22.欲しくなって失った男
クリストハルトになりすましている男が、彼の腹違いの弟で、そしてその腹心と思っていた侍従のヴェルナーだと知ったイレーネは、窓際に座り込んでいた。
ヴェルナーの過ごしてきた地獄のような暮らしもさることながら、そこから抜け出す道を示唆しただけの自分への釣り合わないほどの献身を聞かされて、足が体を支えきれなくなったのだ。
「どうして……」
彼はイレーネのために、逃げ出すつもりだった伯爵家に残り、事故の際には自分の顔を潰してクリストハルトになり代わったという。イレーネが抱いたのは、驚愕と戸惑いだった。
「あなたとまともに話したのは……、あれっきりだったわ」
ヴェルナーがこうして打ち明けるまで、イレーネはそんな思い出を忘れていた。残っていたのは、彼がクリストハルトに告げ口をするという印象だけ。
「君には、わからないだろう。私たちは井戸の底にいて、私は君の言葉で地上へ這い上がるために掴める場所があると気づかせてもらった。だが、君の井戸には掴めるところが無くて、それを君自身も知っていた。だから君にはわからない。いつか自由になれるという希望が、どれほど私を救い、心を奮い立たせたのか」
事故で既に負傷していたことを抜きにしても、自由を掴むどころか一歩間違えれば死んでいた。加えて、事故後には愛人たちを殺して自らの手を汚している。
それほどのことを、なぜイレーネのために。
「あんなことで……、何の保証もできない無責任なあれだけの言葉で、あなたはクリストハルトの業までも引き受けたの? 一番憎い男の名前と人生を背負わなくてはならないのよ?」
ただ地位や財産を得られるという、恩恵だけではない。クリストハルトのしてきた全てのことに、代わりに責任を取らなくてはならない。
現に、イレーネからはクリストハルトとして責められ続けた。それに、ヴェルナーやイレーネを嬉々として嬲ってきた男だ。他にもどこかで恨みを買っていることだろう。
クリストハルトの古くからの友人は、彼がイレーネに暴言を吐き、使用人代わりに命じられて注いだ酒を頭から浴びせられる様を、大笑いして眺めるような男たちだった。そういった交友関係も引き継いでいくことになる。
何より、誰ももう、ヴェルナーを認識しなくなるのだ。
そんなこと、彼は全て覚悟のうえだったのだろう。イレーネの問いかけに、ヴェルナーはゆっくりと首を振った。
一方で、まるで片手で仮面を外そうとしているかのように、その完璧に模造されたクリストハルトの顔を掴む。
「この世で最も忌まわしい男の仮面を被り、その名で呼ばれることも厭わなかった。鏡を見るたびあの男から受けた仕打ちを思い出すが――」
積年の憎悪と怨嗟は、剥がれるはずのない仮面に爪を食い込ませた。だがすぐに、ヴェルナーは手を下ろし、甦る記憶からイレーネに視線を移す。
「――それでも、君が呼びかけてくれる。私の存在を認識して、私の目を見て呼びかけてくれる。この喜びに比べれば、誰の名で呼ばれようと構わない」
一年にも満たない思い出を噛みしめるように、ヴェルナーは静かに瞼を閉じた。
彼は本当に、それだけで良かったのだろう。先ほどイレーネへ向けた、懇願するような、こちらまで切なくなるような眼差しが、そう感じさせた。
だが、わからない。
「あなたの希望は、伯爵家から逃げ出すことだったはずよ……。その希望を与えたからといって、私のために伯爵家へ残るのでは、本末転倒だわ。それでは、あなたを縛っていた呪いと私の存在は、何が違うというの」
母を最後に、誰もイレーネを大事にしてくれなかった。だからイレーネも、誰も大事にしなかった。心の内側に入れなかった。しばらくそんな調子だったから、新しく出会った人に対しても、心の中で線を引いていた。
ヴェルナーと初めて会話をした当時も、彼にそこまで親身に接したつもりなどなかったはずだ。多少、クリストハルトという共通の敵の存在で気安くは感じたかもしれないが、ここまでされるほどイレーネは彼に心を開いていなかった。
なのに、どうしてヴェルナーは自由と命をイレーネに賭けたのかが、分からない。
当然の疑問のつもりだったが、ヴェルナーは突然、イレーネの前にくずおれるように跪いた。手を取られ、強く握られる。
「君は美しい人だ。光の中にあるべき、清らかな人。だから、たとえ君自身の言葉であっても、私への侮蔑と憎悪と痛みで塗り固められた呪いなどと、並べ、比較しないでくれ。私にとって君は、祝福なんだ」
ヴェルナーの剥き出しの感情。その瞳に宿るものが、イレーネの恐怖と戸惑いに埋もれた心を引きずり出す。
彼は、ずっとイレーネを大切に思ってくれていたのだ。たったあれだけのことに恩を感じて。
頬を流れるものに気がついて、イレーネは今さらそれを隠そうと顔を背けた。だが、涙に揺らぐ声は誤魔化しようもない。
「馬鹿な人。クリストハルトのように振る舞えば、私に気づかれることもなかったのに」
イレーネに不審に思われないよう、クリストハルト本人の言動を真似ればよかったのだ。もしくは遠ざけ続けていれば、イレーネは嫌いな夫と進んで関わりにいかず、何も知らないままだった。ヴェルナーは貴族の男の人生を謳歌できた。
それこそ、ずっとクリストハルトの傍に控え続けたヴェルナーであれば、容易なことであったはずだ。
「できるわけがない。君を傷つけてきたあの男の真似など、できるわけが……」
繋いだ手から、震えが伝わってくる。
