05.改心したかもしれない夫(1)
「奥様、もう少し旦那様にお優しくして差し上げてもよろしいのではありませんか?」
鏡台の前に座るイレーネは、女主人の髪を梳かしながらそう提案する侍女に、鏡面を介して視線を投げかけた。鏡の中の自らの顔には、そんなつもりは全くないと書いてある。
この年若い侍女は最近雇い入れたため、イレーネがこの家の中で以前はどのように扱われていたのか知らない。毎日浴びせられるクリストハルトからの暴言や辱め。愛人と子供の存在。少し悪くなった食事を出される等の、使用人たちからの嫌がらせ。今は無くなったそれらを何一つ知らずに入ってくれば、溺愛してくる美しい夫にすげなくする冷淡な妻に見えるのだろう。
だが、以前のことを彼女に説明する気にはならない。自らが軽んじられていたことを積極的に明かしたくないし、彼女自身は少し遠慮がないだけで明るく朗らかな善良な娘だ。彼女と、クリストハルトや以前からいる使用人たちの間に、妙な気まずさを持たせたくない。
「色々、あるのよ」
だからイレーネは、溜息混じりに曖昧なままで会話を終わらせるしかなかった。
しかし実のところ、彼女の言うとおりクリストハルトと和解するか、悩んでもいた。
イレーネは父と後妻に疎まれており、実家の男爵家に戻れる希望はない。仮に若い段階でそうなれば、どこかの年老いた貴族や富豪の何番目かの妻として売り飛ばされるだろう。だから、この伯爵家で生きていき、クリストハルトが急逝した場合に備え、実家に頼らず済むようにしておかなくてはならない。
そのためにイレーネに残された選択肢は二つ。一つ目は、クリストハルトとの間に男児を儲け、その子に将来母を支える意識を持ってもらうこと。二つ目は、子供ができなくても、クリストハルトと上手く暮らして、彼の死後イレーネにある程度の遺産を残す遺言を書いてもらうこと。
相続権のない女の道はこんなものである。どちらもあの男の裁量次第。結局、クリストハルトとの和解が必要なのだ。
とはいえ、必要と理解していても、すぐにできるわけではない。
改心したのかもしれない。今は機嫌が良いだけかもしれない。はたまた、イレーネを騙して楽しんでいるのかもしれない。
これまで散々イレーネを虐げてきた事実を水に流し、本心の見えない彼に応えることが、どれほど怒りと悲しみと屈辱を覚え、そして将来にわたって不安を抱かせる行為か、誰も理解していないだろう。以前からいる使用人は、気軽に「良かったですね」などと言い放ってくる始末だ。
なぜあんな男の改心を信じなくてはならないのか。なぜ、あれほど傷つけられたイレーネが、許さなくてはならないのか。なぜ許さなくては、自分の立場はここまで脆いのか。
イレーネがこの心を消化するには、まだ時間が足りなかった。
◆
クリストハルトが回復してからしばらく。社交の時期も既に半分以上過ぎた頃だったが、二人は馬車で王都へ移動していた。
通常はもっと早くに王都の屋敷に移るのだが、今年はクリストハルトの事故によりそれどころではなかった。ただ、もう回復したし、社交の時期の後半に開催される、国王の誕生祝いを兼ねた王宮での舞踏会ぐらいは顔を出しておかなくてはならない。
長い距離を馬車で旅した末に、ようやく王都の屋敷の前まで辿り着いた。
「イレーネ、気をつけて」
先に降りたクリストハルトは、当然のようにイレーネに手を差し出す。
まだ彼を受け入れる気にはならないが、積極的に機嫌を損ねてはならないと考えてもいるイレーネは、しぶしぶその手を借りながら馬車から降りた。
大半の使用人は所領の屋敷から連れてくるが、いくらかは王都で雇っている。そのため、去年とは全く違う夫婦の様子に、王都の屋敷の使用人たちは目を丸くした。やはり夫はおかしい。居心地の悪さはさておき、イレーネは出迎えた使用人たちには共感しか湧かなかった。
すぐ飽きるか化けの皮が剥がれるかと思っていたのに、クリストハルトは未だにイレーネの機嫌を取り、大事に扱った。
王都の滞在期間中、仕事で出かける以外は、イレーネを流行りの店へ連れ出したり、宝飾品を贈ってきたりした。行きたくなかったし、欲しくなかった。
極めつけは、主に貴族を顧客とした高級な仕立て屋を屋敷に呼ばれた時のことだ。
突然呼んだわけではなく、前々からクリストハルトは店側とやり取りしていたようだ。挨拶を済ませると、早速仮縫いまで進んだドレスが出てきた。採寸の情報は侍女が横流ししたのだろう。
あまりはっきりした色の服は苦手なのに、使われている生地は濃い緑を基調にしている。そもそも、クリストハルトからご機嫌取りのために高価な贈り物をされるのは、魂胆が見え透いていて、いい気分がしない。物でこれまでのことを無かったことにできると思われているのだ。
これを着て翌月末に控える舞踏会へ出席しなくてはならない。仮縫いのドレスを試着したイレーネの隣で、流行や服飾に詳しいクリストハルトは仕立て屋にあれやこれや注文をつけている。時折意見を求められることもあったが、イレーネは「夫に任せます」と平坦な声で返した。彼がこのドレスにしたいと思ったのなら、もうそちらで好きにやってくれればいい。
◆
そうこうするうちに、舞踏会の日になってしまった。
