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20.視線の先にいた妻(2)

10/20 2話目更新です

 イレーネのことはずっと頭の片隅にあったが、彼女がクリストハルトと婚約したという知らせは、ヴェルナーにとって青天の霹靂であった。


 たしかに子供のころから引き合わせられていて、父親同士は事業の関係で付き合いが深い。幼馴染といえる。だが、二人はあまりにも相性が悪すぎる。

 それを先代伯爵から言い渡された時のクリストハルトは、荒れに荒れていた。自分が伯爵家の財政難のために売られたという事実を認めたくないようで、イレーネがそうさせたのだと言いがかりをつけている。そんなわけがないことは、二人の会話を聞いたことがあれば誰にでもわかった。

 イレーネを受け入れないのは、クリストハルトだけではない。成金の男爵家を見下す、伯爵家の使用人たちも同じだった。イレーネはこんな家に嫁いでこなくてはならないのだ。


 二十歳になったヴェルナーは、その頃、伯爵家を逃げ出す算段をつけ始めていた。

 万が一にクリストハルトの代用品を務めさせるため、先代伯爵は伯爵家の商売のことなど、必要な知識と経験をヴェルナーに身に着けさせた。

 ヴェルナーは表向きは引き続き従順な家畜を装いつつ、イレーネが示してくれた可能性を夢に見ながら、着実に準備を進めていた。市井の青年にはない十分な学や教養がある。何の憂いもなく、王都で働き口を見つけられるだろう。


 そんな時に降ってきた、クリストハルトとイレーネの婚約の話。イレーネがそんな話をなぜ受けたのかと想像しかけて、ヴェルナーはようやく悟った。

 イレーネがどうしてヴェルナーを羨ましいと言ったのか。楽しげな話をするわりに暗い眼差しをしていたのか。あれは、男だからできることだったからだ。貴族の令嬢であるイレーネには、絶対に許されないこと。イレーネは自分はどうあっても自由になれないと分かっていたから、ひどい扱いを受けているヴェルナーさえ羨んだのだ。

 自分だけこの家を抜け出して自由になるのか。イレーネを置いていくのか。そんな迷いが生まれる。

 イレーネに何かできることがあるのかはわからない。だが、この家を捨てれば、伯爵家の追手から隠れるヴェルナーは、いずれ伯爵夫人となるイレーネには二度と会えない。

 ヴェルナーの迷いは、結局伯爵家に残る選択をさせた。


 自由を掴むという希望を与えてくれたイレーネの存在が、かえってそれを捨てさせるとは皮肉なことだ。しかしこの時のヴェルナーに後悔はなかった。

 自分がどうしてそんな選択をしたのかは、あまり理解できていなかった。ヴェルナーがいるからといって、彼女の待遇等が劇的に改善するとは思えない。恩に報いることなどできないのだから、ヴェルナーはいなくてもいいはずだ。きっとイレーネも喜ばない。

 だが、彼女とクリストハルトの婚礼で、自身の選択の理由をようやく自覚した。


 純白のドレスを身に纏ったイレーネは、神の使いのごとく、教会に差し込む光の中にそのまま消えてしまいそうな儚い美しさを持っていた。

 彼女の姿を目にして、ヴェルナーは胸を締めつけられるような感覚に襲われた。同時に、脳裏に浮かんだ自制の言葉。使用人である自分には手の届かない、貴族の令嬢。主人の妻になる女性。

 なぜそんなことを考えるのか、分からないはずがない。ヴェルナーはイレーネを、おそらく自分の心を救ってくれたあの日から、愛していたのだ。

 大した力もないくせに伯爵家に留まったのも、少しでも彼女の傍にいたかったから。


 手に入らなくても、その目に映らなくても構わない。ただ、傍にいられるだけで、それだけでよかった。


 伯爵家に嫁いできたイレーネは、案の定ひどい待遇で迎えられた。婚姻を推し進めた先代伯爵が存命の内は比較的ましだったが、彼はすぐ夫人とともに亡くなり、そこから箍が外れた。使用人からもイレーネは女主人として扱われず、とりあえず男爵家からの支援を受けるために生かしてさえいればいいのだろうという思考が透けて見える、粗雑な対応。

 放っておいたら衣食も差し支えたかもしれないが、それは維持されるようにヴェルナーがさりげなく手をまわした。他にも、十分ではないが僅かにできる支援を続けた。ただし、イレーネ本人やクリストハルト、彼に告げ口する他の使用人たちにも悟られてはならず、表立っては何もできない。

 もしヴェルナーが彼女に思いを寄せていると、クリストハルトに知られたら、想像もつかない悪いことが起きるとこれまでの経験で確信していた。


 クリストハルトは、従順なヴェルナーがまさか自分に逆らってイレーネを助けているとは知らないままだった。実際、誰にも気づかれないほど、ヴェルナーにできるのは些細なことばかりだ。

 イレーネは、他の使用人たちへそうしているように、クリストハルトの腹心であるヴェルナーのこともあまり視界に入れない。いないかのように扱う。おそらく今でも、主人に告げ口をするクリストハルトの手先だと思われているだろう。ヴェルナーの前で起きたことがクリストハルトに伝わっていると、全部ヴェルナーの仕業だと受け取っている節がある。本当は他の使用人なのだが。

 そしてヴェルナーは、誰にも気づかれない時は時間が許すだけイレーネを見つめていた。


 三年の結婚生活は、イレーネの気力を奪っていった。傷つけられ、クリストハルトに反抗することは減り、思いつめたような顔で窓の外を眺めることが増えた。ひどいときは、そのまま窓から身を投げるのではないかと気がかりで、ヴェルナーは物陰から飛び出すべきか、一階に先回りしておいて受け止める準備をすべきか真剣に悩んだほどだった。

 愛人に子供が産まれ、イレーネの居場所が脅かされ始めると、彼女が物思いにふける時間は長くなった。もう限界ではないかと、ヴェルナーは無力感に苛まれていた。


 そんな矢先に、あの馬車の事故が起きたのだ。

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