灼熱の丘Ⅱ
カインは屈みこむと、氷に手をつく。
張られた氷は薄く、本来なら一瞬で溶けてもおかしくない厚みにもかかわらず、氷解する気配がまったくない。
竜族の中にも氷塊の術を得意とする者は多いが、ミレーユのような繊細な術とは程遠い。
驚くカインたちをよそに、ミレーユは静かに凍てつく大地を見渡した。
(術式範囲が広い……。術の持続時間も以前とは比べ物にならないくらい延びているわ)
いままで感じなかった魔力の波動が、指先に繋がっている。不思議な感覚だった。
(あれは、なんだったのかしら……)
魔石に触れた瞬間見えた景色と、声。
まるで導かれるように繋がった術式の回路。
(いえ、それも気になるけれど。でも、いまは――――)
ミレーユは振り返り、ロベルトを真っすぐに見つめた。
「お兄様、この力をうまく利用すれば、農地の凝った地中熱をあげることもできるかもしれません。暖房設備としても活用できれば、もう燃料代を工面する必要もなくなります」
この範囲を冷やすことができたのなら、その逆もできる。
もちろん母国では宝石など用意できないため、使用するのは路傍の石だ。
虹石ほど力に応えてくれるか分からないが、それでも数で補うことができるはず。
「お父様はお許しになられないかもしれませんが、民が助かるなら説得してみせます!」
告げる声は、少し高揚していた。
母国を想うミレーユの揺るがない瞳に、ロベルトは視線を斜めに落とした。
「お前の気持ちは嬉しいよ。だが……」
落とした視線をあげ、ゆっくりとミレーユに告げる。
「お前はこちらに嫁ぐ身だ。いつまでも母国にばかり主眼を置くな」
諫めるような厳しい声だった。それが兄としての優しさであることはすぐに理解できた。
本来、女は嫁いだ後も母国や生家の利益となるよう動くことを課せられる。
スネーク国に嫁いだエミリアとて同じ。父は当然のように命じたはずだ。
ロベルトのように、『嫁ぎ先を第一に考えろ』などとはけっして口にしたりしない。
十年ぶりに会った兄は、昔と変わらぬ優しさで、ミレーユに正しい道筋を示してくれる。
「ありがとうございます、お兄様……。けっして忘れぬよう、肝に銘じましょう――――ですが」
ふと、目の端にカインの姿が映る。
なにを告げるわけでもなく柔らかなほほ笑みをくれる彼は、きっとミレーユの意思を尊重してくれるはずだ。それがよく分かっているからこそ、ミレーユは兄に告げることができた。
「私を育て、慈しみ、愛してくれた祖国をどうして忘れられましょう。私は、私のできることならば、ドレイク国はもちろん、祖国にも尽くしたいのです」
いまはまだ、カインに変わると誓った言葉すら叶えられていない。
それどころか、あたふたとから回りすることばかり。堂々と振る舞うこともできない。
目指すものは、当方もなく遠くにあった。
(でも、なにも変わっていないわけじゃないわ……)
例えば十年前、兄に言えなかった言葉を、いまなら伝えられる。
「お兄様が旅立つ日のお言葉を、いまも覚えております」
「――っ」
わずかにロベルトが怯む。なにを指しているのかすぐに分かったのだろう。
「力のない私では、エミリアの傍にいても邪魔になるだけだと……。あのときの私は、己の不甲斐なさを否定できず、従うことしかできませんでした」
せめて民への献身だけは忘れず、力を尽くそうと努力してきた。
それが兄の願った形通りだったかは自信がないが、できることの精一杯を注いできた。
「この十年、ずっとお兄様のご命令に従って参りました。……いま、私は少し力をいただいたことで、傲慢な考えになっているのかもしれません。それでも、お兄様にお伝えしたいのです」
「……なにを?」
ミレーユは両手を強く握りしめると、兄の視線から目をそらさずに続けた。
「私は、民のことも、……エミリアのことも。すべてを守りたいと思っております! その想いは、あの日からけっして諦めてはおりません!」
ロベルトの表情が、不意を衝かれたように驚きに染まる。
