花嫁の不安Ⅱ
ミレーユはすぐさま長椅子から立ち上がり、兄に駆け寄る。
「お兄様、お越しになっていたのですか」
「あぁ、婚儀の打ち合わせでな」
短期間で何度もドレイク国とグリレス国を行き来している兄は、すでに来訪にも慣れた様子だ。それでも空中庭園を見るのは初めてだったためか、しきりに天井を見上げては、「すごいな……」と、感嘆の声をあげた。
ドレイク城のただでさえ高い建造物の上に、さらにガラス張りの温室を設けるなど母国では技術的にも不可能。
しばしその構造に見惚れていたロベルトだったが、ハッと思い出し、「そうだ。先に伝えておくことがあった」と前置きして話し出した。
「ドレイク国よりいただいた婚資金だが、お前の希望通り孤児院や病院にも十分な金額を回しておいた。あれだけあれば生活資金だけでなく、建物の建て替えや補修にも充てられるだろう」
「――!」
兄からの報告に、さきほどまで落ち込んでいた気持ちがグッと上向きになる。
母国の孤児院の貧困は、長年ミレーユの心を痛める懸念事項の一つだった。
平均寿命が短い齧歯族は、親のいない子供が多い。というのも、《齢十六までの調和盟約》で、子供の成長がゆっくりなのに対し、大人は十六歳を過ぎると一年に三つ年を取るため、子供が成長する前に親の寿命が尽きる場合が多いのだ。
親をなくした子供たちは、子供同士で身を寄せ合い、協力して生きるのが常。年上は年下の面倒をみる。子供であってもできることはする。共存の輪でなんとか生活していた。
母国でも、できる限りの支援を行ってきたミレーユにとって、この報告はずっと胸に支えていた気がかりを払拭させてくれるものだった。
「これを機に、受け入れ人数の拡充についても各施設の院長とも話し合う予定だ。こちらのことは気にしなくていい」
「お兄様、私の願いを叶えて下さり、ありがとうございます」
「俺に礼を言うのはおかしいだろう。元はお前の婚資金だ」
「金銭的な援助も、正しく示してくださる方がいらっしゃらなければ意味を成しません。お兄様が国を治めてくださっていることが、私にはなにより心強いのです」
ミレーユの心からの笑顔に、ロベルトも表情を和らげ、視察の状況を含めた子供たちのようすを伝えてくれた。
「あの子たちも、ミレーユの花嫁姿を楽しみにしているようだ。異国に行く機会なんて一生に一度あるかないかだからな、かなり興奮していた。――まぁ、無事出席できるかどうかは、まだなんとも言えないが……」
「やはり、国民全員となると難しいですよね」
カインが母国の民と交わした約束。
それは、ドレイク国への国民全員の招待だった。
齧歯族は短命ではあるが多産系、その数は多い。
最初に聞いたときは、さすがにそれは無謀すぎるのではと考えていたが、そんなミレーユの心配をよそに、ドレイク国が提示した解決策は素晴らしいものだった。
こちらに支障が出ぬよう優秀な人材を派遣し、宿泊先の手配や案内まで完璧。まさに至れり尽くせりだ。
「しかもとんでもないことに、うちの民のために、閉鎖されている南の大陸の港を開けてくださるそうだ」
「港を、ですか?」
東西南北に繋がる陸地の真ん中に存在する中海。 形だけでみれば巨大な湖なのだが、月の満ち潮により、大陸の一部が外海と繋がり海水で満たされること。そして、いまは大陸同士が繋がっている地形だが、遥か昔は離れており、中海も現在の形ではなかったという。
北に位置するグリレス国と、南に位置するドレイク国は遠国ではあるが、中海を抜ければ確かに陸を通るよりはるかに早い。
けれどこの中海を抜ける行為は、どこの国にも許されていなかった。
沿岸付近での漁や、近隣諸国への船の移動は許されても、中心地を通る行為はどの国でも禁止されているのだ。それは、中海にはときおり数百キロに渡り大渦が発生し、普通の船では木っ端微塵に破壊されてしまうことが一つの原因としてあげられる。
それゆえに、港を開けるというドレイク国側の提案に驚いた。
「大渦を回避しつつ通るとなると、陸の移動とあまり変わらぬ時間になるのではないでしょうか?」
「大渦が発生しても、大渦ごと海水をどけるそうだ」
海水をどける?
