17.誰か分からない男
あの男がクリストハルトになりすましている理由、イレーネ以外には気づかれないほど巧妙になりすませている理由、いずれも分からない。
だが分かっていることはいくつかある。事故でクリストハルト、侍従のヴェルナー、御者のテオドール。そして事故後に愛人のアデーレと、息子のエメリヒと、引退した執事のヨーゼフ。この六名をあの男が殺した。
これほど大勢を淡々と始末していったあの男に、今更ためらいなどないだろう。彼が偽物だという秘密に気づいたイレーネも危険だ。
むしろ、悪事を隠蔽しやすいであろう所領へ戻ってきてしばらく経つというのに、どうして今まで生かされているのか。
(ヨーゼフが殺された理由が鍵になるわ)
その日の朝。屋敷の二階の自分の部屋の窓から、出かけるあの男の乗る馬車を見送ったイレーネは、早足に、そして静かに部屋を出た。
廊下に人の気配はない。複数の使用人が、先ほど出発したあの男の見送りのため一階に下りているからだ。そしてイレーネは具合が悪いから昼過ぎまで眠ると侍女に伝えているので、誰も部屋を訪ねてこない。
廊下の曲がり角から誰か現れないか緊張しながら、イレーネは同じ廊下に面している主人の書斎まで無事にたどり着いた。貴重品は金庫に入れてあるとはいえ、扉には鍵がかかっている。
鍵は事前に入手済みだ。あの男の持つ鍵束から探し、型を取って戻し、協力者の侍女経由で合鍵を作っておいた。あの男の眠る主人の寝室とイレーネの寝室は繋がっていて、それぞれの部屋に対して内開きの扉が計二枚連なっている。あちら側は基本的に鍵をかけていない。そのため隙を突いて型を取ることができた。
誰にも見られていないか周囲を警戒しつつ、イレーネは鍵を開けて書斎の中へ忍び込んだ。
内側から施錠してから見渡せば、書斎の中は、本や帳簿の並んだ棚、大きな机、休憩用のソファとテーブルなどが設置されていた。イレーネは用事がないのであまり入ったことがない。
まずイレーネが向かったのは、壁一面にずらりと並んだ棚の一つ目だった。上半分が書架で、下半分が両開きの戸棚になっている。
「どこにあるのかしら……」
下の戸棚を開き、中を順番に確認していけば、目当てのものは早々に見つかった。
それは、箱に乱雑に収められた手紙の束だった。全て開封済みの封筒で、厚みからして便箋も元通りに入れてある。最初に見つけた箱の手紙は色あせ具合からして何十年も前、先代伯爵の頃のものだろう。
他の戸棚も見ていけば、比較的近い時期の手紙の束も見つけられた。
「午前中で読める分だけにして、綺麗に片づけていかないと……」
イレーネがなぜ、書斎にある手紙を密かに確認しようとしているかというと、あの男の正体を暴くためだった。
あの男が愛人のアデーレまで消した理由は、クリストハルトとしての関係を綺麗に清算できなかったからなのか、イレーネでは気づけない微妙な変化を見抜かれ正体を暴かれそうになったからなのか、よくわからない。
一方老執事のヨーゼフについては、積極的に殺しに行っている。引退しているためそう会う機会などないはずで、仮に対面すれば別人だと見抜かれるとしても、そもそも会わなければいいのだ。それを危ない橋を渡ってまで消したということは、対面しての微妙な変化の察知以外に、ヨーゼフがあの男の正体に関する重要な情報を持っていたからではないだろうか。
むしろその情報さえなければ、屋敷の使用人たちや伯爵家の親戚たちが分からなかったように、イレーネのことは計算外だったとしても、対面した程度ではあの男が偽物と見抜かれることはないのでは。イレーネはそう考えた。
そうすると、イレーネをまだ殺さない理由も想像がつく。あの男が偽物だと悟られることを恐れるのなら、外から見て最も近しいはずの妻を真っ先に殺すべきだ。でも、ヨーゼフなら知っている重要な情報を持たないイレーネは、たとえ偽物と本人に気づかれていようと、すぐには殺す必要がないと思われている。
その情報さえあれば、誰にも信用されていないイレーネでも、あの男が偽物であると訴えを起こせるのではないか。
ヨーゼフの持っていた重要な情報が何かは見当もつかない。ただ、他の殺された面々やイレーネとの大きな違いは、ヨーゼフが古くから伯爵家に仕える人間だということだ。死んだ侍従のヴェルナーも幼い頃から奉公していたようだが、それよりも断然長い。ヨーゼフは先代伯爵の若い頃から在籍し、クリストハルトのことは生まれた時から知っているとしきりに語っていた。
察するにあの男は、ヨーゼフを殺すことで、今ではなく昔のことを隠したがっている。
ヨーゼフがいなくなり、先代伯爵夫妻も既に故人という状況で、密かに過去のことを教えてくれるものとしてイレーネが思いついたのが、この古い手紙たちだった。
