竜王と小ネズミ
「――あら、ルル様お一人ですか?」
大理石の回廊を歩くルルに声をかけたのは、ミレーユ付きの女官の一人、セナだった。
彼女はすぐにルルが一人ではなく、その足元にグレーのふわふわとした子猫がいたことに気づく。
「ふふ、ミレーユ様の子猫もご一緒でしたか」
「このけだま、ずっと姫さまの膝を占領するんです」
姫さまの読書の邪魔なので、無理やりはがしてきましたと頬を膨らますルルに、セナの周りにいた女官たちが愛くるしいとばかりにクスクスと笑う。
「子猫の名前は『けだま』に決まったのですね」
ルルとしては皮肉で言った名だったが、まさかの採用。理由は一つ。
ルルが連呼するあまり、子猫はそれを自分の名前だと認識してしまったのだ。
他の名を呼んでも反応を示さないのに対し、「けだま」と呼ぶとにゃーと鳴く。
「自分の名前を呼ばれて返事をするなんて、とても賢い子ですわ」
「賢くないですっ、ふてぶてしいだけです! ルルがお昼寝すると、わざわざ顔の上に腹這いになって寝るんですよ! 姫さまには絶対そんなことしないのに! ルルのことバカにしてるんです!」
「っ……」
想像すると和んだのか、セナが笑いを噛み締める。
しかしルルがふくれっ面になると、慌てて言葉を繕った。
「猫は初代花嫁様が愛された生き物だとお聞きします。それゆえに、初代竜王陛下が特別の寵愛を施したとか。同じく竜王様の花嫁となられるミレーユ様にも、先祖のご恩を感じているのかもしれませんよ」
「ご恩?」
寝て食べてあくびをするだけのけだまに、そんな大層な感情があるとは思えない。
そもそも先祖の恩とは、どんな恩があるというのか。
「この地で生まれた猫は、初代竜王陛下のお力によって寿命が延ばされているのです」
「え……寿命って、延びるものなんですか?」
「はい。ミレーユ様も婚儀が済めば、我々と同じ寿命となりますよ」
「姫さまも……。じゃあ、けだまはどれくらい生きられるんですか?」
「そうですね。この地の猫の平均寿命はだいたい八十年くらいでしょうか」
「そんなに長いんですか!?」
ルルは驚き、目を瞬いてけだまを見つめた。
「お前……、ルルよりもずっと長生きなんですね……」
小さく呟いた言葉は、女官たちの耳には届かなかったようで。
子猫を持ち上げじっと見つめるルルを、ただほほ笑ましそうに眺めていた。
❁❁❁
「結局、私はミレーユの好感度を上げられたのか?」
迷い隠しの道を歩きながら、カインは一人悩んでいた。
子猫の存在を喜んでくれたものの、ルルのことを考慮すればベストな贈り物だったかは自信がない。
これではゼルギスが帰還したさい、『結局一人では贈り物一つ満足にできなかったのですか』と嫌味を言われてしまうだろう。いや、嫌みを言われるのは別にいい。
(それよりも切実にミレーユの喜ぶ顔が見たい!)
毎日の日課であるチュシャの実を採りながら、なにか策を練る必要があると頭を上げれば、陽炎の森の入り口に人影が見えた。
目を凝らさずとも、それが膝を抱えて座り込んでいるルルだとすぐに気づく。
「ルル……、また一人で来たのか?」
厳密にいうと一人ではなかった。一人と一匹。
ルルの傍らには、けだまが退屈そうに後ろ足で首を掻いていた。
「何度も言うが、ここは竜族の民すら近付かない森だ。私やナイルと一緒ならともかく、一人でくるような場所じゃない」
陽炎の森もそうだが、迷い隠しの道は木々が生い茂り、辺りはうっそうとしている。そのうえ、どれだけ道を熟知していても、必ず迷う仕掛けがされていた。
整備されている石畳がひとりでに動き、気づけば最初の場所に戻る。歩いてもたどり着かない、など内容は様々。ただ道を歩けば着くという場所ではけっしてない。
「迷子になったら、ミレーユが心配するぞ」
憂慮を告げるカインに、ルルは危機感の薄い顔をした。
「大丈夫ですよ! 帰巣本能があるので、ちゃんと姫さまのところに帰れます!」
自信満々な返答に、思わず呆気に取られる。
(けだまの件といい、本当にルルは元始的本能が強いんだな……)
帰巣本能など、人へと進化した時点でほとんどの種族がその力を失っている。
しかも帰巣場所が住居ではなく、ミレーユの傍だというのが、なんとも不思議だった。
「そうだ! 塀はどうした?」
このために施工したはずの塀の存在を思い出すが、これもあっけらかんと返された。
「塀? のぼりましたけど」
「登った!?」
「ルルの元始、ネズミですよ。のぼれますよ」
「……そうなのか? では、ミレーユも登れるのか?」
「姫さまはのぼりませんし。まずのぼろうとは考えないと思いますよ」
「そう、だよな……」
塀を登ろうとするミレーユなど想像できない。
なにより、あの塀は虎族でも駆け上れない高さに造らせたものだ。
これは元始うんぬんの問題ではなく、ルルの身体能力なのではないだろうか?
「それで、今日はなぜここに?」
わざわざ散歩に選ぶ場所でもない。問えば、ルルは一瞬言葉を詰まらせた。
「……ルル、竜王さまにお願いがあってきたんです。でも、これは姫さまには秘密にして欲しくて……。だからここで待っていました」
俯くルルの顔はさきほどまでとは違い、憂いに満ちていた。
いつもの元気さが影をひそめる姿に、カインは背を屈め、真剣に向き合うことにした。
「そうか。たいていのことなら叶えてやれる。どんな頼みだ?」
ルルは、ミレーユにとって妹のような存在だ。実妹であるエミリアとの一件では無理やり幕引きをはかった手前、ルルの願いはできるだけ叶えてやりたかった。
その気遣いに背を押されるように、ルルがぽつりぽつりと話し出す。
「姫さまは……婚儀が終わったら、寿命が長くなるんですよね? セナさんたちから聞きました」
「ああ。時の流れが、私たちと同じになる」
竜族の老いはゆっくりと穏やかだ。
他の種族は、《齢十六までの調和盟約》から元始の血が大きく作用するが、竜族は別。
見た目もあまり変わらず、十六歳の姿のまま長く過ごす者も多い。