23.生き直す夫妻
イレーネに全てを語り、伝えるつもりのなかった秘めた思いまで吐き出してしまったヴェルナーは、彼女を書斎へ閉じ込めた。イレーネが、彼女を欺き苦しめてきたヴェルナーに対しほんのわずかにでも同情してしまって、これからすることの邪魔をしにこないようにだ。
今、伯爵家に王宮の魔術師フーベルトゥスが訪ねてきている。この男はヴェルナーの負傷を治し、騙されて顔をクリストハルトそっくりに修復してくれた恩人だ。しかしイレーネに下心があるようで、夫が偽物だと気づいた彼女の依頼で血縁確認の魔術を執行するなど、異常に協力的だった。
血縁確認でヴェルナーの比較対象にしたのは、父方である伯爵家の血筋だけだった。クリストハルトの異母弟であるヴェルナーであれば、問題なく同じ結果が出る。イレーネは母方とは全く面識がなく、かつ、彼女はそれなりに体面を気にする女性なので、秘密を守ってくれる伯爵家の親戚にしか頼まないと踏んでいた。
クリストハルト本人であると判定され、居合わせた伯爵家の親戚たちはそれを素直に受け入れた。しかし、イレーネから事前に話を聞かされていたからか、フーベルトゥスはまだ疑っている様子だった。
その疑念が訪問へと至らせたのだろう。目障りな男だ。だが、今回に限っては丁度良かったのかもしれない。
ヴェルナーは先ほど泣いてしまったせいで、そのままでは顔を見せられないと考え、私室に寄って身なりを整えてから応接室へ向かった。
「お待たせした」
ソファに座って待っていたフーベルトゥスは、ヴェルナーが現れると立ち上がって挨拶をしてきた。今日は白いローブ姿だ。
「突然お伺いして申し訳ございません。近くまで来たものですから」
「魔術師殿は私の命の恩人だ。歓迎しよう」
テーブルを挟んでお互い腰を下ろし、笑い合いながら形式的な会話を交わす。フーベルトゥスの目は笑っていない。やはり疑っている。
「あれから体調はいかがですか」
「あなたの治療のおかげで何不自由ない」
「それはよかった。ところで、今日は奥様は……」
彼は、ヴェルナーとイレーネに会いに来たのだ。それがヴェルナーだけが応対していることに、暗に探りを入れている。
「申し訳ない。妻は体調が優れず休んでいる。あなたが訪ねてきたことは後で話しておこう」
「そうでしたか。お大事にとお伝えください」
ヴェルナーは遺言書により、イレーネの将来を守った。クリストハルトになりすました本来の目的は既に果たされている。彼女の夫のままでいたい、彼女の愛がほしいという私欲に基づく行動は、もうやめることにした。イレーネが耐えきれないほど苦しめてしまったことで、ようやく自制できたのだ。
それで当初は、イレーネに遺言書を託して、事故に見せかけて自殺するつもりだった。だが、偶然にもフーベルトゥスが訪ねてきたため、予定を変更することにした。
周囲を欺いて貴族のふりをしたこと。老執事のヨーゼフや、クリストハルトの愛人アデーレを殺したこと。自分で終わりにするのではなく、正しい裁きの元に罰を受ける。そうしろという天啓が、この魔術師を引き寄せたのだろう。
「先日は、妻が迷惑をかけた。改めてお詫びしよう。申し訳なかった」
「いえ、お気になさらないでください。誤解が解けてよかったです。本当に、よかった……」
そう言いながらも、フーベルトゥスの眼差しは、ヴェルナーの些細なほころびも見落とすまいとしている。ただ、流石のこの男も、外見から真偽を確かめようとは考えていないだろう。一方で、確実と目された血縁確認の魔術は既に失敗している。他にどんな策を持ってきているのか。
ヴェルナーは、その策に嵌まるつもりだった。ここで即座に自分は偽物だと宣言すれば話は早いが、それではなぜ今になって打ち明けたのかという横やりが入る恐れがある。そこでヴェルナーの改心やイレーネへの献身まで暴かれては、『クリストハルト』が書いたはずの遺言書の真贋に疑義が挟まれる。
だからヴェルナーは、クリストハルトを妬んでその地位や財産を奪った強欲な悪人として、他人の手で正体を暴かれなくてはならない。それをフーベルトゥスに委ねることに決めていた。
「ところで……」
