03.死ななかった夫
翌日、昼過ぎに帰宅するはずだったクリストハルトが、定刻に戻らなかった。
当初何も知らされていなかったイレーネだが、指示を仰ぐこともなく捜索を始めていた使用人たちから、『見つかった』という段階になってようやく報告を受けた。
愛人と息子の住まう伯爵家の別荘からの帰り道、平地からの続きで油断しやすいが、すぐ横が谷のようになっている場所があった。数日前の降雨で緩んだ地面に車輪を取られ、馬車は崖下へ転落してしまったのだ。
探しに出た使用人たちに発見された時、侍従のヴェルナーと御者のテオドールは既に死んでいた。だが、クリストハルトだけはかろうじて息があった。
それらも全て事後報告だ。イレーネはすぐに、重傷の夫が運び入れられた寝室へ向かった。
部屋の前に辿り着くと、丁度扉が開き、見覚えのある初老の男と、白いローブの知らない男が出てきた。前者は伯爵家が懇意にしている医師で、後者は服装からしておそらく魔術師だ。
「先生、夫は……」
「奥様」
医師は慌てて扉を後ろ手に閉めた。室内をイレーネに見せないようにしているのだ。痛ましげな表情を浮かべている。
「旦那様は大変な怪我を負われましたが、治癒魔術が間に合いましたので、もう心配はいりません」
医師が隣の魔術師に目配せした。イレーネが右手を差し出すと、彼はその手を取り、身を屈めて軽く口づけて挨拶を済ませる。
「王宮に勤めております、フーベルトゥスと申します。伯爵夫人」
イレーネより少し年上に見える、茶色い髪と紫色の瞳の青年だ。紫の瞳の人間は、実用に耐えうる域の魔術の素養を持つという。加えて王宮に勤務する魔術師であれば、相当の実力者のはずである。
そのような人材が、一体どうして都合よく居合わせたのか。それは医師がすぐに説明してくれた。
「彼は優れた治癒魔術の使い手ですが、通常の医術も修めるべく、私が王都で開いていた医院へ学びに来ていたのです。その縁で今日は偶然私を訪ねてきておりまして、旦那様の危機に協力してもらえました」
「そうでしたか……。先生、フーベルトゥス様、お二人のご尽力に感謝いたします」
二人に向けて感謝を伝え終えると、フーベルトゥスの紫の瞳が、イレーネをじっと見つめていた。もしや、クリストハルトへの良くない感情を見透かされているのではないかと、イレーネは不安になった。家中の事情を悟られるなど恥でしかない。
その視線のやり取りを知らない医師は、イレーネの謝意を素直に受け取れないと、苦々しく眉根を寄せた。
「奥様、長時間、不安に晒されながら旦那様の無事を願っておられたことは承知しております。その奥様にこのようなことをお伝えするのは、大変心苦しく思いますが、どうか気をしっかり持って、お聞きください。旦那様の傷は塞がったものの、健康、とは言い難いのです」
医師は、イレーネがこの屋敷でどんな扱いを受けているのか知らない。だから、夫が帰ってこない不安に憔悴し、見つかることを祈って待ち続けたものと思っている。実際には、先ほどようやく全てを知らされたばかりだというのに。
「まず、治癒魔術により傷は塞がりましたが、体力は回復していません。しばらくは療養が必要です」
治癒魔術というものは、外傷を無かったことにするものではなく、自然治癒と同様にただただ傷を塞ぎ治すだけだ。治癒する前に傷口へ触れた雑菌により感染症を引き起こす場合や、傷痕や障害が残る場合もある。また、治癒のための原資は本人の体であるため、その分体力も失っている。治癒したが、直後に衰弱して死ぬこともある。
これはイレーネも認識していることだ。
「そして何より……、旦那様は、お顔の負傷が重く……。今は、包帯で隠しておりますが、会話や食事が難しい状態です」
つまり、クリストハルトの顔面は、あまりの重傷で傷を塞いだ今でも見るに堪えず、発話や咀嚼等の機能も損なわれているということらしい。
「……わかりました、先生」
「あっ、で、ですが、ご安心ください」
イレーネが神妙に頷くと、フーベルトゥスが慌てたように声を上げた。
「治癒魔術では伯爵様のお顔は戻りませんが、幸い、人の姿形を変える特別な魔術があります。悪用が懸念されるため、秘術として習得者を制限しており、今回のような治療を目的とする場合のみに許可が下りる術です。貴族であるフェルゼンシュタイン伯爵ならば問題なく許可されるでしょうし、元のお顔の分かる絵姿もございます。一番修復の難しい眼球は幸いにもご無事ですから、いずれ、機能面を含め、この整形の魔術で元に戻ります。どうか、気を落とされないでください」
