花嫁の不安Ⅷ
(ルトガー様なら教えていただけるかしら?)
ちらりとルトガーを見上げれば、彼は穏やかな笑みを口元に湛えると空を仰いだ。
「花嫁殿、せっかくですので、あの子にもあいさつの機会をお与えください。――フェイル」
その声に答えるように、さきほどまで空を飛翔していた鳥が、彼の長い革手袋をはめた腕をめがけて急降下した。
近くで見ると、遠くから見ていたよりもはるかに大きい。
「さぁ、お前も赤竜王陛下の花嫁殿にごあいさつなさい」
フェイルは、ぎょろりとした目をミレーユに向けると、まるで彼の言葉を理解しているかのように頭を下げ、ピィーピィーと鳴いた。
鋭い嘴に大きなかぎ爪をもつ雄々しい姿とは裏腹に、なんとも可愛らしい声だ。
「まぁ、とても賢い子ですね」
「この子は同じ後鳥に比べても有能ですが、聞き分けの良さは私の能力が関係しています」
「能力……ですか?」
「私たち一族は風の術を得意とし、後鳥を使役する能力がございます。使役する力の強さは魔力にもよりますが、王族となるとこの一帯の鳥すべてを使役することも可能です。もっともそれは有事のさいのみで、本来はフェイルのような特別な後鳥を一匹選び、相棒とするのが習わしです」
「フェイルはルトガー様にとって特別な存在なのですね」
「ええ。出立が遅れ、ごあいさつの場に間に合わず途方に暮れておりましたが、この子の散歩に付き合ったおかげで、こうやって赤竜王陛下の花嫁殿にお会いすることも叶いました」
彼の話を興味深く聴いていたミレーユだったが、一瞬「あれ?」と、なにか違和感を覚えた。
自分は何に対してそう感じたのか考え込もうとしたとき、ルトガーはフェイルを空へと放すと、おもむろに地面に片膝をつき、ミレーユに頭を下げた。
「!?」
それは臣下が主君に捧げる最敬礼に匹敵する儀礼だ。
ミレーユは瞠目し、慌てて制止しようとしたが、それよりも先に彼が滔々と語る。
「ここでお会いできたのも、我が一族の始祖神が、貴女様に礼を告げろと、この場をお与えくださったのでしょう。この巡り合いに感謝しなければ」
「私に礼?……何のことでしょう?」
問えば、彼は伏せていた頭を上げ、ミレーユを見つめて言った。
「十年前、赤竜王陛下が出された紛争禁止の布告は、花嫁殿の希求があったからとお聞きしております」
「あ……」
「当時、我が一族は熊族と対立しており、血で血を洗う戦が長きに渡って続いておりました。両国共に多数の死者を出すも休戦には至らず、どちらか一方が滅びるまで終結は難しい状況下でした」
(それほど大きな戦があったなんて……)
南の大陸の歴史については、読書禁止令がナイルから言い渡される前、一度だけ図書館の本で知る機会があった。
しかし内容は簡潔で、近隣諸国について記されていたのも年表に時系列のみ。規模については記述がなく、それほど大きな争いだったとは想像もしていなかった。
「ドレイク国からの御触れが出ていなければ、確実に犠牲者の数は増え続けていたことでしょう。若き赤竜王陛下に助言していただき、感謝申し上げます」
ルトガーがさらに頭を下げようとしたため、ミレーユは慌てて両手を振った。
「すべてカイン様のお力があってこそです。私はなにもしておりませんわ」
十年前、竜族によって世界各国に出された争いを禁止する布告。
ミレーユはずっと先竜王が出したものだとばかり思っていたが、けれどそれは間違いで。
実際に提言し、指示したのは当時まだ幼かったカインことヴルムだったという。
この事実をナイルに教えてもらったときは、どれだけ驚いたか。
「ですから、お礼でしたら私ではなく、どうかカイン様に」
ミレーユの言葉に、彼が小さく笑った。
「いいえ。赤竜王陛下は花嫁の願いだからこそ耳を傾け、実現に至ったのです。そうでなければ、どれだけ救済を懇願しようとも、たとえ世界が荒廃の道を辿ったとしても、けっして聞き入れてはくださらなかったでしょう。花嫁が願わない限りは」
竜族には強大な力を持つがゆえに、他国に干渉しない制約がある。
きっと、鷹族と熊族の諍いに介入しなかった経緯も、そのことが大きいのだろう。
「竜王陛下の花嫁に注ぐ執着は何よりもお強い。もしも花嫁が世界のすべてを我がものと願えば、竜王陛下は直ちにそれを実行するでしょう。花嫁のためならば世界を滅ぼすことすら厭わない。――竜とは、そういう生き物ですから」
静かに詩を読むかのような抑揚のない声だった。
「そんな……。カイン様は、そのような馬鹿げたな願いを実行されるような方ではございませんわ」
底冷えするような話を、ミレーユはすぐさま否定した。
彼はそれに言い返すことはなく、すっと立ち上がる。
金銀に輝く仮面の奥から微かに見える黒青色の瞳が鋭く感じられるのは、彼が鷹の末裔だからだろうか。
「もちろん赤竜王陛下が無慈悲な方とは申しませんが、花嫁殿への想いは計り知れないものがございます。なにせ――」
彼が次の言葉を紡ごうとすると、遠くからルルの元気いっぱいな声が聞こえてきた。
「姫さま~っ。そろそろ戻らないとナイルさんに見つかっちゃいますよ~」
勢いよく駆けてくるルルの姿に、ルトガーは開いていた唇を閉じ、足を一歩後退させた。
「お迎えの方がいらっしゃいましたね。それでは、私はここで」
そう言って辞去の礼をすると、くるりと背を向ける。
入れ違いで去るルトガーの存在に気を留めたルルが、「ん?」と横目で彼を見る。
「……あの方、どなたですか?」
「鳥綱族の中でも最上位種、鷹族のルトガー・イーグル様よ。少しお話をさせていただいていたの」
ミレーユの説明に耳を傾けながらも、ルルの視線はルトガーの後姿に向いていた。
その表情はお世辞にも好意的なものとは言えず、眉間に皺を寄せ、口の端も曲がっている。
「ち、鳥綱族といっても、とても礼儀正しくてお優しい方よ。怖い方ではなかったわ」
ルルは鳥綱族に対しても本能的な恐れは持たないが、隣国の有鱗族と鳥綱族にはさんざん辛酸を嘗めさせられてきたためか、ルルはヘビと鳥が大嫌いだった。
ルトガーが彼らと同じだと誤解されないよう、慌ててフォローをいれるが。
「ルル、ヘビとトリとネコは大キライです!」
キッパリと断言し、ふんっと横を向く。
「そう……。でも、頭にけだまを乗せて猫は嫌いと言っても、あまり説得力がないんじゃないかしら?」
今日も今日とて、けだまは自分の定位置はここだとばかりに、ルルの頭の上に陣取っていた。
傍から見たらとっても仲良しの光景に、つい口が滑ってしまう。
「これはルルが好きで乗せているわけじゃなくて、コイツが勝手に乗ってくるんです!」
そう言って、頬をパンパンに膨らませて怒るルルをなだめるのには、少し時間がかかった。