クリストハルトと先代伯爵が受け取ったこれらの膨大な手紙は、夫が生前保管していると語っていた。例えば、イレーネの実家のトレーガー男爵家との些細な約束などを盾に、色々要求するためだそうだ。ここに鍵があるかもしれないと情報を遺してくれた点だけは評価できるが、何度思い出しても一片の情も湧かない夫である。
とにかくイレーネは、あの男の気が変わって始末されてしまわないように、気づかれることなく手紙の中を探っていかなければならない。
イレーネはまず、夫の幼少期から始め、そこから遡っていくことにした。
◆
使用人たちの目が気になるイレーネは、あの男が偽物だと気づいた後も、やむなくある程度の接触を続けていた。もちろん最低限で、あの男の在宅中の食事や、イレーネが使用人に指示をしている時に出くわす際などに限られる。それ以外は、基本的にイレーネが部屋に籠って避けている。
あの男は、勝手にイレーネの私室へ入ってくることはなくとも、そこから一歩出ると、自分も都合が合う時であればしょっちゅう寄ってくる。まだ偽物と気づいていなかった頃と同じと言えばそうなのだが、今はあの男がクリストハルトではない別人で、しかも簡単に人を殺すと知っているため、感じるのは恐怖だ。
さらに、男の留守の間に書斎の手紙を調べ始めたことで、それがばれていないかという緊張感も加わるようになった。
「ただいま、イレーネ。今日は何をして過ごしていた?」
予定より早く昼過ぎに帰宅した男は、居間から私室へ撤退しそびれたイレーネに立ち上がる隙も与えず、ソファの隣に座った。今から逃げて、あからさまな拒絶で男を刺激したくない。イレーネは我慢して、浮かせかけていた腰を下ろした。
「……気分が優れなくて、午前中は部屋で寝ていたわ」
本当は、書斎で先代伯爵の受け取った手紙を調べていた。ヨーゼフが知っていたであろう、この男が隠したい情報を得られることを期待して。なお、まだ成果は得られていない。
そうとは知らない男は、表情を曇らせた。
「確かに、顔色が悪いかもしれないな」
男は手を伸ばすと、イレーネの頬を指の背でそっと撫ぜた。ぞっとする感触に、イレーネは我慢できず、顔の向きを僅かに変えて逃れてしまった。
それでも男は気分を害した様子はない。
「まだ寝ていなくて大丈夫か?」
「もう、良くなったから……」
丁度、部屋には使用人がおらず、二人きりだ。
男はイレーネの顔の傍へ伸ばしたままの手で、髪をひと房指に絡めた。そして撫でるようにするすると手を下ろしていく。
「無理はしないように。使用人たちにも気にかけるよう伝えておこう」
男の声音はあくまでも穏やかで、まるで本当に妻の体調を気遣う夫のようだ。クリストハルトではないと気づいているイレーネに対し今更取り繕う必要もないのに、使用人などの人目がなくとも優しくする。
「結構よ。放っておいて……」
この男の気遣う演技が不愉快で、そして意図が分からず恐ろしい。それに、書斎へ忍び込みづらくなるので、使用人に気にかけられるのも困る。
まるでつれないイレーネの反応に、男は少し嘆息した。
「なあ、イレーネ。意地を張るのはやめないか」
顔を背けつつ視線を戻せば、男は眉尻を下げて憂いを帯びた表情を浮かべていた。使用人たちへ見せるための、様子のおかしな妻に向ける苦笑ではない。
「私は君を殺したりしないと言っているだろう。ならば、このまま私を避ける生活を続けても、無益だと思わないか?」
「……冗談はやめて」
クリストハルトの方が良かったというわけではないが、なりすました得体のしれない人殺しに怯える暮らしなどありえない。
「本気だよ。仮にだが、君は私を偽物だと告発して、それが成功したらどうするつもりだったんだ?」
「あなたはクリストハルトたちを殺した罪で裁かれるわ」
あの血縁確認の魔術を行使した場で真実が暴かれていれば、フーベルトゥスたちが衛兵を呼んで、すぐに捕縛されていただろう。殺人容疑は固まっておらずとも、少なくとも身分詐称は即座に判明するのだから。
「私ではなく、君がどうなるかだ」
ところが、男は首を横に振り、噛んで含めるように言い渡した。
「私がクリストハルトではなく、あの男は事故の時に死んでいたと、公になったとしよう。すると、君の置かれる状況は著しく悪化することになる」
イレーネは黙り込んだ。男の言うとおりだと、気づいてしまったのだ。
「死亡時に遡って、クリストハルトの財産の相続がされる。まともな内容の遺言はなかったからな。遺産の大半はあの男の息子へ渡る。赤ん坊だから、実際には愛人が受け取ることになるな。あの男は一方で、君には何も遺さなかった」
イレーネも、かつては予想し懸念したことだった。しかし男が偽物で人殺しで、自身も殺される危険があるという大事にとらわれ過ぎていて、イレーネは自分の状況を失念していた。