そんな秘術があるとは知らなかったイレーネは驚いて、喜んで見せるなどの反応をしばし忘れた。おそらく平民層には許可が下りづらいため、不満を生じさせないよう秘密にして、必要になった貴族等の特権階級にだけ明かしているのだろう。
フーベルトゥスは捲し立ててから、目を丸くするイレーネを見て言葉を尻すぼみにさせた。隣の医師が不自然に咳払いをしたので、黙り込む。
「これから、私と彼で王都へ向かい、整形の魔術の使用許可を申請して参ります。後ほど委任状をいただけますか?」
「わかりました。執事に用意させます」
「私は彼より先に伯爵領へ戻ってまいりますので往診に伺いますが、許可が下りるまでおよそひと月はかかります。その間、可能な限り旦那様のお傍にいて差し上げてください。体のおつらさは勿論、精神的にも不安な期間になりますので、奥様の支えがあれば旦那様も心強いでしょう」
「はい……」
むしろ、イレーネが枕元にいれば不快に感じ、愛人に見舞いに来てほしいと思うだろう。だが医師にそんな内情を説明するわけにはいかないので、曖昧に返事をするしかなかった。
◆
執事のベンノに作らせた委任状へ最後に署名して医師たちに渡すと、イレーネは見送りを固辞する彼らを送り出して夫の寝室へ戻ってきた。
医師に重傷だと聞かされたことを抜きにしても、寝室の中に入るにはためらいがあった。クリストハルトを前に、どのような感情を持ち、どのような表情で傍にいればいいのか分からなかったからだ。
しかし、いずれ彼は回復する。話せるようになった時、イレーネが彼の寝込んでいた期間に関わりを断っていれば、また延々と責められるだろう。普通の妻であればすることをしておかなくてはならない。
寝室の扉に手をかけ、溜息をついてから中へ入る。
室内には使用人が何名か残っていた。応急手当に使った血のついた包帯や布をどっさり抱えている。丁度片づけを終えて、出ていこうとしたところだったようだ。
大概の貴族の邸宅がそうなのだが、財産があり余っていない限り、表に出すような見栄えを重視された使用人以外に暇はない。つまり、例えば寝込んだ主人の看病等、平常業務以外を追加で担う余裕は基本的にないのだ。この一連の対応も、彼らの他の仕事の手を止めて行われていた。
イレーネはこの屋敷のほとんどの使用人に見下されている。そして使用人の誰もが、ここまでの重傷を負って、おそらく気の立っているクリストハルトと一緒になどいたくない。
そういう事情も相まって、イレーネがクリストハルトの看病をすることになった。断ろうにも、権限を奪われた女主人に拒否権はない。向こうが衣食を握っているのだから。
使用人たちが退室し、寝室に二人きりになる。イレーネはベッドの傍らに置かれた椅子に腰かけた。
ベッドで眠るクリストハルトは、誰だかわからなかった。呼吸にだけは配慮されているが、頭部が包帯で余すところなく覆われているのだ。
異様な姿に、普通なら包帯の下の怪我の凄惨さを想像して怖くなったり、痛ましく思ったりするだろう。しかしイレーネの心は動かなかった。そんなことより、夫が自分で動けるようになるまで看病をしなくてはならず、後から責められないためにはどの程度やればいいのだろうかとか、やり過ぎたらそれはそれで媚びていると文句を言われるのではないかとか、悩みばかりで彼の体への心配は一切湧いてこなかった。
(薄情かもしれないわね、私)
とはいえ、常々死んでほしいと思っている相手が死に瀕したからといって、突然心配できるほど柔軟でもない。
「もしあなたが今死んだら、容体が急変したと思ってもらえるのかしら。それとも、私がやったと思われるのかしら」
口にしてしまってから、イレーネは自分の発言に焦り周囲を見渡した。いつもクリストハルトの傍に控えている侍従のヴェルナーの姿を探したのだ。あの男は主人に告げ口をする。だが、いないことを確認し、ほっと胸を撫でおろしてから、そもそも彼は死んだのだと思いだした。
今の緊張が、イレーネを少し冷静にしてくれた。
イレーネは治癒魔術に対して深い理解があるわけではない。だが、具合は悪くとも素人で十分対応可能と判断したから、医師たちは伯爵家を後にしたのだ。容体の急変は起きないのだろう。夫は安静にしていれば、ひと月後には必ず回復する。淡々と看病を続ける以外にできることはない。
それに、仮に勝手に死んでくれたとしてもイレーネの状況は悪くなるのだ。夫の財産は愛人の子に相続され、子供のいないイレーネは実家へ帰される。もう使い捨てたつもりの娘が戻っても、父は歓迎などしない。あまり手間をかけることもなく、金のある老人の後妻等として売り飛ばされるだろう。そして父は、その嫁ぎ先でイレーネが虐待されて死のうが、気にも留めない。
