花嫁の不安Ⅵ
外出先から戻ったばかりなのか、右手に持っていた外套を従者に渡すと、長い脚が優雅な足取りでこちらに近づいてくる。
カインの靴音以外、すべての音が消え、広い室内がシーンと静まり返った。
周りにいた来客たちも若き竜王の登場に息を呑み、命じずとも道をあけ、まるでそうすることが当然のようにそろって腰を折り、敬服を捧げる。
上位種族の中にいてもひときわ異彩を放つカインに、さきほどまで尊大な態度を取っていたイライザまで頭を下げている。
ミレーユも慌てて同じ体勢を取ろうとしたが、それよりもさきにナイルの右手が伸び、静かに制された。
「ミレーユ様はこの者たちとは違います。竜王と花嫁は対等なお立場ですから」
暗にけっして頭を下げるなと言われ、ミレーユは直立不動で彼を待つしかなかった。皆が頭を下げる中、この姿勢は非常に居心地が悪い。
そのせいで、「どうした? なにかあったのか?」と問いかけるカインの質問にすぐに対応できず、先に発したのはルルだった。
「この方、姫さまのことちんくしゃって言ったんです! 許せません!」
糾弾するようにイライザを指さし怒りを露わにするルルに、カインは考え込むように首をひねり。
「ちんくしゃとはどういう意味だ?」
「――……え?」
牙をむいていたルルの表情がすん、と真顔になり、ゆっくりとカインへ向き直る。
ルルは、しばし無言でカインの顔を見つめた後、今度はくるりとミレーユの方を振り返り質問を投げた。
「姫さまっ、ちんくしゃってどういう意味ですか!?」
「知らずに怒っていたの?!」
てっきり言葉の意味を理解して腹を立てているかと思いきや、実際は分かっておらず。イライザの露骨な態度に、イヤなことを言われたと反射的に怒っていただけのようだ。
「えっと……意味は……その……」
ミレーユも、『ちんくしゃ』がおそらく罵倒の一種なのだろうということは分かる。
(でも、“おそらく”程度の認識で答えるのは……)
言葉を誤れば、カインとイライザの関係にヒビがはいることにもなりかねない。
迷っていると、何を思ったのかカインはそっとミレーユの前に立ち、その端整な顔を向けた。
「ミレーユへあてた言葉なら、それはきっと――」
耳に馴染んだ優しい声も、久しぶりに聞くとドギマギする。
以前、母国から帰国した際、カインから接触の機会を増やしてほしいという要望を受け、ミレーユは羞恥を抑え、亀の歩みなりに頑張った。その甲斐もあってか、彼の美麗すぎる容姿に少しずつ慣れてきたと思っていたのだが、どうやらしばらく会えていなかった時間のせいで、耐性は完全にリセットされてしまったようだ。
光の渦を放つような美貌がチカチカと眩しくて、反射的に目を閉じてしまいそうになる。
そんな直視できないでいるミレーユをカインはうっとりと眺めると、豪語した。
「きっと、愛らしいと言う意味だろう。当然だな!」
「――え? え? ……え?」
イライザ のミレーユに対する憎しみと尊大さが入り混じった瞳から見ても、そういった類のものではないだろうことはさすがに分かる。
けれどそれを伝えてしまえば、この場の雰囲気を苛烈なものにしてしまうだろうことは必至。彼を従姉妹と争わせたくはない。
こういうとき、どういうリアクションが一番摩擦を少なくするのか悩んでいると、カインの解釈にいきり立っていたルルがしょぼんと肩を落とした。
「ふぇ? 悪口じゃなかったんですか? ルル、勘違いしていました。ごめんなさい」
「ルルはすぐに謝ることができて偉いですね!」
すぐさまイライザに謝罪するルルの頭を、ゼルギスがここぞとばかりに撫でまわす。
そんな見るものが見れば和やかなワンシーンが広がる中、当のイライザはふるふると身体を戦慄かせ、「なんなのよ、この茶番は!」とばかりに怒りを露わにしてカインに問い質した。
「カイン様っ、なぜです!? なぜこの子をお選びになられたのですか!?」
「――? 私がミレーユを選んだんじゃない」
さらりと答えたカインの言葉に、ミレーユは心臓をつかまれたような心地になる。
(カイン様に、選択権はなかった?)
ならば彼の気持ちは自分になかったということだろうかと、一瞬生まれた不安。
しかし、カインが次に発した言葉の威力は、それを上回るものだった。
「私がミレーユに選ばれたんだ!」
どやぁと誇らしげに言われ、これにはイライザだけでなく、ミレーユも固まった。
堂々とした彼の宣言に、一瞬でも彼の気持ちを疑った自分が恥ずかしくなる。
が、恥ずかしさと居たたまれなさに赤面している場合ではない。
こんな上位種族ばかりが集まった場で、まるでミレーユの方がカインよりも優位であるかのような発言などとんでもないことだ。
「そ、そのようなお言葉は恐れ多すぎますっ」
声をなんとかふり絞り伝えるがカインは聞いておらず、久しぶりに会えたミレーユの姿に浮かれすぎて、周りなどどうでもいいとばかりだ。カインの態度に、案の定イライザは怒りを露わにした。
「こんなっ、伯母様とは雲泥の差の娘のなにがいいというのですか !?」
「雲泥の差というなら、私にとっての泥は母上ということになるが」
至極当然とばかりに答えるカインに、イライザの顔色がサーッと青く染まる。ワナワナと震えている唇と指が、その驚愕を表していた。
「……わたくし、今日はこれで失礼いたします……――ですがっ」
ぎゅっと唇を引き結び、イライザはキッとミレーユを睨みつけた。
「こんなちっぽけな娘をお選びになったこと、いずれ絶対に後悔しますわよ!」
ドレスの裾をひるがえし、去り際に放った叫びも、カインは雑音にもならんとばかりに聞き流しており、そもそも視線がイライザに向いていなかった。
彼にとっては上位種族の虎族ですらまったく眼中になく、唖然としている周りの他種族を気にする様子もなく。ただ嬉々としてミレーユに話しかける。
「せっかく会えたんだ。後で散歩に行かないか? ちょうどミレーユの好きなカラーの花が満開を迎えて――」
「はい。では、そろそろ参りましょうか」
誘いの言葉を言い終わる前に、傍らにいたゼルギスがパンッと両手を打ち、彼の腕を引く。
「よかったですね。ひと時でもミレーユ様とお会いできて。それでは、次は海底観測が待っておりますよ」
「なっ、ちょっと待て!」
まだろくに話もしてないだろうぉおお、という叫びが広い室内に響き、そして掻き消える。
一連の騒動は、ドリスが去った時以上の混乱ぶりだった。
そんな騒然とする会場内で、数人の客たちがコソリと話し合う。
「どうやら今回の竜王陛下と花嫁の御関係は正常のようだな」




