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16.暗躍する男(2)

 ある日、イレーネが居間で編み物をしている時に、執事のベンノが声をかけにきた。


「奥様、お伺いしたいことがございます」

「なにかしら」


 ベンノも以前はイレーネを軽んじていたが、事故後はやはり他の大半の使用人と同様に、丁重に扱ってくるようになった。あの男がイレーネに女主人の権限を戻したからだ。そのため、伯爵夫人として検討すべきことがあれば、こうしてお伺いを立てにくる。

 以前のことを何事もなかったかのように接してくるのは腹立たしいが、それでイレーネがへそを曲げては伯爵家の諸事が滞るので、怒りを収めるしかない。


「あら?」


 ベンノが用件を口にする前に、イレーネは彼の持つ手紙に気を取られた。おそらくあの男が差し出してくるよう託したのだろう。

 イレーネが気になったのは、その手紙に封印をしている封蝋の印璽(いんじ)だ。クリストハルトの指輪印章で刻印されたはずだが、以前と意匠が異なっている。

 その疑問の声と視線の先に気づいたベンノは、ああ、と声を上げた。


「旦那様は指輪印章を新しくされたのです。事故の際に指輪が行方知れずになりまして」

「そうだったの」

「既に王宮へ新しい印章を登録済みです。古いものも悪用されては困りますので事故現場を捜索しましたが、なにぶん小さいものですから……」

「そうね、仕方がないわね。……それで、何の用かしら」


 イレーネも新しい印章を覚えておかなくてはならない。それでその話題は打ち切り、ベンノに元の用件を尋ねた。


「先ほど知らせが来たのですが、ヨーゼフが亡くなったようです」

「まあ……」

「すでに葬儀も済んでいますが、遺族に見舞いを出そうかと考えております。手配をしてもよろしいでしょうか」

「そうしてちょうだい」


 ヨーゼフとは、老いで引退した元使用人でベンノの前任の執事である。先代伯爵の頃から仕えていた。たしか王都に親類がいるからといって移り住んだはずだ。

 引退した老人とはいえまだ元気そうだったのに、退職して一年も経たないうちに亡くなることもあるものかと、イレーネは少し気の毒に思った。ちなみにヨーゼフもイレーネを存分に軽んじていた。


「それで、ヨーゼフはいつごろ亡くなったの?」


 王都との距離を加味すると、イレーネたちが社交期間の終わりを迎えてあちらを出発した後だろうかと考えた。ところが、ベンノの返答は予想とは違っていた。


「こちらへの知らせが遅れたようで、奥様たちが王都に滞在されていた時期と重なります。王都を出立なさる直前にあたるかと存じます」


 どうやら所領へ帰る間際のことだったようだ。


「それほど具合が悪くなっていたのなら、存命中に見舞いの手紙でも出せたらよかったかもしれないわね」

「いえ、それが……」


 クリストハルトや義父は、親戚や長年奉公した使用人など、彼らの認識における身内には手厚く支援を行っていた。だから仮にクリストハルトがヨーゼフの不調を知っていれば、手紙の一つでも出しただろう。もしかすると王都に丁度いるのだからと顔も見に行ったかもしれない。なりすましたあの男が同じ行動を取ったかは不明だが。

 しかし、表情を曇らせたベンノは意外なことを口にした。


「老衰の類ではなく、自宅で転倒して頭の打ち所が悪かったようです。老いで足元がおぼつかなくなっていたのやもしれません。親類は近所に住んでいてもヨーゼフは一人暮らしで、発見も遅れたそうです」

「そう……。気の毒に」


 あとは余生をというところで、それなりに元気だったのにあっけない最期だ。ただ、イレーネは何となく、胸騒ぎを覚えた。

 ベンノが立ち去ってすぐ、あの侍女に渡す次の指示書を書くため、イレーネは早足に私室へ戻った。



 次の調査結果が届けられるまでには、かなりの時間を要した。なぜなら、王都まで行かなくてはならない内容だったからだ。


「なんてこと……」


 あの若い侍女を経由して届いた手紙には、イレーネの嫌な予感を的中させる事実が記されていた。


 イレーネが調べさせたのは、ヨーゼフの死んだ正確な日付だった。

 彼は亡くなった日の昼間、知人と会っていた。そして翌朝、用事のあった親類が訪ねると、自宅の床に倒れて死んでいた。そのためいつ死んだのか比較的はっきりしている。

 その日は、イレーネたちが王宮へ行き、あの男の血縁確認をする前日だった。同時に、その夜あの男は屋敷を不在にしていた。


 イレーネはすぐに、王都へ帯同されていた新顔の御者であるヤンに探りを入れた。あの男に伝わっては困るのであまり使用人に直接話を聞きたくないのだが、こればかりは仕方がない。

 王都での滞在期間の終盤であの男が行方をくらました夜がないか聞けば、印象に残っていたのか、一度あったとあっさり答えが返された。

 とある雨の日の夜、あの男は商談の帰りに突然馬車を止めるよう指示すると、下りて一人でどこかへ姿を消したそうだ。しばらくすると何事もなかったかのように戻ってきて、「妻への贈り物を手配しに行っていたから、内密に」と告げたという。ヤンは、その贈り物はもうとっくにイレーネに渡されただろうと考えたようで、素直に白状したのだ。

 もう少し詳しく聞いてみると、その雨の日は、やはり王宮での血縁確認の前日だとわかった。イレーネは夫の動向、特に不貞が気になる妻のふりをしながら、ヤンを口止めし解放した。

 イレーネには、偶然とは思えなかった。


 もう一つ、イレーネの嫌な想像を補強する材料があった。

 見舞いにも来なかった夫の愛人アデーレ。関わりたくなくて調べていなかったが、今回改めて確認してみれば、クリストハルトの息子エメリヒともども行方不明になっているらしい。

 あの男は、手切れ金を渡して関係を清算したと語っていたが、その後の足跡がまったく分からないのだ。使用人たちはただ、愛人に与えられていた別荘を引き払っただけ。その際、既に彼女は退去していた。

 身軽な女一人はともかく、クリストハルトの息子の消息までも不明なのは違和感がある。あの男は、赤ん坊に対しては責任を果たす素振りを見せていた。事実息子には、まだ夫婦の養子にしていなかったため爵位は引き継がれないが、男児に対する通常の相続権はある。安否を把握できないほうがおかしい。

 ただし、生きてさえいれば、という前置きがつく。


(愛人も、子供も、ヨーゼフも、あの男が殺したんだわ……)


 イレーネは悪寒に襲われ、身震いした。あの男が殺したのは、馬車の事故の三人だけではないのだ。


 男がクリストハルトの偽物だと気づいたときから、イレーネは自分の命の危険も認識していた。ただ、伯爵夫人が不審死しては、魔術師のフーベルトゥスに夫が偽物だと打ち明けていることもあって、男は痛い腹を探られる。それを嫌って、しばらく強引に殺しにかかってくることはないだろうと思っていた。

 だが、新たな凶行と犠牲者たちを知り、その予想は揺らぎはじめた。これほど大胆に、次々に人を殺した男が、イレーネごときを始末するのにそう手間取りはしない。

 自身の身の安全はそう長く保証されないと、イレーネはようやく理解したのであった。

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