04.豹変した夫
クリストハルトの体調は、徐々に回復していった。
相変わらず呻くばかりで喋ることはなく、欠損の所為で口から零れはするが、流動食だけでなくある程度固形の物も食べられるようになり、自分で上体を起こせるようにもなった。関節や神経が正常に治癒されなかったことで体を動かしづらいようだが、少しずつ、ベッドから出られる時間も出てきた。
体を拭く際などイレーネが触ると嫌がるかと思っていたのに、看病の手には驚くほど従順だった。ベッドから出られない期間の排泄介助だけは頑として受け入れず、男の使用人を呼ぶほかなかったが、それ以外に困らせられることはなかった。
イレーネは体力回復のため庭園を散歩するクリストハルトの歩行を介助しながら、そういえば愛人は見舞いどころか連絡も寄こさなかったな、と過ぎたことに気がついた。見栄を張りたがるので彼も愛人にこんな姿を見せたくはないだろうが。
もう翌日には、整形の魔術を施してくれる魔術師が来ることになっていた。クリストハルトがイレーネを傷つけない日は、これが最後になる。ひと月の間休んだ心は、明日からの地獄の再開に胃を痛ませた。
翌日、新年早々に訪ねてきたのは、夫に治癒魔術を施してくれたあのフーベルトゥスだった。クリストハルトの絵姿を見ながら、その秘術であっという間に彼の顔を元通りにし、ついでに体の変に癒着した箇所など動かしづらくなっていたところも治してくれた。
整形の魔術は本来頭部だけを対象にしていて、許可されていない部分へ施すことは規則に反する。だから内密に、と念を押され、同時に力不足で体の傷跡まで消せなくて申し訳ないと詫びられた。
彼の親切は一応クリストハルトにも話しておかなくてはならない。自分の利益になりそうな相手との付き合いは大事にするので、密かに謝礼でも手配することだろう。
そうして治した場所が落ち着くまで待ってから包帯を外すと、クリストハルトの顔は元通りになっていた。
冷え切ったイレーネの心情は、喜ぶ使用人たちの反応を白々しく感じさせた。再び、この屋敷でイレーネだけが孤独で疎ましい存在になる。
世話を受けるだけの物言わぬ大人しい病人だった存在が恐ろしい夫に戻った現実に、イレーネは諦念を心に行き渡らせるために目を伏せた。また、死んでくれたらよかったのに、という願望が甦ってしまう。
「旦那様?」
衣擦れの音と、怪訝そうな使用人たちの声。
異変に気づいたイレーネが顔を上げると、クリストハルトがベッドの端に腰かけ、立ち上がるところだった。
フーベルトゥスに治してもらった体の動きを確認するためかと思われたが、違った。そのまま、イレーネの方に真っ直ぐ歩いてくる。昨日までは介助がなければ立ち上がることも難しかったのに。
看病の間の不手際を怒鳴られるのか、皆の前で陰湿に責め立てられるのか。イレーネは身を竦ませた。
無意識に後ろへ下がった時、後方にある、存在を忘れていた椅子にぶつかった。
「あっ……!」
足を取られ、傍のテーブルに掴まろうとしたが持ち直せない。
倒れる。思わず目を瞑った時、何かにぶつかられるような衝撃があった。
なぜか、倒れていない。そうなりそうな姿勢のまま、止まっている。
「……え?」
恐る恐る瞼を開ければ、クリストハルトの青玉の瞳と視線がかち合った。
イレーネの手首を掴み、腰に回している腕は、彼のもの。イレーネは、クリストハルトに抱き留められていた。
「……っ、……っ!」
触られたくない。どうにか離れようともがくイレーネの体を、クリストハルトは慎重に起き上がらせた。
ようやく自分の力で立ち直したイレーネは、安堵の息を漏らしながら、テーブルに手を突く。
