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10.知らない夫

 それは、ある夜会の帰りのことだった。

 馬車の中で二人きりで、間を空けつつも並んで座っている。以前は最大限距離を取れるように、彼は向かい側の座席で、お互い窓際へ寄って対角の位置にいた。


 日中色々と出かけた後の最後の予定を終え、もうすっかり遅い時間だったので少し疲れており、イレーネは黙って窓の外を見ていた。特別会話がないのはいつものことだが、以前は絶対に話しかけてくれるなと念じ、居心地悪く感じていた。しかし今は、慣れてしまったのか不思議な心の余裕がある。


 並んで座るようになったのも、一つの契機だったかもしれない。

 先日、どうもクリストハルトの具合が悪そうだと気づいた時があった。それで尋ねてみれば、実は彼は馬車酔いする体質だったそうだ。これまでずっと悟られないよう我慢し、酔いづらい進行方向向きの席をイレーネに譲っていたのだ。

 さすがに気の毒に感じて席を代わるよう勧めるが、クリストハルトは頑として譲らない。イレーネは距離を取ることを継続していたので、彼が向きを変えるということはイレーネが酔いやすい後ろ向きの席に着くことになるからだ。

 そこでイレーネが折れて、二人とも進行方向向きの席に座るようになった。狭い馬車の中のことなので、お互い間を空けて窓へ寄っていても、これまでと距離はほとんど変わらない。そのためか、案外不快に思うことはなかった。


 午前中、屋敷に仕立て屋が来ていた。外出着をもう少し増やした方がいいというクリストハルトの提案だ。訪ねてきたのは、先日舞踏会で着るためのドレスを新しく作った仕立て屋である。

 その仕立て屋から聞いた話に、イレーネは考えさせられていた。


 ――先日お作りしたドレスはいかがでしたか?

 ――え、ええ。そうね、悪くはなかったわ……。


 実のところ、クリストハルトに勝手に作られたので仕方なく受け入れただけで、イレーネははっきりしたあの緑色が好きではなかった。しかし仕立て屋に気に入らなかったとは言いづらい。

 まさか夫婦仲が悪いとは思いもよらない仕立て屋は、いい仕事をしたと会心の笑みを浮かべていた。


 ――旦那様からドレスについてお聞きになりましたか? あれほど骨子の発想が明確で熱心な方も珍しくて、私もつい力が入ってしまいました。事前に何度も意匠の絵図をやり取りしていたんですよ。


 クリストハルトは自身の容貌が美しいからか、その美的感覚にも絶対的な自信を持っており、身に着ける物には気を使っている様子だった。ただ、事故前の彼は、イレーネの髪の色から服から小物の全てに難癖をつけてきたが、これを身につけろと指図することはなかった。物を贈られたことも、先日のドレスを含め事故後からになる。どうでもよかった女に着せる衣服の準備に、仕立て屋と何度もやり取りをするほど手間をかけていたのだ。


 ――あれはどんな意味のドレスなの?

 ――まだお聞きになっていなかったのですね。ですが、私から申し上げるわけには参りません。


 含みを持たせるのでつい詳しく聞くと、そうはぐらかされてしまった。クリストハルトに尋ねるようにということらしい。


 今夜の外出に、イレーネはその緑のドレスを着ていた。せっかく贈られたというのに、あの夜会以来しまい込んでいた。普段結い上げている髪も、あの時勧められたように下ろしていた。

 単に、クリストハルトが連れ出す今期の用事の多さに対して、イレーネの持つドレスの種類が少なく、着まわしの選択肢がなくなったのだ。それだけだ。


 だが、この装いで支度を終えて出てきたイレーネを、クリストハルトは心底嬉しそうに迎えた。思ったことをある程度口にできるようになってきたとはいえ、この色は本当は好きではないなどとは今さら明かせない顔だった。


