14.夫で間違いないらしい男(2)
後日、男とイレーネ、そして伯爵家の親戚数名が、王宮のとある一室に集められた。魔術師たちが勤める区画にある応接用の部屋で、低いテーブルを囲むようにソファが配置されている。
招集された男たちは、傍系など、いずれもフェルゼンシュタイン伯爵家の流れを汲む血縁者だ。先日イレーネたちを夜会に招いたノイシュテッター伯爵もいる。社交の時期も終了間際で既に王都から所領へ帰ってしまった貴族も多いが、彼らは運よくまだ出発しておらず召喚に応じてくれた。
皆思い思いの席に着いているが、イレーネが硬い表情で夫と離れて座っていることは、不思議そうに見ていた。
最後の一人が案内され、伴っていた使用人を部屋の外に置いて扉が閉められると、隅の方で器具を準備していたフーベルトゥスが進み出てきた。
「ご足労くださいまして、ありがとうございます。本日は、フェルゼンシュタイン伯爵と、皆様の血縁確認をすべく召喚させていただきました」
「いったい、どういう経緯でそうなったんだ?」
親戚たちには、クリストハルトに対する血縁確認を行うという予定のみ事前に伝えられ、詳細は説明されていなかった。彼らは、悠然と足を組んで座るあの男に怪訝な表情を向ける。
男は、笑っていた。もうあと少しで偽物だと暴かれる危機的状況だというのに、焦りは微塵もなく、ただただ困ったような笑みを浮かべている。
「いや、申し訳ない限りです。実は妻が、私が先日の事故を機になりすました別人ではないかと言い出しまして」
親戚たちは目を丸くして言葉を失う。そして次の瞬間、堰を切ったように笑い声をあげ始めた。
「なんだてっきり、血統が怪しくなったのかと思えば!」
「クリストハルト、夫婦喧嘩か?」
「事故の件があって精神的に不安定になっていたのでしょう。そこで私が誤解されるような行動を取ってしまったせいで、このようなことに。申し訳ありませんが、彼女の気が済むようご協力いただけますか」
嘘でも笑い話でもない。男と会話しつつ投げかけられる親戚たちの蔑んだ視線に、やはり証拠がなくては信じてもらえないのだと、イレーネは悔しくて俯いた。膝に乗せた手を握りしめて、屈辱に耐える。
(でも、すぐに証明されるはず……)
イレーネは逃れようのない断罪の場を用意したという自信があったのに、男の態度に胸騒ぎを覚えていた。何か細工でもするつもりなのか。
しかしフーベルトゥスに事前に確認したが、もう一人別の魔術師も立ち会い見張っており、魔術の仕組みや手順的にも男が結果を捻じ曲げる余地はないとのことだ。
「はじめましょう」
男たちの会話を遮って、フーベルトゥスが魔術の道具を持ってくる。テーブルに置かれたそれは、カップ一杯ほどの水を詰められた同じ形の細身の瓶が、木枠に嵌められて並んでいる不思議な器具だった。水は左端に透明なものが、そこから右へいくにつれ少しずつ赤くなり、一番右は血のような色をしている。
続いて水の張られた杯も用意された。銀製で、林檎の実と伸びやかな枝葉の絡み合う繊細な彫刻が施されている。
「この杯に、まずフェルゼンシュタイン伯爵の血を落としていただきます。一滴で結構です。その後、親戚の皆様の血を同様に一滴ずつ入れてください。その都度、水の色を判定します。この並べた見本の瓶の色と見比べて、血縁があるか、あればどの近さに当たるかがわかります。例えば最も濃い、濃度第一位の瓶。こちらは双子の兄弟姉妹の場合に出る色です」
フーベルトゥスが指し示したのは、血の赤も通り越した黒に近い水の瓶だった。逆にあまりにも血の繋がりが薄すぎると、血縁なしと同じ透明の色になるとのことだ。
まず男が、用意された針を親指に刺し、ぷくりと浮いてきた血を杯に落とす。音もなく着水した血は、そのままぼんやりと解けて消えていった。一滴だけではほとんど色はつかない。
その杯をフーベルトゥスが手元に引き寄せた。手をかざしながら歌にも聞こえる呪文を唱えれば、その音色と言葉は輝きを帯びる。まるで夜空に浮かぶ微かな光の河と化したそれを、糸のように手繰り寄せて杯に纏わせていく。その糸が積もると、杯の水面がぼうっと明るく光った。