「イレーネ」
クリストハルトの唇が動く。だが、出てきた声は誰のものか。聞き覚えがないもっと低い男の声。
戸惑うイレーネの足元に、クリストハルトはガウンの裾が絨毯につくのも構わず跪いた。彼の大きな手が、空いていたイレーネの左手を掬い上げる。
「この一か月の君の献身と慈愛に、深甚の謝意を」
何を言われているのか、理解が追いつかない。
強張ったイレーネの手の甲に、これまで呪詛しか発しなかった唇で、クリストハルトが口づけた。背筋が粟立つ。
「今まで、すまなかった。これからは私の愛だけを捧げさせてくれ、イレーネ」
この、イレーネを落ち着かなくさせる眼差しで見上げる男は、一体誰なのか。
信じがたい愛の言葉に、イレーネは何の反応もできなかった。
◆
「声は、少しお変わりになったのかもしれません。整形の魔術で大きく動かすと、近い部分も多少影響を受けますから」
フーベルトゥスは、クリストハルトの声の変化をそう説明した。顔面の深い場所までの損傷を治した代わりに、声帯にも何がしかの変化があった。顔の表面や口腔は、元の姿や正常な形があるので目で見て調整できるが、声帯は元の形が分からないので調整は困難だ。
慣れないが、元々夫の声に愛着など全くなかったイレーネは、そういうものかと受け入れた。
謝礼をと引き止めるクリストハルトに、急ぎの用があるとかでフーベルトゥスは長居しなかった。
ついでにイレーネの頭の中も、魔術か何かで弄ってから帰ってほしかった。
クリストハルトはイレーネの献身的な看病に感銘を受けたそうで、これまでの仕打ちを忘れたのか、まるで愛しているかの如く振る舞うようになった。それが気持ち悪くて、得体が知れなくて怖い。かつての夫の所業を忘れさせてくれたら、受け入れられたかもしれないのに。
毎朝、朝食の席に始まり、就寝時に寝室の扉の前で別れるまで、慣れないイレーネからすれば歯の浮くような、そしておそらく普通の夫婦であれば正常な台詞を口にする。
「おはよう、イレーネ。気分はどうだ」
「今日は天気がいい。一緒に出かけないか」
「メインの鹿肉は昼間私が仕留めたんだ。君が好きだったと思って」
「少し暑くなってきたからな……。外へ出る時、日傘は差しているか? 君は焼けるとすぐ赤くなるから、欠かさないように」
「おやすみ、イレーネ。また明日」
イレーネに自分から挨拶をして微笑んで、頻繁に様子を窺い、何かにつけて一緒にいるよう用事に誘う。これまで全く興味がなかったはずなのにいつ知ったのか、イレーネの好物を毎食取り入れるよう料理人に指示し、きちんとした専属の使用人も宛てがわれた。
これまで剥奪されていた女主人としての権限も戻されると、使用人たちのイレーネの扱いは変わった。ただ、クリストハルトのイレーネへの対応の変化と、態度を改めようとしなかった使用人への厳罰を目の当たりにすれば、仮に権限を戻されずとも使用人たちは襟を正しただろう。
気味が悪くて仕方がない。向けられる笑顔は見慣れた嘲笑ではなく、瞳に冷たい色もない。心からの笑顔のように見える。それがまた、一層不気味なのだ。
どうしてたったひと月看病されたぐらいで、あの性根の腐った夫がイレーネに好意を持つというのか。
しばらく経ってから、夕食の席でどういう経緯だったか彼の愛人アデーレの話になった。
「ん? ああ……。彼女との関係は清算した。臥せる私に見舞いどころか手紙の一つも寄こさなかった。私の金以外に興味はなかったんだろう。彼女の求める誠意を示したら、あっけなく去っていったよ」
身分差に阻まれても関係を続けた愛人とは、いつのまにか幕引きがされていた。あれほどイレーネに、彼女の素晴らしさや美しさを陶酔しながら語っていたというのに。
