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21.視線の先にいた妻(3)

「うぅ……、ぐっ……」


 どこが無事かすら分からないほど全身を覆う激痛に、ヴェルナーは目を覚ました。

 倒れ伏した顔や手に当たる、濡れた土と草の感触。力が入らない。


 何があったのか、記憶が追いついてくる。

 クリストハルトの愛人の住まう伯爵家の別荘から、本邸へ帰る途中だった。谷の傍を通ったとき、数日前の雨で地面が緩んでおり、車輪が滑って、馬車は斜め後ろへ引っ張られるように崖下へ落ちていった。

 ヴェルナーは御者のテオドールと共に御者台に座っていた。幸か不幸かすぐに投げ出され、馬や馬車の車体に接触することは免れたのだが、崖の硬い岩肌へ打ちつけられつつ転落したため、すぐに動けないほどの重傷だ。


 他の二人はどうなったのか。

 動くと余計にまずいと感じながらも、ぼろぼろで血まみれになった体を起こす。自分の惨状も分かってきた。顔をぶつけたのか右目が開けられない。眼球が無事かわからない。右腕は比較的軽傷で服の袖もあまり破れていないが、左半身は全体的に動かしづらい。骨がいくらか折れているようだ。


「ぅぐ、ゴホッゴホッ……!」


 浅い呼吸に苦しみつつせき込むと、口から飛び散ったのは鮮血だった。胸もぶつけたようで、息を吸うたび痛む。内臓が傷ついている。

 それでも近くの木を頼りに立ち上がり振り返ると、視界に入ってきたのは残骸になった馬車と、折り重なるように倒れた動かない馬たちだった。


 ヴェルナーは足を引きずりながら馬車の傍まで歩いて行き、そこで自分が彼らに比べれば軽傷だったと知った。

 車体の下からはみ出た、生気の失せた腕。服の袖はテオドールのものであった。濡れた地面に染みているのは先日の雨ではなく、絶命した彼の血だ。転落時に馬車に接触し巻き込まれたのだ。ヴェルナーもあと少し運が悪ければ、こうなっていた。


 クリストハルトはどうなったのか。そう考えたとき、砕けた馬車の車体の隙間からはみ出した人間の頭部と、丁度目が合った。


「うっ……」


 ぼさぼさになった黒い髪。頭は元の形を保っていない。血肉の合間から僅かに光る青により、こちらを向いているのが後頭部ではなく、顔があったはずの場所だと気づいて、ヴェルナーは吐き気を催した。

 馬車の中にいたクリストハルトは、顔もわからない死体と化していた。馬車が守ってくれるのは風雨からであって、転落の衝撃にかかれば内装や砕けた車体がむしろ乗る人間への凶器となる。


 頭痛と眩暈に襲われて、地面に膝をつく。

 結局、生き残ったのはヴェルナーだけだった。あれほど憎かったクリストハルトが、こうも呆気なく逝くとは思いもよらなかった。家畜の手綱はついに外れたが、このままではヴェルナーも死ぬだろう。

 死体が誰かわからない彼らよりは、幾分ましな終わり方かもしれない。悠長にそう考えた時、ヴェルナーの頭の中に悪魔の声が響いた。


(これは、好機ではないのか?)


 ヴェルナーはクリストハルトと同じく、先代の血を受け継いで黒髪と青い瞳だ。そして偶然にも、背格好も比較的近い。

 顔の潰れたクリストハルトの死体。もし()()()()()()()()()()()()()ということにできたら? この顔さえ誤魔化せたら、可能ではないか。

 もし生き延びてクリストハルトになりすませたら、これまで奪われてきた人生と尊厳を、取り戻せる。

 彼の代用品として必要なことは学んできた。侍従として常に傍にいたから、代わりを務めることもできる。


(……いや、何を考えているんだ、私は)


 人の道を外れる所業だ。ヴェルナーはあの低劣な男のために自らの魂まで穢すつもりなどない。

 だいたい、おおむね似たものになれるだけであって、クリストハルトと全く同じ存在ではないのだ。ヴェルナーが先代伯爵の庶子であるという出生の秘密を知る使用人は、先日老執事を最後に皆退職したとはいえ、母方と血縁を確認されれば即座に化けの皮は剥がれる。


(あの男になりすましてまで得たいものなど、何も……、何も……)


 あんな男の持ち物に、欲しいものなど一つもない。そのはずだった。


「イレーネ……」


 胸の中でだけ呼んできた、彼女の名前。あの男の妻。最期に近い位置にいたからこそ、思いだしてしまったのかもしれない。

 クリストハルトに虐げられ、逃げることもできず、追い詰められていく姿が脳裏に甦る。侍従としてあの男の傍に常にいたのだから、見知っている。クリストハルトがイレーネを苦しめる時は、必死に無関心を装いながら見ているしかなかった。見ていても、何もできなかった。見たくなくても、見なければならなかった。


