兄の驚愕
その要塞は、北の果てにあった。
辺りは一面銀世界。
厚い雲が空を覆いつくす曇天の下、今日も解けることのない雪が大量に降り積もる。
ここより山を三つ越えれば、すべての生命を凍り付かせる《酷寒の大地》。
まさにこの要塞は、生命が活動できるギリギリの範囲。生と死の境目ともいえる場所だった。
「くそっ……もう、この腕も駄目か……」
もう動かせぬ右手を見つめ、グリレス国長子、ロベルトは舌打ちする。
袖をめくると凍傷で黒色化が進んだ右腕は腐敗が始まっており、すでにその機能を失っていた。こうなれば、腕を切り落とすしか術がない。
「……死に繋がるよりはマシか」
だが、ロベルトにはどうしてもその決断ができなかった。
右腕が惜しかったわけではない。
それよりも、もっと気にかかるのは――――。
(ミレーユに再会したとき、この腕を見られれば嘆かれるな……)
そう思うと、このまま放置すれば命を縮めることになる右腕でさえ惜しい。
はぁ……と深い溜息をつくと、慌ただしい声が扉の開閉と共にはいってきた。
「ロベルト様っ!」
入室したのは、北の要塞を守る部下であり、従者の一人だった。
「なんだ、騒々しいな。また夜盗でも出たか?」
「いえ、夜盗ではないのですが……、それよりも厄介な気が……? いえ、吉報なのかもしれませんが……いや、でも??」
要領を得ない説明に、ロベルトは訝しがる。
「少し落ち着け。何があったんだ?」
「えっと……ですね……」
従者は深呼吸すると、今度は一息でまくし立てた。
「ミレーユ様のご結婚先が決まったそうで。その使いの者とおっしゃる方が来訪されております」
「は?……ミレーユが結婚?」
本来、祝い事であるはずの報告。
しかし、ロベルトは盛大に眉間に皺をよせ、憎々し気に吐き捨てた。
「あの耄碌ジジイがっ! あれほどミレーユの婚姻を勝手に決めるなと脅したというのに……!」
怒りのままに、左の拳をテーブルに叩きつける。穏やかそうな風貌が、一瞬で憤怒の形相となった。盗賊相手にしか見せない彼の激昂に、従者は驚きながらも意見した。
「そうはおっしゃいますが、ミレーユ様も今年で十八歳です。このお年で未婚でいらっしゃる方が問題ですよ」
「あのジジイが、ミレーユの相手にまともな男を選ぶと思うか!?」
「それなんですが……、そのお相手というのが、使者の方がおっしゃるにはドレイク国の王様? だそうで……えっと、竜王様? らしいのですが……」
従者自身もよく理解できていないのか、やたら首を捻っている。
「……なにを言っているんだ。ドレイク国というのは、上位種族の頂点、竜族が治める大国の名だぞ。世界のはじまりの種族、その王は現人神も同義だ。おいそれと口にするのも不敬だというのに、なんの冗談を……」
「ですが、使者の方が竜族なのは間違いないと思いますよ。あんなことができる種族など、この大陸にはいらっしゃいません。窓から外を見てください」
口で説明するよりも早いとばかりに、彼は採光のためだけに付けられた小窓を指で示した。
「外になにが……」
言われるままに視線をやると、その目が大きく瞠る。
辺り一面、雪に支配されたいつもの風景が広がるはずの窓外には、あるはずのない道ができていたのだ。
大きめの馬車が通れるほどの幅。両側には、道を挟むように雪の絶壁ができていた。
まるで神の手によって、その部分だけが切り取られたかのような光景だ。
「バカな……っ!」
半時前まで、確かに雪で覆われていたはずだ。
それがいまやきれいに解かされ、乾いた地面まで見えている。
ロベルトがこの地に移って以来、雪が解けた地面など一度たりとも目にしたことがない。
「従者の方がおっしゃるには、ちょっと邪魔だったから溶かしたそうです」
「……は?」
軽く成人男性の二人分の高さはある積雪だ。ちょっと邪魔で解かせる量ではない。
「それでですね、とにかくロベルト様に至急ドレイク国へ来ていただきたいと。ミレーユ様がお待ちになっておられるので、是が非でも早くと!」
「ち……、ちょっと待て」
いったいなにが起こっているのか。
理解できず、ロベルトはただ唖然とするしかなかった。