「これで、後は判定に移れます」
光の収まった杯を、フーベルトゥスが押してテーブルの上をそっと滑らせる。
「では私から」
それを一人目の親戚が引き寄せて自分の前へ置いた。彼はノイシュテッター伯爵で、クリストハルトの従兄弟に当たる。
ノイシュテッター伯爵は、あの男がしたように新しい針で指を刺して、杯に血を垂らした。血は杯の水にふわりと広がって溶ける。
男は偽物なので、血縁なしと判定されて水は透明なまま。
そうなるはずだった。
「そんな……!?」
声を上げたのは、イレーネだけだった。身を乗り出して、杯を確認するが、近くで見ても、間違いはない。
杯の水が、赤く染まっている。
「……濃度は第四位。従兄弟だと、判定できますね」
第四位にあたるのは、男なら曽祖父、大叔父、従兄弟など。見本と比較したフーベルトゥスが、渋面を作って結果を言い渡す。
ふっと誰かが息を吐く音がして、イレーネは反射的に顔を上げた。誰が笑ったのか。視線を巡らせると、口元を手で覆っていたのはあの男だけだった。イレーネの行動を、嘲笑っている。
「次の方、どうぞ」
別の親戚がまた同じように、杯へ血の雫を落とす。
もしかすると、先ほどのノイシュテッター伯爵の第四位の親類に、偶然あの男がかすめていたのかもしれない。だが偶然は一度しか起きない。他の親戚とも合わせて判定すれば、必ず本物のクリストハルトではありえない判定になるはずだ。
しかし。
「……第六位ですね」
テーブルに開いてある、クリストハルトを含むフェルゼンシュタイン伯爵家の系図を、フーベルトゥスが指でなぞる。
そのあと結局、最後の一人の比較対象の親戚も、クリストハルトであれば正しい判定結果が出た。
「では、この場におられる方々との血縁とその濃度より、あなたがクリストハルト・フェルゼンシュタインではないという疑義が否定されました。よろしいですね?」
最後に結論を申し渡すフーベルトゥスの言葉に、イレーネ以外が同意の言葉を返した。
(どうして……!? この人自身が、クリストハルトではないと認めていたのに。でも、それならなぜ判定がクリストハルトを示すの)
考えても分からない。この男が自分の血を流すところは、イレーネもしっかり見張っていた。この場の親戚たちと、クリストハルトと同じ血縁関係になるような人間を、用意できるはずもない。
何が間違っているのか。
「では、今日のことは内密にお願いします」
「当然だ。夫婦喧嘩とも知らずに呼び出しに応じた、私たちの恥にもなるからな」
立ち上がった親類たちは、呆れと僅かな苛立ち混じりにそう言い捨てて、席を立つ。
彼らはクリストハルトが先代伯爵の息子ではない疑義が生じ、それで今回招集されたと思いこの場へ足を運んだのだ。もしそうなら、フェルゼンシュタイン伯爵の地位と財産は、誰か他の親戚へ相続し直されるが、期待外れだった。
彼らが部屋の出入り口へ歩く間に、まだ座り込むイレーネへ向けられた視線。妙な騒ぎを起こした、頭のおかしい女。これだから成金の男爵家の娘は。口に出されずとも、その蔑んだ眼差しはイレーネに全てを伝えてきた。
とてもではないが顔を上げられず、イレーネは俯くしかなかった。
「さて、魔術師殿」
親戚たちや立会人の魔術師も退室し、三人だけになった室内に、本物のクリストハルトということになった男の声が勝ち誇ったように響く。
「妻の悩みを親身に聞いてくださったことは感謝するが、あまり真に受けすぎるのも困りものだな。あなたも経歴に傷をつけたくなどないだろう。――さぁ、帰ろうイレーネ」
「いやっ……!」
「伯爵!」
男はイレーネの腕を引いて立ち上がらせると、そのまま出入り口へ歩き出そうとした。振り払おうと抵抗しても、イレーネの力では男には全く敵わない。
その乱暴な振る舞いに、フーベルトゥスが制止しようと声を上げた。だが、止められる道理などないのだ。
「よく考えていただきたい。ここで駄々をこねる妻を置いて帰るほうが、夫としておかしなことではありませんか?」
「それは……」
