13.夫で間違いないらしい男(1)
少しずつ夫との関係を修復しつつあったイレーネがまた拒絶を始めたと、使用人たちはどこか呆れた様子だった。寝室から逃げ出した夜に出くわした侍女が、あの男に誘導されたとおりに状況を誤認し、それを他の使用人たちにも共有してしまったので、イレーネが過敏に反応して夫を拒んでいると思われている。
だが、自分だけがあの男はクリストハルトではないと知っているイレーネは、いくら証拠がなかろうと、見ず知らずの不気味な他人を受け入れるつもりなどなかった。
冷静に考えて、あの男は馬車の事故を機にクリストハルトになり代わったのだろう。本当は別人なのに、クリストハルトだと思い込まされていたため、事故で滅茶苦茶になった顔は夫の絵姿に沿って修復されてしまった。
もしかすると、あの男がクリストハルトになり代わるために事故を起こしたのかもしれない。同行者は侍従と御者の二人だけ。馬車さえ崖下へ落してしまえば、高確率で全員死ぬし、辛うじて生きていてもとどめを刺すのは容易だったはずだ。
どうにかして、あの男が夫ではないと証明しなくてはならない。あれほど完璧にクリストハルトの代理をこなしている男だ。泳がせても尻尾を出すことは期待できない。
そこでイレーネが思いついた手段は、確実で透明性が高いものかに思われた。
◆
大通りに面した料理店の一階のテラス席。白いクロスのかかったテーブルの上にはカップに注がれたお茶が二人分。
イレーネの向かいに座る男は、少し年上の、茶色い髪と紫色の瞳の青年である。
「お手紙を下さるとは思ってもみませんでした、伯爵夫人」
イレーネが王都の高級店街にある料理店へ呼び出したのは、王城勤務の魔術師フーベルトゥスだった。
白いローブでもなく、先日の舞踏会のような盛装でもなく、金のある中流層も利用するこの店でも浮かない相応の紳士の服装をしている。対するイレーネも、この場に馴染む装いを選んできた。
「以前お会いした時に、フェルゼンシュタイン伯爵の不興を買ってしまったようですから」
前回会った時、イレーネが彼に迫られている現場に駆けつけたクリストハルト――もといあの男は、命の恩人であるフーベルトゥスを敵意もあらわにして追い払った。フーベルトゥスは一代限りの男爵位を持っているが、より上位のフェルゼンシュタイン伯爵に脅かされては太刀打ちできない。そもそもフーベルトゥスがイレーネの手を勝手に握るなどの行為をしなければよかったのだが、彼の側だけに立ってみればある意味危ない状況だった。
今回、イレーネの呼び出しに応じたフーベルトゥスは、密会しているような後ろめたさもなく、楽しげに見える。
「あれは、夫も不躾だったかもしれません。代わりにお詫びします。けれど、私が誤解を受けるような振る舞いをしたことも一因と理解しているのですが、その……、あまりみだりに触れないでいただけますか」
「ええ、もちろんです。今後は夫人のお許しをいただいてから、触れるようにします」
まるで次があるかのような物言いに、イレーネは閉口した。こんなふうに男性から距離を詰められたことがないので、どうしていいのか分からない。
ただ、前回のような危ない目には遭わないはずだ。離れたところには店の従業員のみならず伯爵家の使用人も付き従っている。何よりテラス席なので人目も多い。
なお、現時点では密会であるが、それはあの男の不在中に外出してきたという意味で、一人で出歩けないイレーネは当然に伯爵家の馬車で移動してきたし、帰宅すれば、あるいは外出した時点であの男に誰と会うか知らせが飛んでいるだろう。それでもイレーネは、今あの男に邪魔されずフーベルトゥスに会えればそれでよかった。
「それで、私に何の御用でしょうか」
「……事故の翌月、フーベルトゥス様が夫の顔の修復をなさる前に、彼の記した署名の一致で本人確認をしてから魔術をお使いになりましたね」
「はい。以前別件で王宮へ提出された伯爵からの書状と、署名を見比べて確認しました」
まだ整形の魔術を施してもらう前だったので、後遺症により動かしづらそうではあったが、あの男はクリストハルトと非常によく似た署名をしてみせた。
顔は誰か分からないほど損傷していたが、出かけたクリストハルトと同じ服装で、髪と目の色も同じで背格好も近い。事故現場で発見されたその男は、署名による本人確認も乗り切って入れ替わった。
「実は、あの人は、……どうやらクリストハルトではないようなのです」
「な……!?」
彼の動揺がカップのお茶の水面を揺らす。愕然とするフーベルトゥスは、しばらく言葉を発さず硬直した。
「……根拠を、伺っても?」
テーブルの上で手を組んだフーベルトゥスは、もう落ち着いていた。掴みどころのない笑顔から一転、真剣な、魔術師の顔に変わっている。
もし別人をフェルゼンシュタイン伯爵として整形してしまっていたのなら、それを施したフーベルトゥスにも何らかの責任が生じるのかもしれない。だからこそ取り合ってもらえると期待していたイレーネは、彼の反応に内心安堵していた。
