仮死の術
小鳥たちがさえずるいつもの時間に、ナイルはミレーユの部屋を訪れた。
本日のドレスは絹を美しい紫に染めた艶やかなもの。装飾品はミレーユによく似合う小ぶりで可憐なものを選び抜き、代わりに履物はダイヤモンドで彩ったヒールの高いものにした。
着飾ったミレーユの姿を想像し、一縷の不備もないことを確信しつつ、当の本人を探す。
けれど、普段ならすでに起きているはずの姿がどこにも見当たらない。
不思議に思いながらも寝台に目をやれば、掛け布の膨らみが見えた。どうやらまだ就寝中のようだ。
ナイルは寝台に近づくと、いつもより声量を落として声をかけた。
「ミレーユ様、おはようございます。今朝は珍しくベッドにいらっしゃ、……」
続くはずだった言葉は、ベッドの上で血の気のない顔で冷たくなっているミレーユの姿にかき消された。
❁❁❁
『―≰―:⋇:―≽―:⋇:―≽―:⋇:―≰― 』
「ッ!?」
執務室のビロードの張られた椅子に腰かけ、数枚の書類に目を通していたカインは、突然響き渡った竜族特有の警戒周波数 に、手にしていた書類を落としてしまう。
「なんだ?!……これは、ナイルのものか?」
竜族のみが聞き取ることができる周波数は、魔力の質量から誰の者かある程度予測ができる。
これほど魔力総量が高い周波数を発することができるのは、現在城内ではゼルギスかナイルのみ。
しかしゼルギスは目の前にいる。ならば消去法でナイルしかありえないが、泰然自若の彼女がこれほどまでに感情の乱れた周波数を流すなど稀どころか初めてだ。
「まさか……、ミレーユになにかあったのか!?」
考えられることと言えば、それ以外見当がつかない。
カインは呼び止めるゼルギスの制止を無視し、部屋を飛び出した。
「ミレーユっ!?」
扉を壊す勢いで開けると、突如侵入してきた竜王の姿に、数人の女官から小さな悲鳴が飛ぶ。
そんな彼女たちの動揺もミレーユの安否で頭がいっぱいのカインには目の端にも映らず、構うことなく奥へと進んだ。
しかし行く手はすぐに遮られる。冷然とした面持ちでこちらを睨む、ナイルによって。
「なんと不調法な。竜王と言えど、婚儀前の花嫁の自室に無断で入室するなど言語道断の振る舞いですよ」
凍てつく声が刺々しい言葉を放つも、カインがそんなことで動じるはずもなく。
「ミレーユは無事なのか!?」
「なにを仰っているのです。ご無事に決まっているではありませんか」
「あれだけド級の周波数を流しておいて信じられるか!」
「そちらにつきましてはすでに問題は解決されました。お気になさらず即刻退出願います」
「気にならないわけがないだろう!」
なおも食い下がれば、ナイルの瑠璃色の瞳がスッと薄氷へと色を変えた。
「貴方様が部屋にいられては、ミレーユ様の身支度がいつまでたっても始められないではありませんか!」
気づけば底冷えするような凄みと共に、カインは部屋から叩き出されていた。
「――っ。おいっ、ナイル!」
納得のいかないカインは部屋を半壊してでも留まろうと振り返った。その際、ナイルの後ろにシフトドレス姿を見られまいとあたふたしているミレーユを見つけ、安堵の息を吐く。どうやら体調不良ではないようだ。
安心したカインは、仕方なく朝餐の間で大人しく待つことにした。
❁❁❁
その後、すぐに身支度を整えたミレーユは、朝餐の間に到着するやいなや、まだ赤らみの引かぬ頬のまま勢いよく腰を折り、深く頭を下げた。
「お騒がせいたしまして、申し訳ございません!」
「いや、そんな謝られることでもない」
さきに着座していたカインがすぐさま止めに入り、椅子に座るよう促される。
ミレーユがまごつきながらも対面に座ると、さっそくカインが問いかけてきた。
「それで、結局なにがあった?」
「じつは……その、昨夜は少々夜更かしをしてしまいまして。これでは日々体調管理をしてくださっているナイルさんたちに申し訳が立たないと、自分の魔術で回復を図ろうとしたのですが……」
できる限り慎重に術を施したのだが、やはり以前とは勝手が違ったせいか、ナイルが入室する前に目覚める予定が、ほんの少し体内時計がずれて遅れてしまったのだ。
「回復? ……ミレーユも回復術が使えたのか?」
齧歯族で癒しの力を使えるのは実妹のエミリアだけだと聞いていたカインは、不思議そうに首を傾げる。ミレーユは慌てて否定した。
「回復と言っても、私の術は自身にしか使えません。それも体力を少し回復させる程度で、ケガや病気を治すものではありません」
「自然治癒力の強化版みたいなものか。それなら、一体ナイルは何にそんなに驚いたんだ?」
寝ている間に身体を治癒していただけのこと。そこまで驚くことではないはず、と訝るカインの質問に、ミレーユは椅子の上で身体を小さく縮こませながら答えた。
「それがその……術を行使しているときは、身体の機能すべてが停止するんです」
「は?」
「脈、呼吸、心臓。生命活動のすべてが止まり、体温も下がるので身体は硬直状態になります。一見すると……死んだ状態に見えるのです」
ひゅっ、とカインの呼吸が止まった。
「……つまり、ナイルはベッドの上で冷たくなっているミレーユの身体に驚き、あれほどの警戒周波数を放ったということか?」
「はい……」
ナイルが動転したのも束の間、遅れて 現れたルルから「大丈夫ですよ。姫さまよく眠られているだけなので、もうちょっとしたら起きますよ!」と諭されている間にミレーユが起き、ほっとしていたところにカインが乱入してきた――というのが、一連の流れだった。
ちなみに今回の功労者であるルルはこの場にはおらず、別の仕事に当たっていた。
その仕事とは、けだまの朝ごはん担当。
以前は別の女官が行っていたのだが、『もっとちょうだい。もっとちょうだい』と愛らしい瞳を武器に、あまりにおかわりを欲しがるので、けだまに対して鉄壁の「ダメです!」ができるルルが適任とされたのだ。なお、この任にあたり、ルルに会える機会が減ったゼルギスだけが残念がっていた
そのゼルギスは、今日もルルがいないことにため息を吐きながらも、早朝のアクシデントについては朗らかな笑みを見せた。
「ナイルがあれほど取り乱すほどです。よほど魔術の完成度が高かったのでしょう」
ゼルギスの言葉に、ソツのない手際で軽食の給仕をしていたナイルの手が止まる。
いつも通りの冷静さを装いつつも、ナイルの中ではいまだにあの衝撃は消えてはいなかった。
それほど術のかかった状態のミレーユは、生命が身体から離れたばかりの亡骸に見えたのだ。
肌も唇も雪のように白く、灰褐色の髪すら色を無くし。まるで蠟人形の中に、儚く消えた乙女の時間を閉じ込めたかのようで、いま思い出してもゾッとする。