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02.死んでほしい夫(2)

P1に表紙イラストを追加しております。当初入れ忘れておりました。

 イレーネが溜息を繰り返していると、部屋の外から使用人の声がかかった。


「奥様、旦那様がお出かけになります」

「そう、……行くわ」


 おそらく見送りに行っても不快に思われるだけだが、行かない方が帰宅後に酷いことになる。

 イレーネはレースでできたベールを被って髪の彩度の低さを誤魔化すと、私室を出て玄関ホールへ向かった。


 私室のある二階から、玄関ホールの中央へ広がる階段を下りていく。ホールにはクリストハルトと使用人たちが集まり、出かける準備をしていた。

 使用人たちの装いからして、帯同されるのは侍従のヴェルナーと、外で待っているはずの御者のテオドールだけのようだ。通常伴う従僕らは連れていかないらしい。


 ホールに下り、使用人たちに一瞥されながら、夫に挨拶できる距離まで近づいて待つ。彼は執事のベンノと話し込んでいる。

 イレーネは手持無沙汰で、執事のベンノの背中に目を向ける。彼は最近執事に昇格したばかりで、以前はヨーゼフという老執事だった。ヨーゼフは引退して、もうこの屋敷にはいない。ヨーゼフもベンノも、人手が足りなくなった時、真っ先に削って他へ動員できるのがイレーネの世話をする使用人だと熟知している人間である。よりにもよって入浴中に侍女を呼び戻され、しばらく放置されて風邪を引いたのは二年前のことだ。

 クリストハルトの背後に立つ侍従のヴェルナーは、いつでも青い目を伏せて、不気味な置物のように音も気配もなく夫の傍に付き従っている。彼は夫と年が近く幼い頃から仕えているため、イレーネも結婚前から見知っている。昔からこんな様子で我関せずという素振りを見せておきながら、イレーネが少しでも失敗すれば漏れなく主人に告げ口する男だ。

 外にいるはずの御者のテオドールとは、僅かにしか言葉を交わしたことがない。彼にも当然軽んじられているという理由もあるが、何よりイレーネがあまり外出しないためだ。彼はイレーネが馬車を乗り降りする際、いつも意味ありげに笑みを浮かべている。おそらく、乗り降りに彼が邪魔をしてきて転倒させられないかという、イレーネの警戒が伝わっている。一度危ない経験をしていれば、誰だって二度目から警戒して当然だというのに。


「明日まで帰らない。留守は頼んだ」

「かしこまりました」


 少し浮かれた様子の夫は、この供の少なさで外泊するらしい。イレーネは夫がどこへ行くのか察した。


 クリストハルトには、どこかの貴族の養女にすることも難しいような、身分の低い愛人がいる。アデーレという名で、イレーネと結婚する前からの仲だそうだ。彼女との叶わぬ結婚を夢見ていたクリストハルトは、イレーネの横恋慕で無理矢理結婚させられたと逆恨みしている。それが、イレーネを毎日毎日責めさいなむ理由の一つだ。

 イレーネが結婚したかったのではなく、両家が望んだこと。仮にイレーネと結婚しなくとも、アデーレとは身分違いで結婚できなかったはず。そう何度も抗議した。なのに、クリストハルトはそんなことも理解しようとせず、ただただイレーネに当り散らしている。


「――イレーネ」


 クリストハルトが、イレーネの存在に気がついたのか、呼びかけて手招きする。基本的に見送りは無視されるのだが、なぜ呼びつけるのかと嫌な予感がする。

 それでもしぶしぶイレーネが傍へ行くと、クリストハルトはなぜかハンカチを取り出し、これ見よがしに絨毯の上へ落とした。


「拾ってくれ」


 形は美しくとも、醜く歪んだ顔で笑う夫。イレーネは嘆息した。


「誰か――」

「お前に、言ったはずだが?」


 居並ぶ使用人への指示を遮られる。跪き、物を拾うなど、女主人のすることではない。使用人の仕事だ。それをクリストハルトは、イレーネにさせようとしている。わざわざ使用人たちの前で。

 ハンカチに最も近い執事のベンノも、夫の雑用を通常は一番に引き受ける侍従のヴェルナーも、他の使用人も誰一人として動かない。素知らぬ顔が作れない者は、下卑た笑いを零しているほどだ。


 イレーネは屈辱に震えないよう、手を握りしめた。

 ここで従って彼を満足させなければ、状況がもっと悪くなるだけだ。それは、結婚当初から現在までの彼の対応の変遷で嫌になるほど理解している。


(こんなこと、何でもないわ……)


 必死に自分へ言い聞かせ、イレーネは静かに膝を折ってしゃがんだ。スカートの裾が床に擦るが、付かないほど大きく持ち上げられないので仕方ない。

 全員に見下ろされながら、クリストハルトのハンカチへ手を伸ばす。


 ハンカチを掴めたその時、クリストハルトが一歩踏み出すように動いた。


「あっ……!」


 スカートの上から、イレーネの膝を押さえ込むように踏みつけたのだ。無理矢理床に膝をつけて座らせられる。とっさに床へ手を突いたので倒れはしなかったが、クリストハルトが足をどけないので立ち上がれない。


「足を――!」

「ベンノ、エメリヒに食べさせる苺は?」

「先に別荘へお届けいたしました」


 クリストハルトはイレーネの抗議を無視して、ベンノとの会話を再開させた。ベンノは跪くイレーネに戸惑うことなく、主人へ返事をしている。


 くすくすと、使用人たちの方から短く笑い声が漏れ聞こえてきた。主人の見送り中の私語に近いそれは、本来であれば許されないことだが、クリストハルトや使用人同士では咎めない。むしろ、その方が主人が喜ぶと分かっているのだ。