兄の言葉の意味を理解することができず、ミレーユは首を傾げる。
「海を割って、道をつくり、そこに大型の馬車を走らせるそうだ」
ロベルトは淡々と説明を続けるが、やはり意味が分からない。
ミレーユの乏しい想像力では、壮大な物語を聞かされているのだろうかという感覚しか生まれず、現実感が湧かない。
(海を割って、道をつくって、馬車を走らせる? え……海って割れるものだったかしら?)
「それは港を開くというよりは、道の建設に等しいのでは?」
恐る恐る尋ねると、ロベルトがいや、と首を振る。
「今回の対処は一時的なもので、出入りの際のみ海を割るそうだ。……ただ、将来的には架橋する計画らしい」
「え?」
「北の大陸から一番南の大陸に近い国の土地を買い取って、そこから巨大な橋を建設すると」
「も、申し訳ございません。仰っていることの意味が、私には少し難しいようで……」
中海は少し大きい湖程度の広さではない。橋を架けるなど、誰が聞いても実現不可能な夢物語だ。
兄の冗談なのか分かりかねて、ミレーユは頬を引き攣らせた。
これに、ロベルトが半眼で答える。
「お前の気持ちはよく分かるが、貴国がそういう想定らしいということは頭の中に入れておいてくれ。俺もいまは現実逃避して、あの方々が仰っているのは冗談だと思うことにしているから……」
よかった。どうやら兄もまだ半信半疑で、とてつもない計画を現実として受け入れているわけではないようだ。
「とにかく、移動については問題ない。問題があるのは、こちら側だ」
ロベルトはそこでいったん言葉を切り。さきほどミレーユに注意したため息を、今度は己が吐き出した。しかも、「はぁ~~」とかなり長いため息を。
「お兄様、いかがされたのですか?」
「いや……。前回の件で、父上の腰巾着共を一掃しただろう。カイン様にお力添えをいただいたこともあって、今回新しく就任した連中を連れてあいさつに伺ったんだが……。アイツら、怖がって客間に閉じこもったまま動こうとしないんだよ」
遠く離れた母国からドレイク国までは、こちらの使者が送迎を行ってくれている。
しかし迎えの者たちは齧歯族に対し気を使って魔力を抑える衣を羽織っているが、街に住む人々は違う。
ドレイク国は竜族だけでなく、多種多様な種族が集う国だ。
そんな多くの種族が集う活気に溢れた大都市に、小国の下位種族が恐れを抱かぬわけがなかった。
そう、彼らは完全に《魔力負け》を起こしていたのだ。
大の男が部屋の隅にうずくまり、動こうとしない。あまりの脅えように、さすがのロベルトも無理に引っ張り出すことはできなかったという。
「多少は予想していたが、ここまでとは……。一応、これでも国の中では魔力のあるやつを選んだんだが」
とはいっても、母国でロベルトやエミリアのような強い魔力を持ち合わせている者は皆無。
二人が特別なだけで、齧歯族の平均値は種族最弱だ。現に、中間子のミレーユの魔力もたかが知れている。
「そうだ。お前はどうやって魔力負けを克服したんだ?」
ロベルトは妹の魔力総量の低さを思い出したのか、参考までに聞かせてくれと言う。
兄からの質問に、ミレーユは言いづらそうに答えた。
「私は、その……もともと覚悟は決めて参りましたので……」
勿論、死の覚悟だ。
神の種族、ドレイク国の竜王に対して計略をもって母国を出立したミレーユに、のんきに魔力負けを起こしている時間はなかった。