18.死んだはずの男
10/19 2話目更新です
イレーネが書斎の古い手紙からの情報収集を始めて、しばらく経った頃。
その日もイレーネはあの男の不在中に、私室へ引きこもっているふりをして書斎へ忍び込んでいた。先代伯爵宛ての手紙を、どんな些細な情報でも見落とすまいと文面をじっくり目で追っていく。
しかし、いくら探してもあの男に繋がるような記述はない。その時読んでいたのも、親戚から先代への年に一度らしきご機嫌伺いの他愛もない内容だった。前年の社交の時期に王都の屋敷へ招かれたことや、若い頃に狩猟の腕を競ったことなど、どうでもいい情報ばかり。
屋敷の主人が執務を行うための重厚な椅子を拝借していても、ずっと同じ姿勢で手紙を読み続けていては体も疲れてくる。収穫のない徒労感がそれに拍車をかけた。
「無駄かもしれないのよね……」
イレーネは窓の外へ目を向けて呟いた。窓を雨粒が叩き、風がごうごうと唸りを上げている。朝方は風が少し強いだけで天気は悪くなかったのだが、昼に近づくにつれ雨が降り出した。
だが、あの男が偽物であるという証拠を掴まなくては、誰もイレーネの訴えを信じない。そしてイレーネがあの男に気取られずに動ける範囲には限りがある。他の方法を探すのは、まずここにある手紙にあの男に繋がる情報はないと結論づけてからだ。女子供から老人まで躊躇なく殺す人間を相手にしているのだ。慎重に、安全な手段から潰していくべきだ。
諦めかけていたイレーネは、気を取り直し、また机の上の手紙の文面に視線を落とした。
そしてついに、その一文がイレーネの目に飛び込んできた。
『ご依頼のとおりに、貴公の庶子を当家の養子とする手続きは完了した』
明らかに、これまでと毛色の違う情報。
イレーネは強くなった鼓動を収めるため、深く息をした。今日は男は夕方まで戻らないはずだ。慌てる必要はない。
それは、クリストハルトが生まれた頃の、先代伯爵が遠縁の親戚から受け取った手紙だった。
『当家で養育し、分別のつく年齢になれば貴家へ奉公に出すので、夫人との折衝等そちらも迎え入れる準備をされたい』
先代からの依頼を受けて、その庶子を一旦養子に迎えたのち、いずれ伯爵家へ奉公に出すことを約束した内容。
先代の子供は、クリストハルト一人だけだ。少なくとも、対外的にはそうなっている。この庶子はどこへいったのか。イレーネは察しがついた。
血縁確認の魔術で、あの男は集まった親戚たちとの血縁の濃淡により、クリストハルトだと判定された。別人なのにその結果になって、イレーネはあの男が何か細工をしたのだと考えていた。だが、あれは適切に判定がなされた結果だった。
先代の庶子が、あの男だ。あの男は、クリストハルトの腹違いの兄弟だったのだ。
あの時、秘密保持のためとイレーネでも連絡を取れる相手として、伯爵家の血筋、すなわち父方の親戚としか血縁を判定しなかった。母方の親戚を比較対象に含めなければ、異母兄弟にクリストハルトと同じ結果が出るのも当然だ。
庶子の存在こそが、引退した執事のヨーゼフの持っていた重要な情報だ。ヨーゼフは、この屋敷でクリストハルトが生まれた頃のことを知る最後の人間だった。恐らく当時、庶子の存在が発覚して先代夫妻には諍いが起きたのだろう。だからヨーゼフも庶子がいることを認識していた。この秘密を知る者を消すために、彼は殺されたのだ。
「これさえあれば……!」
(この手紙さえあれば、王宮にもう一度血縁確認の申請を出せる。今度は母方の親戚とも比較されるわ。これであの男が偽物だと暴ける……!)