「今日は、ありがとう」


 物思いにふけっていたところで、隣に座るクリストハルトから、突然礼を言われた。

 顔を向ければ、いつもどおり実は馬車酔いしていて不調なのだろうが、それを感じさせない穏やかな微笑みを浮かべ、イレーネを見つめていた。


「それを、着てくれて。髪も、下ろしていた方が、私は……、似合っていると思う」


 他人と話すときや仕事の説明をするときはよく回る口が、イレーネとごく私的な会話をする段になると、たどたどしく、随分言葉を選んでいるように聞こえる。


「以前は、薄汚い色だと言っていたわ」


 だから、結婚してからはずっと髪を纏め上げていたし、それでも文句を言われればレースのベールで隠した。

 結婚前はよく下ろしていた。クリストハルトには罵られても、イレーネは自分の髪が好きだった。母が、よく褒めてくれていた。


 イレーネがまた責めると、クリストハルトは悲しげに、困ったように眉を下げる。


「ああ……。覚えている。だが今は、柔らかくて優しい色だと思っている」


 いつから彼の薄っぺらな、事故前とは一貫性のない言葉で胸が苦しく感じるようになったのか。イレーネはクリストハルトの言葉を、嘘ではないのだろうと頭では理解していても、心で受け入れられなかった。どうしても以前受けた傷が痛み、拒絶させる。

 もう傷つけられなくなったというのに、心を掻き乱されてばかりで、苦しくて仕方がなかった。


「このドレス……」


 ただ、なんとなく、このドレスの意味は聞いておこうと思った。


「あなたが随分気を配っていたと、仕立て屋が話していたわ」


 沈黙により一旦途切れた会話が再開され、俯き加減だったクリストハルトは顔を上げる。おそらく、謂れを伝えるつもりはなかったのだろう。少しの間視線を彷徨わせてから口を開いた。


「それは、白百合のドレスなんだ」

「……緑だけれど」


 指し示すかのように、イレーネはスカートの部分を撫でた。全体として緑を基調としたドレスであり、とても白百合には見えない。


「いや。君が着ることで、白百合になるんだよ」


 そう返したクリストハルトは、真剣な眼差しでイレーネをじっと見つめた。まるで愛の告白でもしているかのようだ。


「君の肌が透き通るように白いのと、月光のような髪の色をしているから……、君が白百合の花弁そのものなんだ。だから、身に纏うドレスを緑にすれば、一輪の白百合を体現する。緑が、正しいんだ」


 説明しながら、クリストハルトは徐々に自信なさげに目を逸らしていった。最終的に窓の外を向いてしまったが、これは恥ずかしがっているらしい。


「そう……」


 イレーネはドレスの特徴的な幅の広い襟に思わず触れた。繊細な蔦模様に一切の乱れはない。仮にイレーネの肌と髪を白百合の花弁とするなら、それを引き立てるために首肩へ視線を集める意匠になっていると思われた。


 白百合は、イレーネにとって母との思い出の、大事な花だ。それもあって、クリストハルトはイレーネ自身にも白百合の印象を持っているのだろう。

 イレーネがクリストハルトと会話をしたがらず、すげなく接したから、彼は妻の好きなものも嫌いなものも未だ十分には知れないままだ。だから、唯一確信を持っている大事なものに、似せた品を贈ることにしたのだ。それがこのドレスだった。


 これまでは、あまり好きではない色使いで、着る人間の意思を無視した贈り物を押しつけられたのだと嫌っていた。

 物で釣ろうという魂胆はやはり好きになれない。だがイレーネは、このドレスの持つ意味については、大事にしようと考えた。彼のことや色使いが嫌いでも、この贈り物はご機嫌取りで雑に選んだものではなく、間違いなくイレーネを慮って作られた品だからだ。


 彼と同じように窓の外へ目を向けたイレーネは、寒いわけではないがおもむろに腕を撫でた。

 何気なく着ていたはずのドレスが、クリストハルトの思いの分まで重みを増したように感じて、落ち着かなくなったのだ。



 王都の屋敷や敷地は、所領のものほど広くはない。庭もあるが、通りと敷地を仕切る鉄柵が距離はあるとはいえ視界に入るので、往来の気配も感じて落ち着かない。

 それでもその微かな騒がしさが欲しくて、イレーネは庭に面するテラスへ出した長椅子に腰かけ、ぼんやりしていた。

 夏場の屋外であっても、屋根の下の日陰にいれば十分過ごしやすい。丁度この日は風もあった。


(彼を許すべきなのかしら……)


