竜とネズミと猫とⅡ
すぅすぅと小さな寝息が聞こえてくる。
授業開始後、本当に寝入ってしまったルルに、ミレーユはローラに頭を下げて謝罪した。
「も、申し訳ございません! ルル、起きて!」
「あら、構いませんわ。それにペンを握りしめたまま寝てしまうなんて、黒の坊やと違ってやる気に満ちているわ」
突っ伏しているルルの手には、確かにペンが握られていたが、
(ペンを握りしめることが、やる気と捉えていいのかしら?)
「でも、この体勢だと少し寝苦しそうね」
「わたくしが長椅子にお運びしましょう」
そう言うと、ナイルはルルを起こさぬよう抱え、長椅子へと運んでくれた。
重力を感じさせない軽々とした動作に、ミレーユは驚いた。
小さかったころはミレーユもルルをだっこすることもできたが、いまや抱き上げることすらかなわない。
「一般種族と竜族の皆様とでは、やはり身体の構造が違うものなのでしょうか?」
「そうですねぇ。進化前から竜は頑丈で大きく、力任せの生き物でしたから。人へと進化し、見た目はさほど変わらぬようになりましたが、内部構造にはやはり違いがありますね」
ローラが続けて言う。
「竜族は数千年の時を得ても、見た目以外では進化前とあまり変わらぬ点が多いです。決定的に違う点は《陽力》《陰力》ですが――」
「!!」
陽力という単語に、ミレーユは椅子から腰を浮かせた。
幼いとき、ヴルムも言っていた言葉。
自分にはその陽力というものがあるらしいが、いまだ何なのかよく分かっていなかった。
「あら、ご興味が?」
「はい!」
力強く返事をすれば、ローラが穏やかに笑う。
「陽力、陰力を簡単にお伝えすれば、魔力と同じ、体内を流れる生体電流の一種です。古代竜は魔力ではなく、陰力を使うことで魔術を駆使していたと言われています」
「いまの魔力に変わるものが、陽力、陰力だったということでしょうか?」
「ええ。動物が人へと進化する前、この力を行使出来ていたのは、人間と竜のみ。人間は陽力を、竜は陰力を魔力の代わりにしていたそうです。とくに人間は個体数が竜とは比べ物にならぬほど多かったそうで、生き物の頂点に君臨していたと聞きます」
「人間……」
昨日のドリスの話に引き続き、また人間。
いまや生物史の進化論の冒頭でしか紹介されないであろう絶滅種。
(人間と聞くと、なんだか胸に引っかかるわ……。懐かしさのようなこの感傷は、古代ロマンというものを感じているのかしら?)
胸に手をあて、首をひねる。
そんなミレーユの釈然としない気持ちをよそに、ローラの説明は進んでいく。
「人間で有らせられた初代花嫁様は、陽力のお力がとても高い方だったそうです。現在において、陽力、陰力は一部の高位種族だけがこれを放つことができますが、竜族が陽力の高い者を好むのは、初代竜王陛下の影響かもしれませんね」
「もとは人間が持ち合わせていた力を、私のような他の種族が引き継いでいるのはなぜなのでしょう?」
「それは人間と、進化した種族が番ったからでしょう。つまり、隔世遺伝ですね」
「え……」
(人間は単一種族だったから絶滅したのではないのかしら? でも、確かに初代花嫁様も初代竜王陛下に嫁がれていらっしゃるし、頑なに単一種族であろうとしたわけではないわよね。それなら栄華を誇っていた人間が、なぜ絶滅するに至ったのかしら……)
次々と浮かぶ疑問を、ミレーユは問わずにはいられなかった。
「初代花嫁様のように、別の種族との間に子孫を残した者が少なからずいるのであれば、人間が完全に絶滅したと考えるのは誤りなのではないでしょうか?」
「いいえ、絶滅したという表現は適切でしょう。初代竜王陛下は人間を忌み嫌い、根絶やしにしたと言い伝えられていますから」
根絶やしという言葉の強烈さに、息を呑む。
「……では、初代竜王陛下は人間の存在をお許しにならず。血脈が受け継がれようとも、歴史からは絶滅種として扱われているということでしょうか?」
「はい。その代わりに、多くの動物たちを人へと進化させたと言われています。もっとも、信憑性に欠ける話ですよ。この辺りはどうやら初代花嫁様に関わるようで、めっきり文献が少ないものですから」
話を聴いたミレーユは、しばし沈黙した。
自分の知らない歴史は思っていた以上に不透明で、想い馳せるにはあまりに壮大だった。
ミレーユの沈黙を心配したナイルが、肩に手を伸ばす。
「初代花嫁様に関わる記述はすべて嘘か誠か分からぬものばかりです。あまり気になさらずに」
「真実が残されているという《約束の間》が開けば、なにか分かるかもしれませんね」
「ローラ、よけいなことを言わないで。開国以来一度も開いたことがない扉ですよ。貴女はすぐに話を脱線させるのですから」
陽力と陰力の説明はどうしたと詰めるナイルに、ローラはどこ吹く風だ。
「あらあら、探求心は常に持つものです。それを忘れては、あとは老いて朽ちるだけ」
ローラは艶やかに瞳を細めると、人差し指を唇に当て、優雅に口の端を上げた。
老若男女を虜にするような笑みだったが、ナイルには通用せず、額には青筋が浮かんでいる。
「貴女といい、ドリスといい……!」
一層刺々しくなったナイルの声を無視し、ローラは何事もなかったようにミレーユに向き直る。
「陽力と陰力の続きですが、いわばこれは昔の名残です。魔力のように自ら放出し、魔術に繋げることはできません。ですが、これを無意識に体の中で魔力と混じり合わせ、《魅了》として放散する者もおります。――――竜族の中でもほんの一部、竜王の血族のみに持つ力です」
「それは……、それほどに多くの魔力を要するということでしょうか?」
「はい。そもそも陽力にしても陰力にしても、それなりの魔力がなければまず感じ取ることすらかないません。そして陽力、陰力の高さは本来、魔力と比例するものです」
「魔力と比例するもの……」
思い返せば、確かにローラは初対面のときにも同じことを言っていた気がする。
『魔力と陽力は比例するものだというのに、これほど陽力に傾いている方も珍しいわ』――――と。
「あの、私は陽力が多いとお聞きしましたが、魔力はとても低いです。比例しない場合もあるのでしょうか?」
己と照らし合わせ問えば、ローラは興味深げに目を細めた。
「わたくしも長く生きておりますが、若き花嫁のような方にお会いするのは初めてですね。魔力はとても低いというのに、陽力は赤の坊やの魔力並みに高い。ですが、これは竜王の花嫁としては最高の資性ですわ。魔力を分け合うときに、低い方がたくさん受け取れますから」
「魔力を、……受け取る」
そこで思い出す。竜族の婚儀はお互いの魔力を一つにして二つに分け合うのだと、幼少期のカインこと、ヴルムが言っていたことを。
(あの時はおとぎ話のようで胸がときめいたけれど、私の魔力は本当に低いわ)
ミレーユは顔色を曇らせた。
「それは本当に良いことなのでしょうか? 私がたくさん受け取ってしまえば、カイン様の魔力が減るということですよね?」
「アイツの魔力が半分減ったところで、なんの支障もないですよ。できれば九割がた持っていってほしいくらいだ」
答えたのはローラではなく、もっと猛々しい声――――勝手知ったる顔で入ってきたクラウスだった。