「最初は、君を救えたら、それでよかった。だが、君の夫の立場を手に入れたら、もう歯止めが利かなかった。君に正直に思いを伝えられて、私はようやく自分の人生を生きているような気になれたよ。しかし、人の欲には際限がないな……。私は、求めすぎてしまったんだ」
諦めるような言葉に、イレーネは彼の顔を見た。
いつの間にか雨は止み、窓からは冬の弱い陽光が二人へ降り注いでいる。その光を受けたヴェルナーの眼差しには、決意の明かりが灯っていた。
「先日、君の覚悟を聞いて、目が覚めたよ。苦しめて、すまなかった。もう、終わりにしよう」
ヴェルナーは上着の懐から何か小さなものを取り出し、イレーネの手に押しつけた。手を開いてみれば、それは指輪印章だった。しかも、事故で紛失されたはずの、古い意匠の印璽をかたどっている。
「これは……」
続けて、その指輪印章で封をされた手紙も渡される。
「遺言書だ。去年の日付で、クリストハルトの字で書いた。君に遺産を残す内容になっている。そしてその指輪印章は、事故の時紛失したことにしてある。だからこの遺言書は、私のなりすましが発覚しても、去年のうちに書かれたものにできるだろう。疑われても、否定する証拠はない。これさえあれば、君はクリストハルトがいなくても自由になれる」
「そんな――」
その時、書斎の扉を叩く音が割って入った。
「旦那様、王宮魔術師のフーベルトゥス様がお見えになっています。旦那様と奥様にお会いしたいとのことです」
扉の向こうから聞こえた声は、執事のベンノのものだ。
王宮勤めの魔術師フーベルトゥスが訪ねてきているという。約束した覚えはないし、元々クリストハルトもといヴェルナーもこの時間に帰宅している予定はなかった。
フーベルトゥスには、彼の治療や顔の修復、その後イレーネの依頼により血縁確認の魔術で協力してもらった。だが最後に会った時、血縁確認で夫が偽物だと証明することに失敗し、ヴェルナーにこれ以上関わるなと釘を刺されていたはずだ。何をしに来たのか。
「すぐに行く! 応接室へお通ししておけ!」
ヴェルナーは廊下のベンノに向けて声を張った。
「消えるつもりだったが、ちょうどいいのかもしれないな……」
そんなことを呟いて、イレーネへ向き直る。
「イレーネ、指輪印章は見つからないように処分してくれ」
「どうするつもりなの」
「私は、自分のしたことの始末をつけなくてはならない」
ただ弁明しにいくのではない。ヴェルナーは、フーベルトゥスに罪を告白するつもりなのだ。
ヴェルナーは座り込んだままのイレーネの手を引いて、一緒に立ち上がらせた。
「君に受けた恩は返した。傷つけた罰は、これから受ける。どうか、幸せに」
「待って!」
イレーネは、離れようとしたヴェルナーの服の袖をとっさに掴んだ。
恩を返すというなら、はじめから遺言書を渡せばよかったはずだ。それをせず、いや、できず、イレーネを脅かしつつも、夫婦として過ごしていく道に固執し続けた。
その非道は、恩義ではない、彼の望みが理由ではないのか。その望みとは、伯爵家の財産や地位ではなく、イレーネがかつて胸に抱き、彼からも向けられていると信じた感情ではないか。
「あなたがクリストハルトとして私にくれた言葉は、嘘だったの……?」
その問いかけに、ヴェルナーは黙り込む。
しかし、穏やかな笑みを、眼差しだけは悲しげな笑みを無理矢理作ってみせた。
「ああ。君が心穏やかに、過ごせるように、理想の、夫の……」
ヴェルナーの偽りの笑みは歪み、言葉が続かなくなる。
「理想の……」
必死に、嘘を形作ろうとするが、唇が震える。その眦から、涙が流れ落ちた。
「いいや。あれは、すべて、本心だった。すべて、私としての人生だった……!」
観念したヴェルナーは、その涙を見せないようにイレーネを胸に抱き寄せる。
「身の程知らずにも……、君を、愛している、イレーネ」
強い抱擁に、イレーネは抱き締め返すこともできない。それでも、心は彼に寄り添っていた。
これは初めて聞いた愛の言葉ではない。全て、ヴェルナーが改心したクリストハルトのふりをしていた時に、イレーネに伝えてきた思いだ。イレーネが信じたあの愛情は、嘘ではなかった。
「ヴェルナー……」
だが、その時間はすぐに終わった。
ヴェルナーはイレーネを解放すると、肩に手を置き、真摯な目で見つめてきた。
「束の間でも、君の夫であれたことを光栄に思う。……すまない」
「あっ……!」
突然、ヴェルナーはイレーネの肩を押して身を翻した。
イレーネは倒れはしなかったが、大きくよろめく。体勢を整えた時には、ヴェルナーは書斎の扉を開けて出入り口に立っていた。その手には、イレーネが机の上に置いておいたこの部屋の合鍵がある。
「ヴェルナー!!」
止める間もなく扉は閉まり、外から鍵をかけられた。
イレーネは急いで扉まで行って叩くが、もう廊下には誰もいない。誰かいたとしても、鍵がなければ開けられない。
ヴェルナーは行ってしまった。イレーネの思いも聞かずに、自分の思いだけ告げて。
彼が消える方法は、簡単なことだ。訪ねてきているフーベルトゥスに、自分がクリストハルトではないと認めるだけでいい。王宮の役人でもあるフーベルトゥスにそう一言伝えるだけで、再度血縁確認の場が設けられるだろう。使用人が貴族の主人を騙ったのだ。最悪処刑もありえる。
ようやく始まった彼の人生が、終わってしまう。
次で終わります。




