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12.なりすまし夫(2)

 結婚した三年前、イレーネは務めと我慢し、覚悟を決めて初夜に臨んだ。ところがクリストハルトは、イレーネに対し愛人に操を立てていると宣言して、指一本触れなかった。イレーネが望んだ強引な結婚だと思い込んでいた彼は、体を明け渡そうと震える妻を軽蔑すらして初夜を終えたのだ。

 それ以降も、夫婦が寝室を共にすることはなかった。


 いくら政略結婚で嫌われていようと、そして自らが嫌っていようと、婚姻したからには後継者を産む役目がある。だからイレーネは、お互いに貴族としての義務を果たさなくてはならないと、クリストハルトを嫌々説得した。


 しかし、妻を石女呼ばわりして、愛人と彼女に産ませた息子を伯爵家へ引き入れるという浅はかな計画を企むクリストハルトは、聞く耳を持たない。

 それどころか、最終手段として「初夜が成っていないことによる婚姻無効を訴える」と告げたイレーネに、信じがたい言葉を返したのだ。


 ――どこへ訴える? 教会か?

 ――そうよ。私たちが真の夫婦ではないと証明されれば、婚姻無効であなたは独身に戻る。そうなれば、後継者としてあの子を養子に迎えることもできなくなるわ。


 婚外子の男児を後継者として養子へ迎え入れる貴族法の特例は、本妻との間に男児がいない場合にしか適用されない。イレーネとクリストハルトが婚姻無効で関係を解消すれば、彼はそもそもこの特例の適用対象外となるのだ。

 だが、イレーネの予想に反して、クリストハルトは落ち着き払い、邪悪な笑みを浮かべていた。


 ――では知っているか? 私たちが初夜を迎えていないと、他人に、どうやって証明するか。

 ――それは……。

 ――処女検査しかないだろうな。だが、どのように行われるかは知らずにいる様子だ。股を開き、修道女に指で膣を広げられて、証人となる男の聖職者たちに処女膜を検分させるんだよ。目で見て分からないと聖職者が言えば、彼らには指を入れて直接触って確かめることも許されているそうだ。


 イレーネは愕然とした。そのような方法で純潔を証明するとは、知りもしなかった。例えば修道女だけで検分するなど、尊厳の守られる方法が取られると思っていたのだ。


 ――いくら清廉潔白を謳おうと、聖職者は厚い法衣の中に欲望を隠している。脂肪に膨れた指で、お前の処女膜を丁寧に、不必要なまでに触って確かめた後、彼らは昂った性器を隠れて鎮めるだろうな。お前に挿れた方の手で、お前の顔を思い出しながら! 男たちに下半身を晒し、指で犯されても我慢できるというのなら、訴えてみればいい。まあ、そんな勇気のある(恥知らずな)女の二人目の夫になりたい男が存在するのか、見てみたいものだがな。


 クリストハルトに詰め寄られ、その光景を想像して、あまりのおぞましさにイレーネは口を噤むしかなかった。彼の狙い通りだ。

 これが、イレーネが初夜が成っていないと公にできない理由だった。



「あ、あなた……、誰なの!?」


 イレーネは緩みかけていた夜着の胸元を押さえ、クリストハルトではない男の体の下から後退り、ベッドの枕元の方へ逃げた。

 男はとっさの反応もないまま、凍りついていた。


 使用人たちは、クリストハルトが初夜だけ済ませ、後は嫌いな妻を遠ざけているのだと誤解していた。しかし実際は、一度目すら起きていなかったのだ。

 イレーネも、夫に見向きもされていないという恥だけでなく、彼の語ったような処女検査を受けさせられることを恐れ、公にできず黙っていた。それが自身の状況を悪くすると分かってはいても、相談できる相手などいなかった。


 これは、イレーネとクリストハルトだけしか知らない秘密だ。

 では、初夜が済んでいると勘違いしている、夫婦の秘密を知らない目の前の男は誰なのか。


 突然のイレーネの拒絶に凍りついていた男は、やがて額と目元を隠すように手で覆い、溜息をついた。


「そうか……、君はまだ、誰のものでもなかったのか……。あんな愚かな男でも、初夜を避けられないことぐらいは理解できると思っていたが、まさかそれすら放棄していたとは……」


