竜とネズミと猫とⅣ
驚きを隠せないクラウスに、ルルが不思議そうに言う。
「なんで脅えるんですか? だっていまは⦅人⦆じゃないですか」
「は?」
クラウスは言葉の意味が分からず、間の抜けた声を漏らす。
「同じ人に進化したからこそ、本能的な恐れも引き継いでいるはずだろう?」
「あの、クラウス様……ルルは種族的な苦手意識というものが皆無なのです」
代わりに答えたのはミレーユだった。
ルルにとって人はすべて人。本能的な恐れなど持たない。
しかし、元始の姿をそのまま保っている猫は別だ。恐れと恨めしさに溢れている。
「あらあら、本能が元始的なのね。面白いわ」
授業を途中で中断されても少しも意に介していないローラが、真面目な顔で考察をはじめるが、クラウスはそんなこと知ったことではない。
「――――ちょっと待て。じゃあ、オレはこんな猫ごときに負けたっていうのか⁉」
齧歯族の、しかもこんな小娘にしょせん〝人〟と言われたクラウスはかなり矜持が傷ついていた。
認めたくないとばかりに頭を抱え呻くクラウスに、ルルが追い打ちをかける。
「ネコは猛獣ですけど、あなたは人です」
ルルとしては、比べるものではないと言いたかったのだろうが、クラウスにとっては屈辱以外のなにものでもなかった。
当然だ。祖先まで辿れば、猛獣と恐れられていたのはクラウスたち一族の方だったのだから。
「……帰る」
よほどその言葉がこたえたのか。
クラウスは現実を受け入れがたい顔で、フラフラと部屋を出ていった。
いつも自信満々で、カインの言葉にすら従わぬ彼が、まるで亡霊のような足取りで去っていく姿に、ナイルが感嘆の声をあげた。
「虎族をたった一言で撤退させるなんて、素晴らしいですわ!」
そんな誉め言葉も、ルルは聞いちゃいなかった。
ミレーユの手の中で眠そうに欠伸をしている子猫に対し、威嚇するのに忙しかったのだ。
「姫さまっ、なんでそんなのだっこするんですか⁉ ドレスに毛がついちゃうし、獣臭がついちゃいますよ!」
子猫を剝がそうと躍起になっているルルの方が、フーフーと毛を逆立て、まるで猫のようだ。
思わずほほ笑ましくて、ミレーユは口元に笑みを浮かべた。
「大丈夫よ、ルルもだっこする?」
「イヤです! だいたいネコって怠けものじゃないですか! ずっと進化もせずに同じ姿でにゃーにゃー!」
「馬もそうよ」
馬も猫と同様生きた化石。進化せず、古来のままの生き物だ。
「馬はかしこいですけど、ネコはふてぶてしいです!」
「そういう強さがあったからこそ、進化を必要としなかったのよ。とてもすごいことだと思わない?」
「すごくないです! 怠惰なだけです!」
ミレーユに対してはいつだって聞き分けのよいルルが、全力拒否の構えだった。
ある意味珍しい光景だ。
ルルのかたくなさに、ミレーユは困り顔でカインに謝罪した。
「申し訳ありません、カイン様。せっかくの贈りものですが、やはりこの子はお返しいたします」
「いや、私が悪かった。もう少しちゃんと確認するべきだった」
ミレーユが好きだと言っていたから大丈夫だと決めつけたのは迂闊だったと告げるカインに、ルルの顔色が変わる。
てっきりその辺の猫が紛れ込んだのだと思っていたのだ。
確かによく見れば、長い毛には十分な手入れがなされており、赤い宝石を付けた首輪までつけている。
ルルとて、ミレーユの猫好きは知っている。
しかも、今回はカインからの贈りもの……。
ルルは「うーん、うーん」と、しばし苦し気に唸ると、キッと子猫を睨みつけた。
「ルルは毛だらけのけだまとは仲良くしませんけど、姫さまと一緒にいるのは我慢してあげます!」
指をさし、吠える。どうやら子猫に宣告しているようだ。
子猫は返事をするように「にゃん」と声をあげると、ミレーユの手から飛び降りた。
小さくても足腰はしっかりしており、よどみなく歩くと、ルルの足元に近づき頭をこすりつける。
「うわぁああ! 仲良くしないって言ってるじゃないですか! ルルに近づかないでください!」
「にゃぁー」
「なに言ってるかわかりませんよ! そっちはルルの言っていること分かっているくせに、分かってないフリで近づくそのふてぶてしさがキライなんです!」
「うなぁーん」
「あ! そこは姫さまの椅子ですよ! 勝手に寝ないでください!」
ギャーギャー叫ぶルルと、にゃーにゃー鳴く子猫。
「あの猫は、わたくしがお預かりいたしましょうか?」
見かねたナイルが進言する。
梃子でも動かぬ姿勢の子猫を剥がしにかかっているルルの頬は、スコーンが左右一つずつ入っているのではないかと思うほどに膨れていた。
ミレーユは、そんなかしましくも元気な一人と一匹をじっと見つめると、クスリと笑った。
「いえ。もう少しだけ様子を見させてください」
「私のことは気にしなくていいんだぞ?」
「よろしいのですか?」
カインとナイルの心配そうな声が同時に発せられたが、ミレーユは笑みを深めた。
「ルルは嫌いな方や、ダメな生き物とは一切目を合わせないんです」
いままで絶対に近づこうともしなかった猫を、椅子から下ろすために触れているルル。
習性的に大きな声を嫌うというのに、ルルの怒りの声などまるでそよ風のごとく聞き流している子猫。
「あの子は、ルルと相性がよさそうです」
自分でも不思議なほどに、それは強い確信だった。
「ところで、あの子の名前はなんというのでしょう?」
「名前はまだないな。ミレーユが好きにつけていいぞ」
「好きに……ですか」
母国にいたときも、民から子供の名付けを頼まれることはよくあった。
ルルの名も、乳母から頼まれて付けたものだ。
もっとも頼まれずとも、ゆりかごの中で対面した小さな赤ん坊を見た瞬間『ルル』という名が強く頭をよぎり、この名前以外は考えられなかった。乳母からの依頼がなければ、こちらから名付けさせて欲しいと懇願していただろう。
「……なにがいいかしら?」
湖の色を連想させる瞳と、柔らかなグレーの毛に覆われた子猫を見つめ、ミレーユは頭を搾る。
『シャーリ』『リーバ』『リフデ』
愛らしい姿によく合う名前はいくつも思い当たるが、なぜかどれもしっくりこない。
ルルの名を決めたように、直感的なものがおりてこないのだ。
真剣に悩みこみ、俯いていたミレーユは、ルルに意見を訊くことにした。
「ルルはどんな名前がいいと思う?」
振り返って訊ねれば、――――なぜそんな体勢になったのか。
ルルの顔に宙吊りになってぶら下がる子猫と、子猫の存在を無視しようとするルルの虚無な瞳と視線が合う。
「けだま……。こんな獣、『けだま』でじゅうぶんです」
低く乾いた声は、さきほどの強い確信がやっぱり間違いだったかしら? と考えを改めてしまうほどには、子猫に対する憎々しさが滲んでいた。