 ヴェルナーは気がついてしまった。もしクリストハルトが死んだと分かれば、子供のいないイレーネがどうなるのか。

 クリストハルトは彼女に財産を残すような遺言は用意していないだろう。遺産は愛人と息子に渡り、イレーネは持参金と共にトレーガー男爵家へ帰される。彼女がこれほど辛い結婚生活に甘んじていたのは、実家が帰れるような場所ではないからだ。彼女にまともな行き場はない。

 彼女が何をしたというのか。ヴェルナーの心を救い、未来を望む気力をくれたあの美しい人が、どうして沼底へ沈んでいかねばならないのか。怒りにも似た感情が、痛みを薄れさせていく。

 イレーネのために、『クリストハルト』を死なせるわけにはいかない。


 ヴェルナーは重傷の体を無理に動かし、クリストハルトの死体を馬車の残骸から引きずり出して服を交換した。破れた服に対して負傷が足りない箇所があれば自分で傷つけた。

 そして手近な、鋭利な個所のある大きな石を掴む。先ほどまであったためらいなど、既に消え失せていた。出血で意識は朦朧としはじめていたが、すべきことの道筋は立っている。捨てるべきものは、分かっている。

 そうしてヴェルナーは、自らの顔を完全に潰した。



「――あとは君も知る通りだ。あの男は、私を見下すわりには信用しきっていて、自分の仕事を押しつけるために署名を真似る練習をさせていたんだ。他にも仕事を代行していたから、なりすますのは思ったよりも簡単だったよ。……やっと、君から受けた()()を返せた」


 ヴェルナーがその正体と過去を洗いざらい語り聞かせると、いつの間にかイレーネは腰が抜けたように窓際の床に座り込んでいた。彼女は当初とは違う眼差しでヴェルナーを見上げている。

 その胸に秘めた愛情は、明かさなかった。ただ、自分を家畜から人に変えてくれた彼女への恩なのだと、そう説明した。


「アデーレは、赤ん坊と一緒に生かしておいてやろうと思ったんだが……、あの女、子供と二人で本邸に入り込んだら、君を事故に見せかけて殺すつもりだったらしい。クリストハルトのふりをして会いに行けば、自分からぺらぺらと喋ってくれたよ。身を引く気もなさそうだったから、始末した。ヨーゼフは私が先代の庶子だと知っている最後の一人だったから、口封じに殺した。……まあ、昔の恨みがなかったとは言わないが」


 事故で失った顔をクリストハルトとして治してもらった後、愛人との関係を清算するために会いに行った。ヴェルナーからすれば、愛人のアデーレはクリストハルトが思うような女ではない。嘘つきで強欲な、クリストハルトや産んだ子供さえ利用する人間だ。

 当初は縁を切るだけのつもりだったが、別れ話に応じなさそうな様子とイレーネへの殺意がきっかけとなり、いずれ害になると考えて殺した。赤ん坊は他人に預けた。


 また、老執事のヨーゼフは、王都で血縁確認をされることになった直前に、密かに彼の家を訪ねて殺した。馬車の事故やイレーネの訴えなどをまだ知らないヨーゼフがそれを知れば、ヴェルナーのなりすましに感づいてしまうかもしれないからだ。

 それに、あの老執事はクリストハルトを可愛がり、一方で半分卑しい血を引いているヴェルナーを嫌っていた。しつけと称してつけられた背中にある鞭打ちの古傷の何割かはあの老人によるものだ。井戸に落とされそうになったこともある。そんな人間を殺すことに、さして抵抗はなかった。


 ヴェルナーは殺した二人を思って、やはり後悔など欠片も湧いてこないことを確かめた。一番憎かった先代伯爵夫妻とクリストハルトについては、自ら手にかける間もなく勝手に死んだというのが心残りだ。

 ふ、と短く漏れた溜息が笑い声に聞こえたようで、蹲るイレーネのカーテンを掴む指に力が入った。怯えているのだろうかと気がかりで、胸が痛む。


 ずっと立ったままだったヴェルナーは、先ほど彼女に勧めて断られた椅子に腰かけ、目線を近づけた。


「イレーネ、落ち着いてくれ。私はもう君を苦しめない。君が、耐えられないとよく分かったから」


 当初は、クリストハルトのふりをしながらも、イレーネとの関係修復を模索した。そして偽物だと見抜かれてからは、彼女が自分の居場所を守るために諦めてくれることを願った。

 しかしイレーネは、クリストハルトが既に死んでいると判明することで被る不利益を承知のうえで、たとえ自分の状況が悪くなろうとも、ヴェルナーを拒絶し続けた。侍女を使って秘密裏に情報を集め、こうして長い時間をかけて手紙を調べ、真実にたどり着いた。

 それほどまでに、ヴェルナーが恐ろしく、受け入れがたいのだ。


 もう諦めなくてはならないのは、ヴェルナーの方だ。

 これ以上は、イレーネが耐えられない。

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