 第三者としての言葉は、男がクリストハルトではないと自分の口で認めたも同然だ。


「……っく、……ふ、はは、ふははははは!」


 堪えきれずに溢れたような、男の哄笑。こんな状況で、男は笑っている。


 イレーネは恐怖と混乱の中にいた。

 これが夫ではないなら、一体誰なのか。本物のクリストハルトは、どうなったのか。夫になりすましているこの他人が、どのような害意を持ってここにいるのか。

 なんなら、今ここで殺されるかもしれない。ここまで手の込んだことをしているのだ。余程重要な目的があるはずだ。それなら、夫が偽物だと気づいたイレーネを口封じのために殺してもおかしくない。


「わ、私を殺すの……?」


 すると男は笑い声を収め、自分の顔を覆っていた手をぱっと離し、クリストハルトの顔でイレーネに微笑みかけた。


「まさか! そんなことはしない。安心してくれ、イレーネ」


 にじり寄って距離を詰めると、まるで先ほどの続きを始めるかのように、男はイレーネに触れようとした。

 恐ろしくて、おぞましい。イレーネはその手を振り払った。爪が当たって、男の手に浅く赤い線を作る。


「軽々しく呼ばないで!」

「夫が妻の名前を呼んで何が悪いんだ?」


 もうクリストハルトではないと看破されたというのに、男は気安くイレーネの名を呼んだ。まるで、このままクリストハルトの演技を継続しようとしているかのようではないか。

 その信じがたい懸念を読み取ったのか、男は邪悪な笑みを深める。


「イレーネ、落ち着いて考えてくれ。私が本当に別人だと、事故の後から疑わしいところは一つでもあったか?」


 そんなこと。

 イレーネはあげつらおうとして、何も出てこないことに、青くなった。


 事故を機になりすましが始まったとして、誰か不審に思った人がいただろうか。

 他人のはずなのに、この男はクリストハルトの担っていた役目を完璧にこなしている。顔見知りには自然と応対し、以前話したことも覚えている。領地運営を含む仕事については事故前以上に上手くやっている。

 事故前と大きく変わったことといえば、イレーネへの態度だ。しかしその豹変は、事故後の看病に感銘を受けたから、ということで納得されてしまっている。イレーネ自身もそう思っていた。

 イレーネだけが、偶然気づいたのだ。


「……っ!」

「イレーネ、待ちなさい!」


 ベッドから下りたイレーネは、男の手を避け、そのまま部屋を飛び出した。

 薄い夜着でも構わず、誰か人の気配を求め、追いかけてくる男から逃げる。


「あっ、奥様!?」

「助けて!」


 そうして出くわしたのは、ランプを片手に廊下を歩いていた侍女だった。イレーネより少し年上で、王都で今年から雇った女性だ。

 半ば縋るようにしがみついたことで体勢を崩しかけ、二人で座り込んだところで、イレーネのガウンを手にした男が追いついてきた。


「こ、この人、クリストハルトじゃないわ。知らない人なの!」

「え? 奥様、いったい……」

「イレーネ……」


 やれやれと肩をすくめて見せた男の仕草に、イレーネは戸惑った。なぜこれほど余裕を見せているのか。イレーネに偽物だと見破られ、侍女にも知らせたというのに。


「君、すまないな。まぁ、少し……、怖がらせてしまったようで。わかるだろう。私たちは、しばらく上手くいっていなかったから」

「あなた、何を言っているの……?」

「今夜はもう、私は自分の寝室で休むよ。だから、しばらく彼女の傍にいて落ち着かせてやってくれ。――じゃあ、おやすみ、イレーネ」


 男はまるで慌てる様子もなくつらつらと並べ立てて、イレーネの肩にガウンをかけると踵を返して廊下の暗闇に消えていった。

 あんな取り留めもない言い訳に、どんな効果があるというのか。イレーネは落ち着いて侍女に事情を説明しようと意気込んだ。

 ところが。


「奥様、大丈夫ですか。大変でしたね。しばらく間が空くと、その……、体に負担がかかりますから、驚いて、嫌になってしまうこともありますよね。ですが、知らない人とまで言われてしまっては、旦那様もお困りになりますよ」


 彼女の口ぶりは、まるで、妻としての務めを放棄したことを優しく宥めるようなものだった。

 イレーネは悟ってしまった。顔も、振る舞いも、何もかもが以前のクリストハルトと齟齬のないあの男を、別人だと訴えても証拠はなく、イレーネの方がおかしなことを言っていると思われるだけだ。

 今夜のことも、久しぶりに夫婦が寝室を共にするにあたり、夫が少し無理を強いて、妻が過剰に反応して拒絶したと、皆の目にはそう映る。


 偽物だと知っているのは、確信を持っているのは、イレーネただ一人。

 あの男は、イレーネに見破られようと、このままクリストハルトのふりを続けるつもりなのだ。

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