19.視線の先にいた妻(1)
ヴェルナーは自分が何者なのか、長い間分からずにいた。
出自だとかそういう形式的な話ではない。父でも母でもない人たちに育てられ、行けと言われてフェルゼンシュタイン伯爵家へ奉公に出て、屋敷の息子と同等の教育を強いられつつ、労働もこなす。何かにつけて女主人と息子には理由なく詰られ、鞭打たれ、家畜のようだと思うことはあった。
あとから振り返ってみれば、家人たちは正しく自らを家畜にしたかったのだろうと、ヴェルナーは思い至った。伯爵の庶子として、長男が万が一死んだときに代用品となれるように。そしてそれまでは、家督や財産を一切求めないように。そのためには、従順な家畜に矯正することが、最も確実だと考えられたのだ。
主体性を適切に育むことのできる自尊心が、自由を求める心が、ヴェルナーにはなかった。彼らの矯正は上手くいっていた。だからヴェルナーは、自分が何者か本当によくわからなかった。
傍若無人でヴェルナーを犬のように扱い虐げるクリストハルトを当然嫌っていたが、彼に反抗することはなかった。当初はそういうこともあったのかもしれないが、もう忘れてしまった。
当時のヴェルナーは、クリストハルトにどんな扱いを受けようとも、この先ずっと彼に仕え続けるのだと、自分にそれ以外の道はないのだと思い込んでいた。
誰もヴェルナーに人としての尊厳を教えてくれなかったからこその、狭い視野だ。
それを変えてくれたのが、イレーネだった。
◆
「――ああ、どうして僕は、君のような陰気でつまらない女と顔を合わせてやらねばならないのだろうか。華やかで美しいまともな令嬢たちは、私と話をしたくて競い合って声をかけにくるほどだというのに」
「私も、どなたかが代わってくださるのなら、お金を出してでもお願いしたい気分です」
「……」
その応酬は、フェルゼンシュタイン伯爵家の庭園の一角で行われていた。
十代前半のイレーネとクリストハルトは、白いクロスのかかったテーブルを挟んで座り、片や心底不快そうに少女を責め、片や無表情で三歳年上の少年に鋭く切り返し黙らせる。
イレーネの父トレーガー男爵が商談で伯爵家を訪れるたび、二人はこうして引き合わされていた。爵位は伯爵家の方が上だが、事業上の、ひいては金銭的な事情で、裏での立場は男爵家に優位性がある。そこに頼ろうと考えている先代伯爵は、クリストハルトがいくら文句を言っても必ず彼をイレーネと過ごさせた。イレーネの方も父親には逆らえないので、この尊敬できる要素が欠片もない年上の幼馴染との時間を耐えていたようだ。この時、二人はまだ婚約者ではなかった。
「何か気になることでもあったか」
当時従僕だったヴェルナーが、テーブルの傍でやり取りをぼんやりと眺めていると、突然クリストハルトに睨みつけられた。言い返せなかったクリストハルトは、怒りの矛先をこの場で二番目に嫌いなヴェルナーへ向けることにしたのだ。
「いえ――、っ……!」
クリストハルトの口喧嘩が思うようにいかなかったからといって、ヴェルナーは何も感じていなかった。しかし否定する前に、テーブルの上の紅茶のカップの中身を顔から浴びせかけられた。淹れたてではないのが不幸中の幸いだったが、ヴェルナーは熱さに怯んだ。
「主人と客人の会話で含み笑いとは、当家の使用人が失礼した、男爵令嬢。申し訳が立たないからこの場はお開きにしよう。では」
クリストハルトは芝居がかった口調でそう言い捨てて、ヴェルナー以外の使用人を引き連れて屋敷の中へ戻ってしまった。残されたのは、席に着いたままのイレーネとヴェルナーだけ。イレーネのお目つけ役の侍女は、我関せずと、はるか遠くにいる。
高温の刺激が落ち着くと、今度はひりひりとした痛みがやってきて、ヴェルナーは溜息をついた。こんな扱いはいつものことだが、客人の前でもするとは思わなかった。相手が、クリストハルトの見下しているイレーネだからだろう。
俯けていた顔を上げて、そこで驚いた。いつの間にか、目の前にイレーネが立っていたのだ。
「あなたも大変ね」
彼女は持っていたハンカチで、ヴェルナーの濡れた顔を優しく擦らないように拭う。もしかすると、クリストハルトの八つ当たりの原因が自分にあると思ったのかもしれない。ヴェルナーからすれば、ただのきっかけであって、あの男が虐げてくる本当の原因ではないのだが。
