竜とネズミと猫と
次の日は、医竜官ローラによる授業の日だった。
まだ右手で数えるほどしか受けてはいないが、ミレーユにとっては待ち望んだ見聞を広げられる時間だ。
母国やエミリアのことは気がかりだが、嫁ぐ以上はカインとの約束も疎かにはできない。
(教えていただけることは一つでも多く吸収しないと!)
ナイルに案内されたのは、《知識の間》と言われる部屋。
数代前の花嫁が勉学に集中できるようにと設えられた広い室内は、漆喰仕上げの天井画や大理石の床、羽目板すらすべて青で統一されていた。
以前ローラの診察を受けた《静寂の間》も青を基調としていたが、こちらは部分的ではなく、一面が青で埋め尽くされている。
濃い青や、薄い青、少し黒が混ざったようなさまざまな青が使われ、テーブルですら紫を含んだ青。縁や脚の部分には丁寧な草木の彫りが施されていた。
「世の中には、これほど多くの青色が存在しているのですね」
「青色は体温や血圧・脈拍を下げる効果があります。落ち着きを与え、冷静になれる色ですよ」
透き通るような空色の天井を見上げながらミレーユが呟くと、さきに入室していたローラが穏やかなほほ笑みを湛えながら言った。
優しい声音で話す彼女は、竜族の医師だ。
まさか医師に勉学を教わるなど思ってもみなかったが、ローラ本人が所望してくれたとか。
(最初の授業で、酷寒の大地に再度誘われたときは驚いたけれど……)
細面に手をあて、そのときのことを思い出す。
『若き花嫁、それではいつ酷寒の大地に参りましょうか?』
以前も誘われたとはいえ、あのときは冗談か社交辞令くらいのものだと思っていた。まさか、本気だったとは。
《酷寒の大地》は、ミレーユの母国から馬で数週間ほどの場所に位置する、雪が生命のすべてを奪う永久凍土の地だ。
ローラの口ぶりは、まるで近場の散歩に誘うかのようだが、普通の生き物なら死出の旅。
もちろんミレーユが足を踏み入れたことなど一度たりともない。
(酷寒の大地すら、ローラ様にとっては小旅行感覚なのね)
すぐにナイルが『貴女お一人でどうぞ』と話を断ち切り終わらせてくれたが、竜族の類いまれな生命力の強さに、下位種族のミレーユは圧倒されるしかない。
「ではローラ、授業は脱線せぬよう務めてください。もちろん課外授業などと偽って、ミレーユ様を王宮外にお連れすることも許しません」
「あらあら。赤の坊やは、前回の授業で城下に降りようとしたことをまだ怒っているのかしら?」
先日の授業中、突如ローラから街に買い物に行こうと誘われた。とくに前後にそういったやり取りがあったわけでも、行かねばならぬ理由が授業内容にあったわけでもない。
ミレーユがドレイク国を訪れてしばらく経つが、いまだ一度も街への外出は許されていない。
しかし、あまりにローラが自然に促すので、いいのだろうかと思いつつ部屋を出た。けれど、庭園から門へと歩く道中、カインと遭遇し、不思議そうな顔でどこに行くのだと尋ねられ、課外授業だと告げると。
『誰がミレーユを外に連れ出していいと言った! 私だってまだ陽炎の森にしか一緒に行けていないんだぞ!』
常に穏やかに接してくれるカインが、一瞬で憤怒の形相となった。
正直、彼の怒りの方向性はよく分からなかったが……。
「勝手にミレーユ様を連れ出さぬよう、授業中も貴女を監視しろとの仰せです」
「あらまぁ。では残念ですが、若き花嫁とのお出かけはまたにしましょう」
「……わたくしが言ったことを、貴女は一つも理解されていませんね」
まったく懲りていないローラに、ナイルは苦虫を噛み潰したように眉を顰める。
二人のやり取りがナイルの諦めで落ち着いたころ、ルルがミレーユの手をくいくいと引っ張った。
「姫さま、ルルお邪魔だと思うので、お外で待っていますね」
母国でもミレーユが家庭教師に教授を受けるさいは外で待機していた。
今回も当然のように退出しようとするルルだったが、ローラが穏やかに止めた。
「せっかくですもの、可愛らしい侍女殿も一緒に学ばれてはどうかしら」
「えっ、よろしいのですか?」
ミレーユが驚いて確認すれば、ローラは「もちろんですわ」とほほ笑む。
(ルルと一緒に授業を受けられるなんて初めてだわ!)
どれだけミレーユにとってルルが大切な存在であっても、母国では侍女としか扱われない。
ドレイク国ではミレーユの意に沿って、ルルのことも大切に扱ってくれる。
「よかったわね、ルル。一緒にお勉強できるわ!」
「…………ルル、オベンキョウ、イイデス、ヒツヨウ、ナイデス」
突如、ルルが片言になった。表情も見たこともないくらい硬直しており、壊れたブリキのおもちゃのようにギシギシと首を振る。
「ローラ様のお話はとても興味深いものばかりよ。ルルもきっとお勉強になるわ」
「ルル、難しいお話をされたらすぐに寝ちゃいます! 寝ちゃいますから!」
無理無理と、完全拒否の構えだった。
そんなルルに、ローラは朗らかに笑った。
彼女曰く、居眠りは黒の坊やで慣れているから、と。