たとえ妻でも女に相続権はなく、遺言でしか直接財産を遺せない。クリストハルトがイレーネに遺産を相続させることなどないから、イレーネは実家へ帰るしかなくなる。
そして実家には居場所がないため、父の見つけた再婚相手の元へすぐに送り出されるだろう。不妊の疑いをかけられている男爵家の娘と再婚してくれるまともな相手などいない。伯爵家との婚姻のように関係を結ぶためではなく、比較的若い女として、実質売り飛ばされることになるはずだ。
この男がイレーネを殺さないという約束を本当に守るなら、その未来は今より良い状況とは言い難い。一層悪くなる。
「私を偽物だと暴くことは、君が自分で自分の首を絞めることに等しいんだよ。わかるね?」
イレーネが今も伯爵夫人でいられるのは、この男がクリストハルトになりすまし、フェルゼンシュタイン伯爵が生きている状況を作っているからなのだ。
男はクリストハルトの顔で微笑み、イレーネに穏やかな声で言い聞かせる。
「クリストハルトとの結婚生活を受け入れてきたように、私との暮らしも受け入れてしまえばいいじゃないか。偶然気づいたのは君だけだ。君さえ受け入れてくれたら、全て丸く収まるんだよ」
男はイレーネが黙り込んだのを悩んでいると受け取ったのか、肩へ腕をまわして抱き寄せた。所在なさげに膝へ置いていた左手も掬い上げるように取られる。男の大きな手のひらで掴まれたイレーネの腕など、彼の指が余るほど細く頼りない。
改めて交換した結婚指輪の青玉が薬指で光る。お互いの瞳の色の宝石をあしらった指輪。何を考えてこんなものを身に着けさせたのだろう。社会的にも、物理的にも、イレーネを支配下に置いたという証だろうか。
湧きあがる怒りのような強い、それでいてどこか冷静な感情が、男の手を振り払わせた。イレーネはソファから立ち上がり、男と距離を取って対峙する。
「馬鹿なことを言わないで。私はあの暮らしを受け入れていたわけではないわ。耐え忍んできたのよ。でも……、そうね、傍から見れば、黙り込んでいたのだから、受け入れていたようにも見えるでしょうね。けれど、もう以前の私ではないわ。耐え忍んでも、この状況は改善しないと、私がどうにかしなくてはいけないと分かっているから。自分の暮らしを守るためにあなたの不法を黙認するなど、許されないと分かっているから。私がこう思うようになってしまったのは全部――」
――これまで、押さえつけられてきた分、君も私に話してくれ。何を言われても、受け入れる。昔のように、いや、それ以上に、率直に自分を出してくれていいんだ。
舞踏会の帰りの馬車で、覚悟のうかがえる眼差しで訴えかけられた記憶が甦り、イレーネは言葉を詰まらせた。これが一つのきっかけだった。この男を人格の変わったクリストハルトだと思って、抑圧された感情を素直に出せるようになって、二人で生き直すと決意までさせた、きっかけ。
「――全部、あなたのおかげよ」
思い出せば胸が締めつけられ、最後の言葉を吐き出した息は震えていた。
イレーネはその胸の痛みで自覚した。殺人者からこの状況を受け入れるよう交渉を持ち掛けられたのに、無力な自らが危険も顧みず拒絶した理由。
今しがた告げた理由だけではない。この男をクリストハルトとして愛してしまって裏切られた怒りと悲しみが、イレーネにそうさせているのだ。
皮肉なことだ。懐柔のための演技が、この男が偽物と発覚した現在、イレーネに彼と強硬に対立させるほどの心の変容をもたらしてしまった。
イレーネの抵抗と決意を聞き届けた男は、また駄々をこねる子供相手のような対応でもするかと思われたが、意外なことに、どこか寂しげな笑みを浮かべていた。
「君はずっと踏みにじられてきたのに、芯の部分は昔と変わらないんだな……」
昔と。イレーネはその言葉に引っ掛かりを覚えた。
この男がクリストハルトではないことは、本人の口ぶりからして確かだ。
しかし、血縁確認の魔術によれば、比較対象である伯爵家の親戚たちとの血の濃淡からしてクリストハルトの続柄に当たると結果が出た。署名の筆跡だけでなく、これまでの人付き合いも違和感なく継続できた。
また、本物のクリストハルトとイレーネの、昔起きた出来事も知っている。
(結局この人、誰なのかしら……)
むしろ、初夜が成っていないと知らなかったことと、その後の発言を除けば、中身も含めてクリストハルト本人らしさが強いのだ。
なりすますにしても、クリストハルトの古い記憶までこれほど熟知した人間など、用意できるのだろうか。クリストハルトが何らかの理由で全てを共有したのなら、なぜ初夜のことは伝え漏れたのか。
そして、なりすます目的は一体なんなのか。ヨーゼフを殺してまで守った秘密と、何か関係があるのだろうか。
男の正体の疑問とイレーネの胸に渦巻く困惑は、深まっていくばかりであった。




