花嫁の不安
それから一週間、ミレーユはカインの後ろ姿すら見ることの叶わない日が続いていた。
それほど彼は多忙だったのだ。
(いままで無理をなさって、お時間をいただいていたことがよく分かるわ)
カインとヴルムが同一人物だと知ったあの日から、彼は多くの時間をミレーユのために費やしてくれていたのだ。食事やお茶はもちろん、ミレーユが母国へ帰りたいと願えば同行までして。
その時間すら、無理をおして捻出していたことを知り、気づけなかった己の不甲斐なさを恥じるばかり。
(カイン様はそこまでしてくださっていたのに、私ときたら……)
体調管理を怠ったせいで、ナイルの過保護を加速させ。
その結果、現在ミレーユは重病人並みの扱いを受けることとなり、手仕事や本はもちろんペン一本持つことすら容易には許されない状況に陥っていた。
(自業自得とはいえ、婚儀まであと一ヶ月あまりこれが続くのかと思うと、流石に気が滅入りそう)
齧歯族は働き者が多い。働かなければ餓死に繋がることを本能で理解しているため、体を休めることより労働を好むのだ。
一部、父やその臣下たちのように、自分たちは特別な存在だから働かずともよいのだと自堕落に落ちる者もいるが、ミレーユは前者。
するべきことがない時間を過ごしていると、だんだん言いしれない不安が胸に落ち、どうにも落ち着かない。
「こうなってしまった以上、ナイルさんのお許しがでるまでは極力静かに過ごすことが賢明であることは分かっているけれど、まさかドリスさんとの検証も禁止されてしまうなんて……」
あれから、ドリスとは総身で感じた温度や気温を石に込めることのできる《体感の術》を色々と検証している最中だった。
エミリアの件で、中途半端に中断させてしまった手前もあり、ドリスからの要望はできる限り聞き入れ、路傍の石から最高級の宝石まで幅広く術を込めては魔石の解明に繋がるヒントを探していた。
並行して、母国の田畑の地中熱を上げるための試みも行っており、これまで両手サイズの黒曜岩を百個ほど国に送っている。それらを利用した実証実験も、幸先よく進んでいるという。
そうやって自分にできることを模索し、一つ一つ全力で向き合っていたことも、ナイルには却ってミレーユの体調面への不安に繋がったようだ。
そこで、ふと考えた。
カインの母にして、この大国の皇太后。
彼女は、婚前をどうやって過ごしていたのだろうかと。
無為な時間を過ごすことに罪悪感を覚え始めたミレーユは、皇太后についてナイルや女官たちに質問してみることにした。だが、なぜか返ってくる反応はやたら歯切れが悪いものばかりだった。
皇太后は上位種族、虎族の王女。
下位種族の自分とはまるっきり違う高貴な育ちとはいえ、何らかの参考になるのではないかと考えたのだが、残念ながらなんの解決策も見つけられず。ミレーユはいまも手空きの状態が続いていた。
できることといえば、城の最上階に設けられた空中庭園の長椅子に腰掛け、ボーっとエニシダの鮮やかな黄色の花弁を見つめることくらいだ。
この空中庭園は《空の庭園》といわれる、広大な敷地を持つドレイク城の中にある七つの温室のうちの一つ。
優雅な曲線を描く鉄骨と、厚いガラスで組み上げられた温室は、昼は青空を夜は星空を 花々と共に見ることのできる贅沢な空間だった。
もちろん庭園としても素晴らしく、背の高い樹木をはじめ、花の数は千種類以上。
(一面に咲き誇る色彩豊かな花々はとても美しいけれど、できることなら編み物か刺繍をしつつ眺めたいわ)
これほど美しい空間にいても、することがないというだけでため息をつきそうになり、ミレーユは零れそうになるため息を堪えるために空を見上げた。
透明度の高いガラスの先に広がる青い大空。
その雲一つない空に、一匹の鳥が目に入った。
母国では生息していない、大型の鳥だ。
動物が人へと進化した後に生まれた鳥は、正確には後鳥と呼ばれるが、これは鳥綱族が自分たちと分けて表現するために使われることが多い。
「綺麗な鳥……」
大きな翼でたくみに風を切り飛行する姿に、ミレーユは母国の森で垣間見たカインの美しい翼を思い出す。
翼の大きさもその形状もカインのものとは異なるが、優美に空を舞う姿。天高く上がり、何人にも邪魔されることのない自由さが、彼に似ているように感じられ、自然と目が追ってしまう。
けれど、どれだけ視線を向けても空を謳歌する鳥をとらえることはできない。
「……あの鳥と同じ。本来ならカイン様は、必死に手を伸ばしてもけっして届くことはない存在だったはずだわ」
思わず口走った言葉に、ハッとして唇を塞ぐ。
いまの自分は、はじめてこの地を訪れ、戸惑い狼狽えていたときとは違う。
カインが必死に距離を縮めようと、気遣ってくれていたことだって知っている。
(だというのに、私の心は依然として恐れを抱いているの?)
さきほどの呟きは、まさにそれを象徴するようなもの。
自分の弱さに嫌気がさし、ミレーユはふぅと重い吐息をもらす。
「こんな優雅な場所で、ため息なんて吐くものじゃない」
「!?」
叱責の声に驚いて身体を向けると、木蓮の木の下に兄のロベルトが立っていた。