 クリストハルトは、おそらく事故の負傷により、元の最低な人格を失っている。今の彼は、記憶はそのままに、イレーネを愛し、償い、許しを求めている。

 しかし、人が変わったからといって、同一人物であることに変わりはない。イレーネを虐げ傷つけてきたのは、間違いなくあの男だ。今でも、されたことは忘れられない。三年間、イレーネがどれほど苦しんできたことか。


 それでもイレーネは、自分の怒りが解けていきつつあるのを感じていた。報復してやりたいというような怒りは湧かなくなり、ただただその償いという名のご機嫌取りが腹立たしく不快になり、そして、それすらも薄れてしまっている。今は、あの青い瞳で乞うような眼差しを向けられると、胸が苦しくなるのだ。

 事故の後の彼だけを見れば、誠実な人だから。イレーネが久しく与えられていなかった、愛情をくれる人だから。


(でも、いつかまた戻るのかしら。私のひと月の看病に深い感謝を口にしたように、簡単なきっかけで心を翻すのではないかしら。許して意味があるの? 許して、私に何が残るというの?)


 まだ一年も経っていない。彼が悪魔だった期間には遠く及ばない。一時的に人格が変わっているだけで、すぐまた戻るかもしれない。それぐらい、頼りない状況だ。

 三年間はどうにか耐えた。だが、これほど穏やかな日々を過ごし、彼を信じた後でまたあの地獄へ戻るのであれば。その落差が今度こそイレーネを殺すだろう。

 どちらがより安心か、よく分かっている。クリストハルトを拒み続け、来るべき日に備えることだ。今のままなら、イレーネは壊れずにあの日々へ戻ることができる。

 なのに、これほどに悩んでしまう。


「イレーネ」


 優しく、少し嬉しそうに弾む声が、背後からかかる。長椅子へかけたまま振り向けば、クリストハルトが開け放った掃き出し窓からテラスへ出てくるところだった。

 イレーネの態度が僅かに軟化するたび、彼は心底ほっとしたように顔を綻ばせ、徐々に距離を詰めてきた。


 長椅子の背もたれへ手を置いて、イレーネに問いかけてくる。


「隣に座っても、構わないか」


 以前の彼なら、そもそも声をかけなかったし、百歩譲ってここに座りたいならイレーネを追い払っただろう。しかし今は、どこか不安さを一縷残しながら尋ねるのだ。

 それが当初は鬱陶しかったのに、今は呆れたような、どうするのが正解か分からず戸惑うような、複雑な気分になる。


「好きにすればいいわ。全てあなたの所有物ですもの」


 冷たく投げやりに言えば、クリストハルトは悲しげに眉根を寄せて微笑んだ。


「そうかもしれないな、君以外は。だが私が聞きたいのは権利の話ではなく、君が私を隣に座らせても不快に思わないかどうかだ」

「それは……」


 心の内を問われて、イレーネは言葉を詰まらせた。

 クリストハルトが事故後に豹変してすぐは、顔も見たくなかった。しかし今はどうか。積極的に話したいわけではないが、以前のような、いつ機嫌を損ねるかという恐ろしさや、ご機嫌取りへの怒りや不快感は感じない。

 むしろこの憐れな必死さが、許すべきではないかとイレーネを悩ませる。


「不快……、とは、違うような気がしているわ……」

「……ありがとう」


 イレーネの遠回しな許可に、クリストハルトは礼まで述べて隣へそっと腰かけた。

 何か話題があるわけでもなく、居心地の悪い空気が流れる。イレーネは、許可を与えておきながら、すぐに席を立ってどこかへ行くのも子供じみていると、黙って耐えた。自覚はなかったが、すぐ逃げずにそう思うことも、心境の変化の結果だった。