夫が別人だと誰にも信じてもらえない、この頭のおかしくなりそうな暮らしからは抜け出せる。イレーネの状況が悪化しようとも、保身のためにあの男の不法を受け入れるなどあってはならない。
イレーネは証拠の手紙を握りしめた。
(でも、これだけでは説明がつかないわ。どうしてあの男は、クリストハルトの人付き合いや仕事を即座に代理できるほど熟知していたの。血縁だけでは理由にならない……)
いずれ奉公に出すとあったので、予定通りであれば七、八歳ぐらいで伯爵家に迎えられたはずだ。その頃の手紙をもう一度見直して情報を集めようと、イレーネは机の上に取り出してあった分の手紙の束を片づけ始める。
その時、外の風雨の音に紛れて、ガチャリと扉の開く音が耳に入ってきた。
弾かれたように顔を上げると、扉を開けた姿勢で出入り口に立っていたのは、あの男だった。
「ただいま、イレーネ」
「あ……!」
イレーネは机の上に手紙の束を取り落とした。ばさりと散らばった封筒が、机からいくつかすべり落ちる。
驚いた様子もない男は、扉を閉めて、書斎の奥側に置かれた机の方まで歩いてくる。イレーネに逃げ場はなく、せめてもと机の傍から部屋の一番奥の窓際まで後退った。
男は机の上の、一通だけむき出しの便箋を手に取った。イレーネが持ち帰ろうとしていた、先代の庶子の存在を示す手紙だ。
「なるほど……。こんなものが残っていたのか」
手紙に書かれた庶子とは誰なのか。その答えをイレーネが察してしまったと、男も気づいているだろう。ヨーゼフたちと同様に、今度こそ消される。イレーネがこれまで生かされていたのは、男にとって重大な隠し事までは知らなかったからだ。
文面を確認した男は、読み終えてイレーネへ視線を戻す。秘密を暴かれたというのに、男は落ち着き払っていた。
「しばらく書斎で何かしているとは知っていたが、……よく見つけたね」
いずれそうなる心積もりをしていたかのような、むしろ、そうなることを待っていたかのような、静かな眼差し。青玉の瞳は、物悲しさすらあった。死への恐怖に呼吸さえ忘れていたイレーネは、その目を見てようやく息ができた。
男からは殺気を感じない。秘密を暴くための動きを知られたら、殺されると思っていた。だが男は、イレーネが彼の不在の間に秘密を嗅ぎまわっていると知っていたのに、放置していた。何のために。これも、血縁確認の魔術と同様に無駄なことなのか。イレーネは混乱していた。
「昔話をしよう。ほら、座って」
男は机の向こう側から回り込んできて、先ほどまでイレーネが借りていた椅子を勧めた。しかし、まだ呼吸も浅く緊張状態にあるイレーネは、窓にかかるカーテンに縋るように握りしめたまま、動けない。
イレーネに座る気がないとわかると、男は椅子の背もたれに手をかけたまま語り始めた。
「私がこの家にやってきたのは、八歳の時だった。母は、ただの町娘だったのか、娼婦だったのか、知らない。誰も教えてくれなかった。だが、自分の父親がフェルゼンシュタイン伯爵ということだけは、言い含められていたよ――」
男が窓の外へ視線を投げかけながら話す、遠い記憶。
腹違いの兄クリストハルトは、出会った時から男を嫌っていた。男が世間一般には軽蔑される婚外子だと知っていたからだ。同い年のまだ幼い兄が、父親に明言されていないのにその公然の秘密を理解していたのは、母親が繰り返し言い聞かせていたためだ。薄汚い愛人の子。お情けで置いてやっている、と。
夫人は結局子供を一人しか産めなかった。だから先代伯爵にとって男は、クリストハルトの予備だ。男が死なずに育てば、そして予備としてクリストハルトと同程度の能力を維持すれば、あとはどうでもよかった。
「夫人はよく私を鞭打ったよ。私は生まれた時点で、彼女の矜持を傷つけ、息子の立場を脅かす存在だったから。家庭教師から今日はいくつ間違ったか聞いて、その数だけ打つ。あと、クリストハルトに擦りつけられた失敗で打たれることも多かったな。まあ、理由なんて何でも構わないんだよ」
最低限の教育はされつつも、使用人を含む家人からの扱いは屋敷の息子ではなく奉公に来た行儀見習い。激しく折檻しても問題ない、むしろそうすべき卑しい存在。男にとってこの屋敷は地獄だった。
「馬車の事故の全身の負傷は都合がよかった。仮に顔しか負傷しない状況だったら、私の鞭の古傷の説明がつかなくて、早々に偽物だと看破されていただろう」
どんな扱いを受けても、男は耐えた。
やがて一切反抗しない従順な奴隷と認識され、クリストハルトの傍に控える役目を割り当てられるようになった。成長し、クリストハルトが伯爵家を継いでからもずっと、彼の補佐をし続けた。
「偽物だと見抜かれた時、私が誰なのかもすぐに分かると思ったが、案外、気づかないものだね。仕方ないことではあるが……。私は、使用人は、まるで居ないかのように振る舞うものだから」
「まさか……」
イレーネがクリストハルトと出会った時には既に、空気のように、彼の傍に控え続けていた人物。夫がどんな仕事をしているのか、誰と何を話したのか、誰よりも傍で見聞きしてきた男。それが誰か、イレーネは知っていた。知っていたのに、ようやく今、気がついた。
「あなた……、ヴェルナーなの?」
男は、馬車の転落事故で死んだはずの侍従だった。