 イレーネは屈辱を隠しきれず、顔を俯けた。クリストハルトの気が済むまで我慢するしかない。


「アウラー産を選んだか?」

「勿論です、旦那様」

「ならいい」


 手配が滞りないことを確認したクリストハルトの声は、顔を見ずとも満足げなことが伝わってくる。対してイレーネは胃の不快感を堪え、まるで何も聞こえていないかのように聞き流す。


 先ほどの朝食の席では不機嫌だったというのに、今は打って変わって上機嫌なのは、イレーネを踏みつけ跪かせているからだけではない。

 これから愛人のアデーレに会いに行くのだ。領内のとある別荘を彼女に与えており、彼は度々そこで過ごしている。あちらに使用人が常駐しているから、連れていく供は少なくてよい。

 外泊の間イレーネには平穏が訪れるため、ある意味ありがたいと思っていたのだが、喜べない事情が出てきた。


 一年以上前、妙にクリストハルトの機嫌が良い期間があった。そしてそれが続いた後の、半年ほど前、夜中にもかかわらず突然慌ただしく出かけていった。後から分かったが、アデーレが産気づいたのだ。知らなかったのはイレーネだけ。

 エメリヒとは、クリストハルトと愛人の間に生まれた、婚外子の男児の名前である。


「では、出かけてくる」


 頭上で交わされる会話が終わるまで、イレーネは黙って待った。

 執事のベンノとのやり取りを済ませたクリストハルトは、ようやくイレーネの膝から足をどける。そして口先だけの礼すらなく拾わせたハンカチを受け取ると、そのまま玄関を出ていってしまった。イレーネは靴跡のついたスカートを払い、一応使用人たちと共に表へ出て、彼の乗り込んだ馬車を見送った。

 こんなこと、何でもない。強く体重をかけて踏まれたわけではないから、怪我もしていない。スカートが汚れただけ。なぜかイレーネが文句を言われるけれど、この靴跡を落とすのは洗濯係の使用人。イレーネは自分に言い聞かせた。


「奥様も気の毒よね……」

「しっ、聞こえるわよ」


 主人を送り出した使用人たちは、イレーネに不躾で含みのある視線を向け、笑い合う。イレーネはあからさまな陰口も聞こえないふりをして、早足にならないよう気をつけつつ朝食を取るために食堂へ向かった。

 クリストハルトがアデーレの暮らす別荘へ出かけた後は、使用人たちはもうすぐその座を失う女主人を嘲笑する。


 この国の相続法は、男にしか相続権を認めておらず、かつ、血縁が重視される。

 たとえ愛人の息子だろうと、認知さえされていれば爵位を除いた財産の相続権を有するのだ。嫡出子であれば非嫡出子より相続権は優先されるのだが、イレーネとクリストハルトの間には子供がいない。仮に夫が死ねば、愛人の子に財産が相続される。イレーネには、クリストハルトが特別に遺言を残さない限り遺産は渡らず、持参金だけ返還されて実家に戻ることになる。


 ――まぁ、伯爵家としては仕方がないわよ。

 ――むしろありがたいことよね。エメリヒ様がいなければ伯爵家が無くなってしまうかもしれないのだから。


 使用人たちは、イレーネが立ち去った後、そんな会話を続けたことだろう。


 相続法とは別に貴族法の特例として、夫婦に男児がいない場合、庶子の男児を夫婦の養子に迎え、爵位を継ぐ権利を持つ後継者にできる。正妻が子供を産めなかった場合でも、貴族としての家を存続させるための法律だ。なお、離婚は基本的にできないので、子供のできない妻を追い出して別の女性と再婚する、という手段は難しい。

 イレーネと夫の間には子供がいないため、エメリヒはその特例の適用対象となる。つまり愛人を妻にすることはできないが、子供を後継者に迎えることはできる。

 クリストハルトはこの手続きのための、国からの承認を求める申請を既に済ませている。実は他人の子だった、などという問題でもない限り、承認される見通しだ。


 そして現在、この本邸の敷地内に離れを増築する計画が進んでおり、庭園の一部を潰して整地中だ。もちろん、息子と愛人を住まわせる名目である。

 いずれ、イレーネには完全に居場所がなくなるだろう。少しずつ、失っていく。赤ん坊を養子にすれば、伯爵家を継ぐ子なのだから離れではなく本邸に住まわせるべきと言い出し、次に生母がすぐ顔を見れた方がよいと愛人も本邸に引き入れる。子供部屋に近い女主人の部屋も、そのうちに彼女に明け渡すことになる。

 そうしてイレーネの行き先は、今建てている離れになるはずだ。なぜそんなことまで予想がつくかというと、これまでのクリストハルトの最低な振る舞いと、母子の将来のために増築しているにしては不便そうな、離れの間取り図が根拠である。


 いつしかイレーネは、この屋敷の離れでひっそり息をするだけの、生きながらに死んでいる女になる。

 それだけならまだいい。イレーネを憎むクリストハルトは、これまでどおり鋭い言葉の刃で心を抉り続けるだろう。

 イレーネは慣れて何でもないふりをしているが、傷ついていないわけではない。毎日毎日、使用人を含めた家人全員から侮蔑を受け、それで心身共に健康でいられるはずがない。辛くて、でも誰も助けてくれなくて、自分でどうにかする力もなくて、逃げ場のない穴の底にいる気分だ。


 だから最近、考えてしまう。


(クリストハルトが、死んでくれたら……)


 そう思うほど、イレーネは追い詰められていた。

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