参加者である王侯貴族が集った王宮の大広間は豪華絢爛で、高い天井には軽やかに舞う天使たちが描かれており、舞踏会の会場に相応しい装飾となっていた。楽団がダンスの合間に会話を邪魔しない緩やかな曲を奏で、社交界に入りたての貴族の若い子女の緊張を解きほぐしてくれる、明るく優しい空間だ。
それに対して、イレーネは全く浮かれた気分になれなかった。
「イレーネ、軽食は? 何か飲み物を取ってこようか?」
「いいえ。食欲はないし、喉も渇いていないの」
たったの一往復で終わった会話。楽団が居てくれて助かった。無音にならない。
一曲目は、仕方がないので従来通りクリストハルトと踊った。慣習的に仕方がないことだ。だが二曲目からは断っている。断られたクリストハルトは、どこへも行かない。行ってほしいのに。ただただ、二人でホールの端に突っ立っている。
お互い、相手との雑談の仕方が分からない。イレーネの方には会話をする気もない。クリストハルトは雑談ができないから、常はイレーネの様子を聞くだけの広がりの無い会話を持ち掛け、それか贈り物をして機嫌を取ろうとするのだ。
クリストハルトには、会話まで望まないで欲しい。既に今夜は、彼の希望どおりの装いをしてきた。
流行りだからと言われて、いつも結い上げている髪は下ろしたし、先日勝手に作られたあまり趣味ではない緑のドレスも身に着けている。
緑を基調にしたそのドレスは、上半身は肩先まで露わになるほど大きく襟が開いており、ぴったりとした袖も相まって体の線が明確に出るようになっている。スカートは、帯で留めた胸のすぐ下から自然と広がり上半身とは対照的だ。繊細な蔦の模様がびっしりと刺繍された幅の広い襟が特徴で、それが首肩へ視線を集めるようになっている。
普段、壁の花からテラスの花へ迅速に移行すべく、目立たない淡い色合いのドレスを選んでいるのに、今日はこのようなはっきりした色だから、薄っすら顔見知りの人々からは「今夜は印象が違いますね」という言いづらい真意を隠したであろう感想を貰ってしまった。もう疲れたイレーネに、これ以上何をさせたいのか。
「フェルゼンシュタイン伯爵」
そろそろ四曲目が始まろうかという時、イレーネより年上らしき女性がクリストハルトに声をかけにきた。
「これは、ライヒェンベルガー侯爵夫人」
黄金のように輝く金髪が美しい、魅力的な女性だ。
クリストハルトは身を屈めて彼女の手の甲に口づけ、挨拶をした。一方イレーネはこれ幸いと、スカートを軽く持ち上げて挨拶してから、不自然にならない程度に後退って距離を取る。
「ご無沙汰しています。よければ一曲踊ってくださらないかしら」
「それは……」
クリストハルトはイレーネの方をちらりと見遣った。女性側から誘うことも断る場合があることもこの国では一般的であるが、爵位が上の侯爵夫人から誘われて拒絶などできないだろう。もしかすると妻が不満そうにすれば断れるのかもしれないが、イレーネにそんな気は全くない。
「いってらっしゃいませ。私、足が疲れたのでどこかで座って休んで参りますわ」
「あら、ありがとう伯爵夫人。では行きましょう、クリストハルト」
イレーネが促せば、まるで昔からの知り合いかのように他人の夫の名を呼んだ侯爵夫人は、腕を組んで彼と共にホールの中央へ消えていった。
ちなみにクリストハルトは、深い付き合いは愛人一人に絞っていたが、このような社交会では大勢と愛を交わしていた様子だ。何せ飛びぬけて美しい顔をしているから、引く手あまたで選び放題だ。おそらく先ほどの侯爵夫人も過去に付き合いがあったのだろう。
「あら、フェルゼンシュタイン伯爵夫人は、今夜もお一人のようね……」
通りがかった女性たちが一人きりのイレーネを見て、話しかけるでもなく仲間内でくすくすと笑い合う。
イレーネが社交界でどう思われているかというと、親の金の力で美しい伯爵を手に入れた、成金男爵家の娘である。皆が欲しがっていたフェルゼンシュタインの至宝を、横から掠め取った。そういうことになっている。
誰も先に獲りに行かなかったのなら、彼女たちも本当は気づいていたのではないだろうか。彼が隣で置物にするのにはちょうど良くとも、夫として共に暮らすには向かない人間だと。
ある意味貧乏くじを引かされた結婚後、たった一曲踊ってあとは放置されるイレーネの姿と、クリストハルトが夜会のたびに前述の主張を吹聴したことと、女性たちの嫉妬が相まって、イレーネはすっかり孤立していた。
いつぞやか、クリストハルトが周囲へ語っていたイレーネの話を、女性たちがわざわざ本人に教えに来てくれたことがある。『土砂降りの日でなくては隣に立たせられない女』。疎ましげに、吐き捨てるように言ったそうだ。
クリストハルトの愛人は、彼曰く輝く黄金色の髪の豊かな女性らしい。一方イレーネの金髪は色味が薄い。遠目には白髪と違いがわからないという。彼にとっては薄汚くて見苦しく映る。だからおそらく、他人の顔も見えないほどの土砂降りの日でなくては、美しい自分の隣には立たせる気にならないと言いたいのだろう。イレーネはどんな天気であっても夫の隣になどいたくないが。
それはさておき、クリストハルトを侯爵夫人に押しつけることに成功したので、イレーネは足早にホールを抜け出した。