フーベルトゥスの紫の瞳が細められる。王宮勤めの魔術師となれば、治癒魔術のみならず、人を傷つける攻撃的な魔術も扱えるはずだ。この男は、何かあればヴェルナーを容易に制圧する力がある。
「血縁確認の際に立ち会われた、ノイシュテッター伯爵。フェルゼンシュタイン伯爵の従兄弟だそうですね。先日またお会いする機会がありまして、昔のことを聞きましたよ」
「ほう、どのような」
「二人で大人たちについて狩猟へ出た時に、怪我をなさったと。獲物に放った矢が掠って、左腕に傷が残ってしまった。フェルゼンシュタインの至宝の顔に傷がつかなかったのは不幸中の幸いだと仰っていました」
「……」
どうやら。これが罠のようだ。
本物のクリストハルトはそのような事故に遭っておらず、傷もない。だがフーベルトゥスは、目の前の偽物が少年期のことまでは知らない前提で鎌をかけている。
現在ヴェルナーの左腕は、馬車の事故で負った傷が広範囲を覆っており、彼もそれを認識している。だから、ヴェルナーが「そんなこともあったが、馬車の事故の負傷でその古傷はなくなってしまった」と答えて引っ掛かることを期待しているのだ。正解は「そんなことは起きていない」という答え。
ヴェルナーは、クリストハルトの顔でほほ笑んだ。自信ありげに、事故の傷のせいで古傷がないという言い逃れをする、偽物のつもりで。
そうしてヴェルナーが間違えようとしたとき、応接室の扉が叩かれた。
「失礼します」
不躾にも入室の許可を返す前に、部屋の外から扉が開かれる。この屋敷でそれができるのは、主人を除いて一人しかいない。
「イレーネ……!」
確かに書斎へ閉じ込めたはず。ヴェルナーは演技も忘れて動揺した。一体どうやって。
そんなことより、彼女が余計なことを口にすれば、遺言書が偽造されたものだと推測されてしまうかもしれない。ヴェルナーを偽物だと告発することは引き続き構わないが、遺言書に瑕疵が生じることだけは避けなくてはならない。
「ご無沙汰しております、フーベルトゥス様」
イレーネは部屋の中まで進み出ると、フーベルトゥスに平然と挨拶した。
だがこれは不正解だ。彼女がすべきは、偽物のクリストハルトに怯えながら、フーベルトゥスに助けを求める演技だ。ヴェルナーが彼女を害さないと理解してくれたとしても、その演技がなくては遺言書が無駄になる。
それを彼女に指摘することもできず、ヴェルナーは焦り、手を握りしめた。
「伯爵夫人、起き出して大丈夫ですか。お加減がよろしくないと伺いましたが……」
「ええ、お気遣いありがとうございます。どうしてもお話ししたいことがあって、下りてきました」
そう言うとイレーネは、フーベルトゥスに対して深々と頭を下げた。
「伯爵夫人……!?」
「先日は、お騒がせして申し訳ありませんでした」
すっと顔を上げた彼女の表情は、憂いを帯びていた。
「私、結婚して三年も経つのに子供ができなくて……。貴族の妻としての務めを果たせず、長らく気に病んでいたのです。そんな中、夫が命を落としかけて……。錯乱して、ありもしないことを口にして、どうかしていました」
違う。何一つ正しくない。
イレーネは真実を白日の下に晒すため戦ってきたのだ。屋敷の使用人たちからも、おかしくなったと扱われて、それでも一人でヴェルナーの正体を暴いて見せた。それなのにこんなことを言っては、彼女にかけられた虚言の濡れ衣が、事実になってしまう。
だが、何も言えないヴェルナーに、イレーネはふわりと笑いかけた。
「今はもう、大丈夫です。夫が辛抱強く支えてくれて、やっと、新しい命を授かりましたから」
イレーネは自分の腹部にそっと手を当てる。そんなはずはないが、ヴェルナーは動揺を隠した。
「そ、そうですか。おめでとうございます。では、以前伺った、伯爵ならご存じのことを誤解していたという件も、解決したということですね?」
唖然としていたフーベルトゥスは持ち直して、念を押すように問いかけた。それは夫が偽物だという根拠のことだろう。
「ええ。行き違いがあったようです」
イレーネがここまで役者だとは、ヴェルナーは知らなかった。それが嘘だと知っているからこそ、嫋やかに微笑む姿は堂々としてさえ見える。
