのあまり振り払いそうになったが、それは失礼ではないかという理性が踏みとどまらせた。


「よく、お似合いです。そのドレス」

「あの……」


 手が、握られる。彼が一歩前に出て、迫ってくる。

 未婚の令嬢なら、常にお目つけ役の親戚の女性が傍にいる。だが、イレーネは既婚者で一人きりだった。男児を産んだ後は自由恋愛に勤しむ貴婦人たちもおり、それに配慮してなのか単に警備の都合か、ホールから外れた場所には人の目が行き届いているとは言い難い。


 イレーネは下がった分だけ、追い詰められていく。


「下ろした御髪と、夫人のお顔立ちも相まって、まるで――」

「そこまでだ」


 鋭い男の声に、二人でテラスの入口へ顔を振り向ける。そこに立っていたのは、ホールにいたはずのクリストハルトだった。

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