当時と同じく、叱りつけられることを覚悟したミレーユだったが、ロベルトは我に返った途端、笑い出した。
噴き出す兄に、ミレーユはきょとんとする。
「お前……、やっぱり変わってないな」
「え?」
「十年間、ずっとあのときの俺の言葉を覆そうと努力してきたんだろう。本当に、変なところで強情だな」
ロベルトは笑い過ぎたのか、目に浮かぶ涙を指で払うと、カインに向き直って言った。
「カイン様、妹はこういう娘です。きっとこのさきも諦めることはないと思いますが、それでも黙っておられますか?」
なんのことか分からずミレーユが目を瞬かせると、
「いや……無理だ」
カインは肩を落とし、まるで観念したかのようにため息を吐いた。
「……そんなことが……」
カインとロベルトの三人だけの状況で聞かされた一部始終に、ミレーユは唖然とした。
まさかエミリアが、自分にドクウツギの毒が入った菓子を食べさせていたなんて思ってもいなかった。
(こんな話、ルルに聞かれなくてよかったわ。ルルを離れた場所に連れ出してくれたナイルさんには感謝しないと)
遠くで無邪気に氷と戯れているルルを見つめ、ほっと息を吐き出す。
ちなみに、その横ではドリスが凍った氷の性質が気になるのか、切り出しに精を出していた。
「黙っていてすまなかった……」
謝るカインに、ミレーユは慌てて首を振った。
「私のために矢面に立ってくださったこと、感謝してもしきれません。なにより竜印のお力がなければ、エミリアを人殺しにするところでした」
最悪な事態を避けられたことにホッと安堵の息を吐くと、カインが顔を顰めた。
「ミレーユが気遣う必要がどこにある。君は被害者だぞ」
「……ありがとうございます、カイン様。ですが、すべては私がエミリアへ伝えるべきことを伝えていなかったばかりに起きてしまったことです」
カインは、「やはりそうくるか」と呟くと、納得できないとばかりに口元をゆがめた。
「君はもう少し怒るべきだ。エミリアのしたことは『知りませんでした』ではすまない。君の国ではドクウツギの毒性は常識なのだろう」
言葉には怒気が含まれていたが、ミレーユは怯むことなく答えた。
「民は日常の中で常識を身に付けますが、あの子は閉ざされた世界しか知らず、それがすべてだと思っています。これは、しっかり教え伝えなかった私の責任です」
「君は伝えただろう」
彼が言うように、父の目を盗んでは、エミリアに母からの教えを伝えてはいた。
けれど結局は伝わっていなかった。その非は、聞く側にだけあるわけではない。
「本人が理解できていなければ、それは『教えた』とは申せません。そして、一度思い込んだ記憶を正しい情報に上書きすることは、簡単なようでいてとても難しいものです。……母からも、あれほど口伝の難しさを説かれていたのに。これは私の力不足が招いたことです」
後悔の念を滲ませるミレーユの口調は普段よりも饒舌で、付け入る隙が無い。
それはときおり彼女が垣間見せる、齧歯族の第一王女の顔だった。
「――――カイン様、どうか兄と帰郷することをお許しください! エミリアのことを、このままにしておくわけにはまいりません!」
懇願ではなく、決意の色を瞳に宿らせての訴えだった。
ここまでくれば、拒否し続けることに意味がないことくらい、さすがに分かる。
「まぁ……私と一緒なら……」
カインがしぶしぶと了承すると、ミレーユは安堵の息をつき、礼を言って頭を下げた。
そして頭を上げた瞬間、気持ちを切り替え宣言した。
「そうと決まれば、すぐに用意いたします!」
「用意?」
帰郷するための旅支度ということだろうかとカインが問う前に、ミレーユは踵を返す。
そのまま氷を分析していたドリスの前に行くと、なにやら話し込みはじめ。
次いでナイルもそれに参加する。
「用意、とは?」
仕方なくロベルトに尋ねれば、彼は人の悪い笑みを浮かべて言った。
「普段は弱々しく見えるかもしれませんが、兄妹の中で一番根性があると、母が目をかけていたのはミレーユです。――――そのことを、エミリアも少しは思い知ればいいんですよ」