まだ疑いの目を向けていたフーベルトゥスだったが、イレーネにここまで言われて、そして結局ヴェルナーから失言も誘い出せなかったからには、引き下がるしかない。
「わかりました……」
「私の具合が良くなって、天気も回復したら、夫と二人で町まで出かけようと話していたんです。フーベルトゥス様もご一緒にいかがですか?」
「いえ、私はこれで失礼します」
そう誘われて一緒に行く客人はいないだろう。フーベルトゥスはイレーネに誘導された通り、もう帰ると答えた。
そうして彼は、胡乱げな目でヴェルナーたちを見ながら、家人に送られて帰っていった。
◆
フーベルトゥスを送り出し、二人で応接室へ戻ってきてから、ヴェルナーはイレーネに詰め寄った。
「イレーネ……! どういうつもりだ。一歩間違えれば、遺言書が偽物だと露呈していたぞ!」
ヴェルナーが偽物だと暴かれれば、事故時点に遡ってクリストハルトの財産が相続される。役人であるフーベルトゥスにヴェルナーからイレーネへの配慮を悟られれば、相続の拠り所となる捏造した遺言書にも疑念が差し挟まれただろう。そして遺言書が生前のクリストハルトの手で書かれたことにする材料である、事故で紛失されたはずの指輪印章は、先ほど彼女に渡したばかりであることから、まだ持っているか、少なくとも付近にある。それが見つかってしまっていたら、クリストハルトの財産はイレーネに渡らず、何も持たない彼女は実家へ帰る羽目になっていた。
全てが無駄になるところだった。
ところがイレーネは、詰め寄ったヴェルナーを睨みつけると、その頬を張り飛ばした。
「……!」
身長差と力の差もあってまるで痛くなかったが、イレーネの初めての行動にヴェルナーは驚愕して言葉を失った。
「どういうつもりだなんて、それは私があなたに言いたいことよ!」
声を荒げるイレーネの目の端には、涙が溜まっている。
「あんな話をして、私に何も言わせずに自分で勝手に終わりを決めて……! それで私が心から自由になれるとでも思っているの!? 私にあなたの思いや人生を背負わせたまま消えるなんて、無責任にもほどがあるわ!」
「イレーネ……」
「私を助けるためにクリストハルトになりすまして、そのために自分で、顔を……。更にそれを隠すために……、人も殺して……。それほど重いものを私ひとりで抱えて生きていけるはずないでしょう」
イレーネは溢れる涙を指で払っていたが、徐々に追いつかなくなり、やがて顔を手で覆って嗚咽まじりに思いを吐き出すようになった。
触れることを許されてなどいない。それでもヴェルナーは、堪らなくなってイレーネを掻き抱いた。咽ぶイレーネの肩の震えが、胸に伝わってくる。
宥めるためにイレーネの背中を撫でようとして、ヴェルナーはあることに気がついた。彼女のドレスの後ろの裾が黒く汚れている。それに、無理に裾を結んで纏めたようなしわもついていた。
よく見れば、スカートに隠されて分からなかったが、イレーネは裸足だ。素足には泥汚れがついている。
「君、靴は……」
少し落ち着いたイレーネは、まだしゃくりあげながらヴェルナーを見上げた。
「書斎に置いてきたわ……。扉は開けられないから、カーテンを結び合わせて、それを伝って窓から外へ下りたの」
「なんだって!?」
書斎は屋敷の二階にある。確かに、結んで繋げれば窓から地上へ下りられるであろう長さと枚数のカーテンはあった。しかし一歩間違えれば大怪我を負う。スカートの裾を結んで足を動かしやすくしたのだろうが、安全とは言い難い。
「そんな危険なことを……!」
「書斎に鍵をかけたあなたに言われる筋合いはないわ」
「それは、君のために……。君は私が怖くないのか」
彼女には、ヴェルナーが何をしてきたか全て説明した。その上で先ほど、『クリストハルト』をやめることを阻止したのだ。ヴェルナーがクリストハルトのままで居続けるなら、まだしばらくは一緒に暮らすことになってしまう。
体を離して相対すると、イレーネは涙を拭いながらヴェルナーを見つめた。その目には、以前の怯えや敵意はない。