対外的に見れば、そのとおりだ。この男が偽の夫であるという前提がなければ、物事の見え方は真逆になる。そして血縁確認の魔術の結果が出てしまったからには、フーベルトゥスにも男を止める道理がない。
「フーベルトゥス様……!」
結局フーベルトゥスは、助けを懇願するイレーネから、目を逸らした。
「行こう、イレーネ」
扉の前まで半ば引きずられて、それでも抵抗を続けるイレーネに、男はそっと耳打ちした。
「イレーネ。今は私と彼しかいないから、どうとでもなる。だが、扉の外には当家の使用人が待っているだけでなく、王宮の人間が大勢行き交っている。彼らにこのような醜態を晒すつもりか?」
仮にこのまま引きずられていったとしよう。人々がおかしな目で見るのは、男ではなくイレーネの方だ。
先ほど向けられたばかりの、侮蔑と嘲笑の眼差し。それを想像してしまえば、イレーネは大人しくなるしかなかった。
◆
イレーネが監獄へ送られる囚人の気分で帰りの馬車へ乗り込むと、男は当然のように隣に座った。離れたくて窓際へ寄ろうとする前に、手と腰を引かれて捕まえられる。
「やめて……!」
男は暴れるイレーネを、抱き寄せて腕の中に閉じ込めた。走り出した馬車の中の叫びなど、御者の耳にも届かない。
「イレーネ。君が何を企んでいるかなど、手に取るように分かっていたよ。結局失敗に終わることも。血縁確認で君の主張が誤解だと結論づけられたからには、君が今後私を告発することは一層難しくなったと理解しているか?」
「それは……」
男の言うとおりだ。今回の結果が、イレーネの訴えを虚言だということにしてしまった。再び血縁確認を申請しても、次は却下されるだろう。
イレーネにとってこの血縁確認が、確実な証拠を得られるはずの、最初で最後の手段だったのだ。この男の告発には、血縁確認の魔術に頼らない、そしてそれ以上の確実な証拠が必要になってしまった。
そして男はこの結果を見越して、イレーネの失策を手ぐすねを引いて待ち構えていた。
「なあ、君になにか不都合はあるのか?」
男は、イレーネを抱き締めたまま、頬に手を添えて上を向かせた。まるで唇を重ねようとしているかのような手つきと距離感に、イレーネは顔を背ける。
「私はあの男の代わりを完璧に務めている。一方で、あの男のように君を苦しめたりはしない。なぜ私を追い出そうとするんだ」
「ふざけないで。いくら上手くなりすまそうと、あなたはクリストハルトではない。私の夫ではない、他人なのよ。それを知りながら、平然と一緒に暮らせるはずがないわ……!」
どこの誰とも知れない男に、今抱き締められているのだ。おぞましさを感じ、真実を暴こうとするのが当然だ。
だが男が喉で笑う声が、密着した体から響いてくる。
「それでも、一緒に暮らすしかないんだよ、イレーネ。君だけしか、私が別人だと知らない。証明できない。皆信じない。先ほどの伯爵家の親類たちの目を覚えているか」
侮蔑と嘲笑に歪んだ目が、イレーネの脳裏に甦る。あれは、この一件がその場限りのことになったので、親類たちからだけの視線だった。もし、もっと話が広がればどうなるだろうか。使用人たち、社交界の人々。全員が、イレーネがおかしくなったと思うようになったら。
想像して身を固くするイレーネを宥めるように、男は上機嫌で背中を優しく撫でた。背けられて露わになった首筋に、勝手に口づける。
もう、イレーネの処遇はこの男次第だ。秘密を握るイレーネではなく、握られているこの男に全ての権利がある。自身が知らないうちに逃れようのない窮地にいると気づいたイレーネは、男の無体を振り払えなかった。
「どうして、こんなことを……」
クリストハルトへの怨恨か、伯爵家の爵位や財産を狙ってのことか。問いかけたその声は、イレーネが思った以上に弱々しく震えていた。
「もちろん、私が君の夫で、君を愛しているからだ」
男は『妻の献身的な看病に心を入れ替えた夫』の演技の延長線上の嘘を、からかうように口にした。クリストハルトになりすました理由は、あくまで明かさない。
イレーネは聞き直すこともできず、恐怖に呑まれて口を噤むしかなかった。
その数日後、社交期間の終了を迎えた二人は、王都の屋敷を出立し所領へ帰っていった。