結局、愛人の子を養子に迎えイレーネに居場所が無くなっても、クリストハルトにどれだけ虐げられても、あの男が男爵家の財に期待してくれている限り、ここが最も安全なのだ。
(でもそれは、生きているだけ……)
代わりに心は擦り減って、死んでいくのだろう。
◆
クリストハルトの意識は、三日後にようやく戻った。
包帯の中からくぐもった呻き声が漏れてきて、ベッドの横で編み物をしていたイレーネは枕元へ身を寄せて呼びかけた。
「クリストハルト、聞こえる?」
「……、……」
上手く話せないようだ。イレーネは水を飲ませるために、彼の上体を起こさせることにした。声をかけてから、背中の下へ手を入れて、ぐっと上体を持ち上げる。痛むのか、接する腕から強い呻き声が響いた。すぐに背もたれ代わりのクッションを後ろへ詰めて、寝姿勢に近い形で座らせる。
「吸い飲み……、お水よ」
ベッド脇に準備してあった吸い飲みの口を、包帯の隙間からそっと差し込んだ。ちらりと見えた唇は、欠けていた。
治癒魔術でただ塞がっただけの凄惨な事故の痕を垣間見て、イレーネは目を逸らした。介助に意識して集中し、ゆっくりクリストハルトに水を飲ませる。
夫はたった一口を飲み下すのにもぎこちなく、長い時間をかけた。だが喉は渇いていたようで、ゆっくり嚥下を続ける。
「あなた、馬車で事故に遭ったのよ。……ヴェルナーとテオドールは、助からなかった。葬儀は私が参列したわ」
その間、イレーネはクリストハルトに事情を説明した。事故に遭い、重い怪我を負ったこと。運よく駆けつけてくれた魔術師による治癒魔術のおかげで、傷は塞がったこと。しかししばらく療養が必要なこと。顔については、整形の魔術をひと月後に受けられるはずであること。
子供の頃から仕えていた使用人が死んだと聞かされても、あまり反応は見られなかった。
彼らの葬儀の場でイレーネが対面したのは、遺体が見えないほどの大量の白い花を敷き詰められた棺桶だった。事情を知らない参列者に顔を見たいと頼まれ、「潰れていて見せられない」と泣き崩れたテオドールの遺族の姿が目に焼きついている。あの光景を知らず、ただ死んだと伝え聞いただけのクリストハルトでは、反応が薄いのも致し方ないのかもしれない。
わざわざ、クリストハルトの顔もそうなっていると教える気はない。癇癪でも起こされては困る。
クリストハルトが口を離したのを確認して吸い飲みを戻すと、イレーネは自分がいる方とは逆の、彼の顔の右側の包帯が濡れていることに気がついた。頬の辺りに水が染みている。
零したのかと思ったがそうではなく、唇どころか右頬の一部も口腔が露出するほど欠損しているのだ。だから、口へ含んだ水が漏れた。
「……包帯、替えましょうか」
濡れたままでは不快だろう。側面の結び目に手をかけると、クリストハルトは嫌がるように顔を背けた。
「でも、濡れてるわ」
「……ぅ、……」
痛み、まともに動かないはずなのに、必死にイレーネに背を向けて座り直した。たったそれだけで、はあはあと息が上がっている。
また手を伸ばすと、今度は逃げない。どうやら、顔を見られたくなかったようだ。あのまま正面を向いた状態で包帯を外せば、傷痕の残る顔をイレーネに見られることになる。
「……外すわね」
フェルゼンシュタインの至宝と褒めそやされたその顔が一時的にでも跡形もなく損なわれていることや、それを普段蔑んでいる妻に見られることが、我慢ならないのだろう。
イレーネは後ろから包帯を外し、彼の顔がどうなっているか視界に入れることなく新しいものと取り替えてやった。
その後、クリストハルトをまた寝かせると、イレーネは一旦部屋を退室した。病人食として具の無い薄めのスープを用意するよう、言いつけに行くためだ。
ここからひと月、大変な暮らしになる。ただ、それについてイレーネに優越感や恩着せがましい気持ちは湧かなかった。わけあって実家で病床の母を看ていたので、男の体を支える苦労はあれど、何をすればいいかはおおむね分かっている。また、彼が自らの尊厳を守りたがって、それを許容するためにイレーネの手間が増えても、ただの作業として受け入れられた。
それよりイレーネは安堵していた。この分なら、ある程度回復し、顔の修復が行われるひと月後の終わり間際でも、クリストハルトはまともに動いたり話したりできないだろう。つまり、イレーネが暴言などで苦しめられる心配はない。
この一か月は、イレーネにとって束の間の休息になりそうだった。