「あなたが偽物だと分かって、怖かった。誰も信じてくれなくて、辛かった。苦しかった。でも、その償い方を自分で決めて、簡単に片づけないで。あなたが人を殺したことは理解しているわ。本来は、法の裁きを受けなくてはならないことも……。けれど、私は、それが正しいとは思えない」
ヴェルナーもそう思っている。殺した彼らには今でも同情や後悔の念は湧かない。法の裁きは、イレーネの前から消える手段としてと、彼女を苦しめたことに対する償いのために受けるつもりだった。
「あなたが改心したクリストハルトのふりをしていた時の言葉が嘘ではないなら、私があなたに抱いた愛情も本物だわ。その後のことがあって、今もあの時と全く同じ気持ちというわけではないけれど……。少なくとも、消えてほしくはない」
イレーネの緑玉の眼差しが、涙の膜で一層光を集めて輝いている。その確かな輝きが、ヴェルナーの諦念に沈んだ心を引きずり出した。
「本当のあなたを知って、整理する時間をちょうだい。すぐに、勝手に終わらせようとしないで。あなたの人生は始まったばかりなんでしょう。それなら、これほど早く手放したりしないで」
この未来へ突き動かされるような、生への欲求と胸の熱さを、覚えている。かつてヴェルナーに自由を掴み取る勇気を示してくれた、あの日のイレーネの眼差しだ。
イレーネの伸ばされた両手が、ヴェルナーの左手を取る。触れた、硬い感触。彼女の左手の薬指に嵌まる、結婚指輪だ。
「この先、私たちの心すら、どうなるのかわからない。それでも、手を取り合って歩んでいくべきよ。だって、私たちは……、夫婦でしょう?」
視線を下ろせば、ヴェルナーの指輪の緑玉が、彼女の指輪の傍に寄り添っていた。イレーネはたとえあの時ヴェルナーがクリストハルトのふりをしていたとしても、この指輪の誓いを信じていると、そう言ってくれている。
イレーネが、ヴェルナーの罪を承知のうえで、ただ隣にいることを許してくれるのであれば。
ヴェルナーはイレーネの手を、そっと握り返した。涙の粒が彼女の手にぽたぽたと零れ落ちるが、ヴェルナーは拭いもせずに、イレーネへの誓いの言葉を口にした。いつか、馬車の中で彼女に誓った言葉を思い出しながら。
「君に、償う、一生をかけて……。どうか、私の傍にいてくれ。私の言葉を、聞いてくれ……。君を、愛している……」
その言葉を受け取ってくれたイレーネの微笑みは、やはり神の使いのように美しかった。
◆
三十代になったヴェルナーは、書斎の模様替えをするために、使用人に家具の移動を指示していた。
「旦那様、書棚の下からこのようなものが……」
中身を空にしてから動かした書棚の下から、埃だけでなく、一通の封書が出てきた。
その封蝋の印璽は、今は使われていない古いもの。ヴェルナーはその封書が何か、すぐに思いだした。開いて文面を見てみれば、思った通り。
『我が最愛の妻、イレーネに』
そんな書き出しで始まる、遺言書。あの日、イレーネがどこへやってしまったのか分からなくなっていたが、どうやら落として書棚の下の隙間へ入り込んでしまっていたようだ。
これは、今となっては必要のないものだ。後で処分しようと考えて、ヴェルナーはそれを上着の懐へ仕舞った。
「その棚はもう少し左へ寄せてくれ」
それにしても埃っぽい。床との隙間を掃除できる足のついた家具に変えるべきだろうかと考えつつ、ヴェルナーは開け放たれた窓際へ避難した。
階下から子供の笑い声が聞こえてきて、窓の外へ目を向ける。
庭先で追いかけっこをして遊んでいる、金髪の少年と黒髪の少女。その手前で、日傘を差した女性が二人を見守っている。
視線に気づいたのか、日傘が傾けられる。その陰から顔を見せた愛する人は、ヴェルナーを見止めると、柔らかく微笑んで小さく手を振った。
今もヴェルナーは当然、『クリストハルト』だ。そのことについて、もう悩みはない。妻と二人の子供との幸せを守るために、これからも変わらずなりすましを続けていく予定である。
そうしてヴェルナーは、階下のイレーネに手を振り返すのであった。
了
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