「ハンカチが……」
ヴェルナーは遠慮しようとしたが、既にハンカチには紅茶が染み込んでおり、もう遅い。使用人が他家の貴族の令嬢の手を拒絶することは難しいし、一方でこうして濡れた顔を拭ってもらうこともありえないことだ。ヴェルナーはどう反応するか対応に困った。彼女のお目つけ役の侍女は、遠くこちらが視界に入ってはいるだろうが、動く様子がない。
悩んでいる間に、イレーネはヴェルナーの顔の水滴を綺麗にしてしまった。
「差し上げるわ」
まだ気になるところがあれば自分で拭けるようにと、イレーネはそのままハンカチをヴェルナーの手に押しつけた。ずいぶん気安い令嬢だ。後から知ったが、彼女は男爵家の中であまり気にかけられていない存在だったから、それが遠因なのだろう。
これまで、ヴェルナーはクリストハルトの傍に常に控えていたので、数年前から交流の始まったイレーネとは何度も顔を合わせていた。だがおそらく、彼女はヴェルナーの名前など覚えていないだろうし、耳にしたのも数えるほどのはずだ。
そんな状況だったので、直接言葉を交わしたのも今回が初めてだった。
「追いかけなくていいの?」
ハンカチを受け取った姿勢のまま突っ立っていたヴェルナーに、椅子に掛け直したイレーネが不思議そうに問いかける。
他の使用人は全員クリストハルトについて行ってしまった。ヴェルナーは、熱い紅茶をかけられて怯んでいて移動しそびれた。追いかけるにしても、紅茶に染まったシャツを替えるために一旦使用人部屋へ戻らなくてはならないし、急いでそれを済ませて駆けつけても遅いと貶されるだろう。
「彼、理不尽な人ですものね」
イレーネはまるでヴェルナーの心中を読んだかのような返事を呟いて、紅茶を一口飲んだ。否定も同調もできず、ヴェルナーはただ黙り込む。
敵意をぶつけるクリストハルトのせいで、ヴェルナーはイレーネの冷たく固い対応しか目にしたことがなかった。しかし、クリストハルトのいない今のイレーネは、ずいぶん軽妙で柔らかな印象の少女だった。
急いでクリストハルトを追いかける気も湧かなかったのと、なんとなく彼女とこのまま話してみたくなって、ヴェルナーはその場に留まることにした。
無言でもその意思が伝わったようで、イレーネは父親の商談が終わるまで、ヴェルナーを話し相手に選び、様々な問いかけをしてきた。
さすがにクリストハルトの腹違いの弟という事実は緘口令が敷かれているが、それ以外は聞かれれば答えるようにした。他の使用人たちからも距離を置かれているヴェルナーにとって、同年代の少女との警戒の不要な会話は新鮮なものだった。特に彼女は、ヴェルナーの敵ではなく、僅かながらも同情して手を貸してくれた初めての人間だ。
「あなた、どうしてこんなところで働いているの?」
イレーネの緑玉のような瞳が、心底不思議そうにくるりと輝く。
その問いのこんなところとは、伯爵家か、クリストハルトの下ということか。
「それだけ読み書きも教えてもらっているのなら、ここよりも余程人間扱いしてくれる働き口がありそうなものだけれど」
「私は、ここでしか働けません」
何のためかは伏せたが、読み書きもできない使用人が多い中、ヴェルナーが一通りのことを習得していると聞くと、イレーネはそんな疑問を呈してきた。
対してヴェルナーは、この家で死ぬまでクリストハルトに仕えるものと思い込んでいる家畜だ。だから、他に道などないと即答した。
「そんなはずはないわ。伯爵領が嫌なら、王都まで出てごらんなさい。貴族は雇わないかもしれないけれど、読み書き計算ができて礼儀作法もしっかりした子供なら、大きな商会がいくらでも雇ってくれるわ」
どうしてか、イレーネは目を輝かせ、語調も強くヴェルナーに転職を勧めてくる。
「なぜそうも、熱心に仰るのですか」
希望を持たせてから落胆させるクリストハルトに似たやり口を警戒して、尋ねたその口調は怪訝で不躾になっていたかもしれない。
それを気にする様子もなく、イレーネは微笑んだ。
「羨ましいからよ」