もしかすると、彼の誇る顔やその人格ではなく、イレーネの実家により保たれた財力しか好かれていなかったという事実に、溜飲を下げておけばよかったのかもしれない。だが、やはり豹変したクリストハルトへの違和感が強すぎて、そんな気にもなれなかった。
「ただ、子供には責任を持たなくてはならない」
「そう……」
認知しているからには、庶子にも爵位以外の相続権がある。
また、貴族法の特例で、貴族の夫婦に男児がいない場合、庶子の男児を夫婦の養子に迎え、爵位を継ぐ権利を持つ後継者にできる。クリストハルトは愛人との間に息子が生まれてすぐ、そのための手続きを開始していた。
まだイレーネは、クリストハルトに戸惑うばかりでまともに受け答えできていない。だからこの時の返事も言葉少なだったが、子供の処遇に不満があったわけではない。
愛人とは本人同士の合意で関係を解消できるが、それで子供までなかったことにするのは無責任だ。愛人との別れを聞いて少し心配していたイレーネは、クリストハルトの子供に責任を持つという言葉にむしろ安堵した。
それにしても、夫の改心を信用したイレーネの反応を後から嘲笑するための演技にしては、手が込み過ぎている。ただ、以前からクリストハルトは、人を傷つけるためのことなら比較的頭が回る男だった。これぐらいするかもしれない。切ったという愛人ともまだ繋がっているかもしれない。
しかし、イレーネにそこまで手間をかける理由があるのか。もっと他に、簡単にイレーネを傷つける方法はある。それに、あまりの豹変ぶりに、イレーネが彼にぎこちなく接し、信用していないということは伝わっているはずだ。騙せていない。
では、本当に改心したのか。と受け入れられるほど、夫に傷つけられすぎて出来たイレーネの心の溝は浅くはないし、彼はそこまで単純でもない。
結局、クリストハルトの異常をイレーネは理解できなかった。
◆
邸宅の近くの街へ早朝から出かけていたクリストハルトが戻ってくると、その手には花束が携えられていた。
玄関ホールで執事のベンノと話していたイレーネの元へ、颯爽と歩いてくる。読まなくていいのに空気を読んだベンノは、一礼してからどこかへ立ち去った。
「ただいま、イレーネ」
夫がある意味おかしくなってから、もうひと月以上経つ。それでも彼は未だに、イレーネを視界へ認めると心底嬉しそうに顔を綻ばせるのだ。それを見たイレーネの脳裏に浮かぶのは、夫にされてきた仕打ちの一つ一つだというのに。
「今日はこれを君に」
そうして差し出された花束は白百合だった。咲き誇る純白の花弁が目に飛び込んできて、続いて芳香に包まれる。
「街の花屋で、これが一等美しく咲いていたから」
白百合は、イレーネが最も好む花だ。そして同時に、こと夫との間には、嫌な思い出のある花でもあった。
あれは、二人が婚約した直後のこと。結婚する一年ほど前に、クリストハルトを男爵家に招いた。
クリストハルトは、前々から家同士の付き合いの関係で仕方なく顔を合わせていた幼馴染と婚約させられ、怒り狂っていた。元から彼はイレーネを疎ましく思っている様子だった。この頃まだイレーネは比較的生意気で、クリストハルトを諫めることがあったからだろう。
――それほどまでに私と結婚したかったのか? あの男爵も娘の頼みには甘かったと見える。
――言いがかりです。私には何の権利もありません。父が、そう決めただけです。
――へぇ。それで、自分は姑息な手段で男を手に入れた女では無くなるということか。言い訳がましい!
――何をなさるのです!
――もう顔を見せてやる義理は果たした!