「君と――」


 隣のクリストハルトが、躊躇うように口火を切る。イレーネは顔は正面の庭園の風景へ据えつつ、視線をちらりと彼の方へ向けた。彼が自身の膝の上で軽く組んだ手に、目が留まる。広い手の甲には、浮き出た血管だけでなく、袖口から伸びる事故の傷跡も這っていた。


「――やり直せる道は、あるか?」


 そんなもの、あるはずがない。喉元まで出かかる。受けてきた仕打ちを思えば、感情としては当然の答えだ。

 しかしイレーネは撥ね除けられない。悩んでいることがある。僅かな良心の呵責や、彼が元の人格に戻ったり、イレーネを好きではなくなったりする可能性。そして何より、実家ですら疎まれている女が、ここ以外で生きていく術がないからだ。和解し、クリストハルトが心変わりしないことを願って、彼の妻でいるしかない。

 ひどく惨めだ。


(でも……、この人は、それに触れないわ)


 イレーネの許しを強引にでも得たいのなら、その弱点を叩けばいいのだ。「妻として関係修復に応じないのなら、この先も誠実に接していけるかわからない」と。今は感情的で頑なになっているイレーネも、明示的に最後通牒を突きつけられれば、折れるしかない。今悩んでいられるのも、クリストハルトが実質猶予を与えているからだ。


 ――いくらでも、君に償う。一生をかけて、これからの人生、私の血の一滴に至るまで、君への贖罪に捧げる。


 舞踏会の日、帰りの馬車で彼が誓った言葉。決意のうかがえる悲愴な瞳を覚えている。

 クリストハルトは、イレーネの命運が未だ彼の手の上にあるとはおくびにも出さず、まるでイレーネに選択権があるかのように振る舞う。だが当然、この弱すぎる立場を理解しているだろう。


(本当にこの人、変わったのね……)


 威圧や立場を誇示することなく、ひたすら下手に出る。イレーネを脅かさず、心からの許しを得るために。これも、かつてのクリストハルトにはできなかったことだ。

 行動は押しつけがましくとも、誠実さは一応ある。


 イレーネは、ようやく覚悟を決めた。


「……あなた、事故の後は、まるで知らない人みたいだわ」


 隣で、クリストハルトが息を呑む音が耳に入る。驚く彼に、まさか自覚がないのかと呆れたが、イレーネはそのまま続けた。


「以前のあなたのことは、許せない。だから、だから……、知らない人と、新しく始めるつもりで、接してみることにするわ」


 膝へ置いた手を、握りしめる。怖くて仕方がない。今のクリストハルトに嘘はなくとも、将来の彼を無条件には信じられない。裏切られるかもしれない。イレーネから歩み寄るこの選択が、どんな結末をもたらすのか。


「イレーネ」


 イレーネの膝の上の握りこぶしに、クリストハルトの手が重ねられた。

 顔を上げれば、クリストハルトは青玉の瞳とかち合う。喜色で細められた目の端には、涙が滲んでいた。


「ありがとう。君の信頼を……、身を切るような決意を、絶対に裏切らない」


 笑顔を返すことは、まだできない。だが、イレーネの中には、もしかするとクリストハルトとの正常な未来を歩めるのではないかという、僅かな希望が芽生え始めたのだった。

 この話の中で、ヒーローがヒロインに緑のドレスを贈った理由を語るシーンがございました。

 このヒロイン本人を白百合の花弁、ドレスの緑を葉や茎とする色合わせにより、一輪の白百合を成立させる概念は、表紙イラストを描いていただきました青ちょびれ様のアイデアです。カラーラフの複数案の中で緑のドレス案を提案くださったのですが、その際ご説明くださったこのアイデアに私が惚れこみ、お許しを得て本編で取り上げさせていただきました。

 この場を借りて改めて青ちょびれ様にお礼申し上げます。ありがとうございました!

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