裕福な男爵家の娘が、何も持たない使用人をなぜ羨む必要があるというのか。ヴェルナーは彼女の胸中が理解できなかった。
何も言わないヴェルナーを放って、席を立ったイレーネは太陽の方へ数歩進む。彼女の背中の向こうには、伯爵家の庭園と青空が広がっているだけだ。
「王都はこの方角にあるの。王都へ荷を運ぶ馬車に、下働きでもすると言えば乗せてもらえるわ。それでも断られたら荷物に潜り込んでしまえばいい。長い間かかって大変だけれど、あなたは一人でも王都に行けるわ」
そう伸び伸びと語って振り向いたイレーネの横顔は、陽光に輪郭を縁どられ、白く輝いていた。元から色白だが、彼女自身が光を放っているように錯覚する。不思議なことを言ってのける少女に翻弄され、ヴェルナーはおとぎ話の中へ連れ込まれているような非現実的な感覚に陥った。彼女の精霊を思わせる容姿の所為かもしれない。
「さて、そろそろお父様もお戻りになる頃でしょうし、私は侍女を探しに行くわ」
いつのまにか、遠くで見張っていたはずの彼女の侍女が姿を消していた。未婚の令嬢を放置とは非常識にもほどがあるが、いつものことなのか、イレーネは慣れた様子だ。
「あ、あの……」
立ち去ろうとしたイレーネを、ヴェルナーはつい呼び止めてしまった。彼女の問いに答えるのではなく、使用人が職務に関係なく自ら声をかけたのだ。許されることではない。
それでも、聞きたいことがあった。
「私は……、彼らに逆らえません。そのような人間が、いや、家畜が……、本当に何もかも捨て、この家から自分の足で出ていけるのでしょうか」
虐げられ続けたヴェルナーは、性根から家畜に成り下がっている。クリストハルトが鞭を手にしていなくても、跪けと言われれば痛みと恐怖を思い出し、即座に従う。彼らに監視されていなかろうと、その支配が常に頭の中にある。これまで、屋敷の近くの町まで使いに出されたこともあったが、逃げようなどとは一度も考えなかった。
自分の骨の髄まで染み込んだ、忌まわしい呪いだ。イレーネの語ったことは、ヴェルナーには難しく感じた。
だが、心を動かされた。だから、彼女の言葉が、もっと欲しかった。
「虐げられても、反抗できないでいるのが恥ずかしい?」
柔らかな色合いの金髪をさらりと揺らして振り返ったイレーネの問いが、ヴェルナーの胸に突き刺さる。そして自覚させた。
彼らによる痛みと恐怖の支配に勝てないことを仕方がないと思いつつ、服従がどうして自分自身を嫌いにさせていくのか、これまで分からなかった。
それが、イレーネの問いかけによりはっきりした。ヴェルナーはずっと、仕方ないと諦めている自分が、恥ずかしかったのだ。反抗する勇気もないくせに。
今さら気づいた忸怩たる思いに、泣きたくなってくる。こんなもの気づきたくなかったかもしれない。気づかないまま、家畜でいた方がよかったのかもしれない。彼女に声をかけるに至った久々の前向きな欲求が、追いかけてくる後悔で揺らぎはじめた。
しかし、目の前の少女は、安心させるようにふっと微笑んだ。
「でもあなたは内心、彼を軽蔑しているでしょう。彼のすることを心からは受け入れていないでしょう。その方が賢いから、今は逆らわずにいるだけよ。恭順の姿勢でも自分さえ持っていれば、一番大事な時にはいくらでも行動できるわ。あなたは、きっと大丈夫」
その言葉が、新緑のような輝きの眼差しが、迷いを霧散させる。
自分がこれまで弱くても、それを恥ずかしいと感じてしまっても、構わない。唯々諾々と従っていた過去を許し、前を向かせてくれる。
黙り込んだヴェルナーに言葉が届いたと察したのか、イレーネは小さく手を振ってその場を立ち去る。その背中にヴェルナーは、いつまでも深く頭を下げ続けた。
この家を追い出されたら野垂れ死ぬしかないと思っていたが、彼女がああも断言していたということは、本当に王都へ行けば働き口があるのかもしれない。そこでは、理由もなく鞭打たれないのかもしれない。自分のために、生きられるのかもしれない。
いつか、あるいは無理をすれば今すぐにでも出ていけるという希望が、ヴェルナーの思考を長らく淀ませていた閉塞感の霧を払ってくれた。
ただ、彼女の伏せた長い睫毛の下の緑の瞳だけは、夢を語るにしてはどこか悲しげなことが気がかりだった。そしてその答えは、いずれわかることになる。