当時、イレーネは庭の片隅で細々と花壇の世話を続けていた。そこには、先日逝った母の好んでいた白百合が植わっている。
一応婚約したばかりの相手が訪ねてくるので、礼儀として何か贈ろうと考え、美しく咲いた白百合で花束を作った。他にイレーネに自由になるものが無かったという事情もあるのだが。
しかし、クリストハルトは花など好きではない。受け取った花束をふんと鼻で笑い、一旦庭園に出してあったテーブルへ置いた。忘れたことにして置いて帰るかもしれない。あとで大事に花瓶に活けよう。
そう思っていた時に先の口論が起き、クリストハルトは花束を地面へ投げ捨てて立ち去った。その背中を、その時すでに彼に仕えていた侍従のヴェルナーが追いかける。
土に汚れた包み紙とリボンに、花束を拾ったイレーネは珍しく泣きたい気持ちになった。白百合は母が好きだっただけの花ではない。彼女が「イレーネに似ている」と褒めて、愛おしそうに世話していた花だ。イレーネにとって白百合は、亡き母との絆なのだ。それを、汚されたように感じた。
「イレーネ?」
苦い思い出の中にいたイレーネは、声をかけられて現在に意識を戻した。
今になって、その白百合を贈ろうとするクリストハルト。イレーネが花束を受け取らないことに、不安げに表情を曇らせている。普段、彼が持ってくる贈り物を、イレーネは礼儀として一旦受け取ってはいた。だが今日は、手が動かない。
代わりに、口が勝手に開いた。
「覚えている?」
昔、イレーネの贈った手作りの花束を、身勝手な憤りのままにごみのように投げ捨てたことを。
もし分からないなら、イレーネが同じことをしてやれば、思い出すだろうか。でも、この百合自体に罪はない。携わった人々は、そんな風に扱われるためにこの花束を作ったのではない。
「ああ、覚えているさ」
イレーネの葛藤が表に出る前に、クリストハルトはそう答えた。
覚えているとは思わなかった。彼からすれば、イレーネにしてきた仕打ちの一つでしかない。イレーネにとって、あれがどんな意味を持つのか、彼は知りもしないはずだ。
だが、彼の眉根を寄せたその表情には、悲しみと後悔が見えた。知らないくせに、イレーネの反応を窺って今になって大事として扱っているのか。
「わかったふりをしないで。ただの、婚約者からの些細な贈り物を受け取らなかっただけのことではないわ。白百合は、母との思い出の花なの。花束一つでも、私にとってできる限りの歓待だった。それをあなたは自分の癇癪に身を任せて投げ捨てたのよ」
言葉が、引き留める間もなく出てくる。心の中に留めるしかなかった訴えが、今になって淀みなく流れてくる。こんなこと、クリストハルトには言えなかった。もっとひどい目に遭うから。
機嫌を悪くするかもしれない。元通りの嫌な男になるかもしれない。それでもイレーネは糾弾してしまった。
イレーネは自分の変化に戸惑った。彼が変わったから、イレーネも何かが変わりつつあるのだろうか。
静かにイレーネの言葉に聞き入っていたクリストハルトは、おもむろに口を開く。
「百合が、君にとって大事な花だということは、知っていたよ。そうでなくては、あれほど大事に触れるはずがない。あれは、花ではなく君がお母上との思い出に触れていたのだと思えば、納得がいく」
その通りだった。そして、それに気づきながら、あんな扱いをしたのだ。
いつ以来だろうか。イレーネの中には怒りが湧き起こる。
「すまなかった」
「やめて……!」
嫌な男だ。散々傷つけられた女が、今さらその改心を喜ぶと思うのだろうか。もしそう思われているのなら、酷い侮辱だ。
「事故の後、あなたは私に感謝しているなんて言って、まるで良い夫かのように振る舞うわ。これほど簡単に謝罪までして……! けれど、私は信じられない。受け入れられない! あなたは今まで、どれだけ私を踏みにじってきたと思っているの!?」
激情のあまり涙が滲んでくる。
そんな顔を見られたくなくて、イレーネは彼の差し出した花束をついに受け取ることなく、背を向け私室へ逃げ帰った。