そうしてイレーネは、初夜のことなど一部を伏せつつ、あの男がクリストハルトであれば知っているはずの事実を誤解していた旨を説明した。
「事故の後から、夫は別人のようだと感じていました。それでも、本当に別人とまでは思っていませんでした。あまりにも自然に、夫の人生の続きを生きていましたから……。ですが、今は断言できます。あの男は夫ではありません」
「なるほど……。夫人が私に直接連絡をくださった理由がわかりました」
掘り下げるための質問以外はせず聞き入っていたフーベルトゥスは、固い表情で少し考え込んだが、すぐにイレーネの目論見に気がついたようだ。イレーネは深く頷いて応える。
「はい。血縁確認の魔術をお願いしたいのです」
それは、その場に立ち会う本人と比較対象者の、血縁の有無と血の濃さを判定する魔術だ。フーベルトゥスら王宮の魔術師により管理されているため、王宮の許可を得なければ使ってもらえない。
「確認の対象はフェルゼンシュタイン伯爵……になりすました男で、比較対象はどのようにお考えですか」
「夫の両親は既にこの世にいません。私でも連絡が取れて、協力を仰げそうなのは、伯爵家の血筋で数名というところです」
「続柄が異なって、複数名いれば、それで十分でしょう。秘密を守ってもらうためにも範囲は絞るべきです」
この血縁確認の魔術を使い、あの男と、伯爵家の親戚たちの血縁関係を判定する。別人であれば、血縁関係なしと出る。仮にいずれかの親戚と偶然血が繋がっていたとしても、他の親戚たち複数名との関係がなしと出たり、血の濃さが本物のクリストハルトとは異なって出たりするはずだ。
「王宮にも秘密にできればよかったのですが、魔術の無断使用は後から分かるようになっていますし、重罪に当たります。ですから王宮へ正式に申請して血縁確認の魔術を使用します。まあ、相手を間違えたかもしれない件は、規程に則った手順で本人確認をしましたから、私はそこまで咎められないでしょう」
「私の疑念程度で、許可は得られるのでしょうか」
「私も口添えしますから、大丈夫です」
フーベルトゥスに不安な様子はない。これは王宮の許可も期待できそうだ。
これで、あの男が別人だと確かな証拠をもって証明できる。イレーネは大きな一歩を踏み出したと確信していた。
◆
「あの魔術師と会っていたそうだね」
イレーネより後に帰宅した男は、使用人を居間から退室させると、何でもないことのようにそう切り出した。
この男がクリストハルトではないというイレーネの主張は、邸内ではまったく受け入れられていない。証拠がなく、主人のふりをしているこの男の方が発言力があるからだ。
当初イレーネは、徹底的に逃げ隠れしていた。可能な限り私室へ引きこもり、夜は寝室に中から鍵をかけ、朝に侍女が来るまで閉め切る。だが、徐々に関係を修復しつつあったはずの夫婦の異常事態に、使用人たちが口を出してくるようになった。自分以外の全員が味方ではない状況は、精神的につらいものがある。
結局イレーネは、使用人たちに奇異の目で見られない範囲でしか、男と距離を置けなくなった。男の外出中か、鍵をかけていても問題ない夜間の寝室ぐらいしか安心できる時間がない。
いつでも逃げられるようにと、出入り口に一番近いソファに腰かけて、イレーネは警戒心をあらわに男を睨みつけた。
「それが何か?」
「いや、君があの男と関係しているかなどとは、疑っていない。会話をしていただけだと、使用人たちも証言してくれている」
まるで、妻の行動に神経質になっている夫のようだ。だが、この男はクリストハルトではない。それを看破されていながら、まだイレーネの前で夫の演技を続けているのだ。
「何を頼んだのかは知らないが、私は無駄な結果に終わると思うな」
日中連れていった使用人は、会話を聞ける距離にはいなかった。だから密告されたわけではないはずだ。それでもこの男は、何を頼んだか知らないと言いつつ、イレーネがフーベルトゥスに接触した目的を推測している。
だが、イレーネの気力を削ぐ程度しかできることがないのだろう。無駄だと言われたぐらいで取り下げるはずがない。
「クリストハルトのふりをしていられるのも、今だけよ。悪意をもってなりすましていたことが分かれば、必ず裁かれるわ」
しかし、男はクリストハルトの顔で意味深に笑うだけだ。この笑みは、イレーネの動きを嘲笑うものなのか、自身の窮地を理解していない狂気の発露なのか。
もしや王宮からの呼び出しから逃れられるとでも思っているのかと、イレーネが疑念を抱く前に、男は自ら宣言した。
「心配せずとも、王宮からの召喚には応じるよ。フェルゼンシュタイン伯爵であれば応じるべきだからね」
王宮からの召喚があると想定しているということは、やはりイレーネがフーベルトゥスに何を頼んだのか悟っている。
男の嘘が暴かれる寸前だというのに、その余裕の態度は不気味でしかなかった。