◆
トレーガー父娘が帰る時間になり、クリストハルトの後ろに従って見送りに出ると、イレーネの様子が一変していた。馬車の前で伯爵と挨拶を交わす父親の隣に立つイレーネは、目元を腫らして涙ぐんでいた。
あの後何かあったのだろうかとヴェルナーが心配で見ていると、その視線に気づいた彼女はまるで非難するかのごとく一瞬睨みつけ、すぐに俯いた。庭で別れたきりなのに、ヴェルナーが気に障ることでもしたというのか。
「……何かあったのですか?」
主人たちに聞かれないようにこっそり近くの年上の従僕に尋ねると、訳知り顔の彼は底意地悪そうに口元を歪めて笑った。
「ああ、あの成金……失敬、男爵令嬢が父親に折檻されたんだよ」
「え……?」
もう一度イレーネへ視線を戻すと、彼女は馬車の前に置いた踏み台に足をかけたところだった。段差を上がるに際し、男爵家の使用人が差し出した手を借りようと掴んで、熱い物にでも触れたかのようにすぐ離す。そして、今度は我慢するように肩を震わせながら、その手を支えに馬車へ上がっていった。
自分も覚えがあったから、ヴェルナーにはわかった。鞭打たれる時、ヴェルナーは背中が多いが、より痛むよう手のひらに短い鞭を入れられることがある。彼女はあの手袋の下を鞭で打たれたのだ。
どうして折檻されたのか。どうして、彼女はヴェルナーを見たのか。
馬車が走り去ると、邸内に戻るためにクリストハルトが振り返った。ようやく付き合いが終わったと言わんばかりに、晴れ晴れとした表情を浮かべている。彼はヴェルナーを見つけると、父である伯爵や上級使用人が居なくなったのをいいことに、気安く肩を組んできた。
「よくやった、ヴェルナー。あの女の顔、見たか?」
「……仰る意味が、分かりません」
この男の機嫌が良い時は、ろくなことがない。だが、これまでの経験にないほどの上機嫌は、それを大きく凌駕する不安を抱かせた。
案の定、クリストハルトが言い放ったのは、耳を疑うような言葉だった。
「あの女が父親に鞭打たれたのは、『伯爵家の使用人に対して、令息の陰口を言ったから』なんだよ」
「そんな……!?」
――彼、理不尽な人ですものね。
イレーネは確かにそう言っていた。だがあれを聞いていたのはヴェルナーだけ。彼女のお目つけ役の使用人も遠くにいて、会話など耳に届かなかったはずだ。そしてヴェルナーは誰にもあのことを話していない。
「わかってるよ。あの女にお前が話しかけられて動けないところを見た奴がいるだけだ。何を話していたのか知らないが、あの女がいきなりこちらの使用人に僕の陰口を叩くとは思っていないさ。お前がその類のことを口にするはずもないだろう。だが、嘘でも構わないんだよ。あの父親は娘を信用していないから」
つまり、イレーネとヴェルナーが会話しているのを誰かに見られて、ただそれだけで、悪口を言っていたと捻じ曲げて男爵に伝えられたのだ。そして男爵は真偽も定かでない情報だけで、娘の手のひらを鞭打った。
クリストハルトやその側近の使用人は、二人の会話など知らないまま、単にイレーネを陥れて惨い目に遭わせてやったと喜んでいる。
だがイレーネはどう解釈しただろう。クリストハルトを非難したのは、偶然にも事実だ。そして話したのはヴェルナーひとり。なら、ヴェルナーが告げ口したと思うのではないか。彼女が裏切り者、と言わんばかりの目でヴェルナーを見た理由が、ようやく分かった。
(私じゃない。私じゃない……!)
馬車はもう走り去っている。ヴェルナーは誰にも言えない否定を、頭の中で繰り返し叫び続けた。
その後、クリストハルトや男爵家の使用人を抜きに、イレーネと二人きりになる機会は訪れなかった。それが普通のことで、あの時が偶然だったのだ。だからヴェルナーは、イレーネに弁明できず年月を重ねていくこととなった。
あれ以来イレーネは、ヴェルナーを視界に入れなくなった。ただの、他の使用人と同じ、存在しない空気のようなもの。
青年になればこんな場所を出ていってやるという希望を、そして人としての尊厳を胸に抱かせてくれた女性との関係は、ヴェルナーの心に棘を残したまま終わってしまった。




