日常編
今年中に本編を再開したかったのですが、多作品の方に力を入れてしまい、まだ準備ができていません!すみません!!( ;∀;)
申し訳ないので、お茶請け程度に日常編を置いておきます。
「ゼルギス、これは一体どういうことだ?」
モスグリーンの色味が美しい長椅子に腰かけ、書類に目を落としていたゼルギスは、若き竜王の愕然とした声に顔を上げた。
彼は一枚の羊皮紙を手にしていた。
「……ああ、そちらですか」
すぐその内容を察したゼルギスだったが、声に乱れは一切なく、こうなることを予知していたかのようだった。
「そちらですかって……なんだこれは?」
カインの手にある書面は、ミレーユの祖国・グリレス国との正式な婚姻協議書だった。
書類上での婚姻協議書など竜族にとっては意味をなさないが、世界的には常識だとクラウスから再三忠告されたため準備したものだ。
形式上とはいえ、婚姻協議書は両国の間で、すでに調印がすまされ終結している。
無事ミレーユが到着したことで婚姻協議書のことなどすっかり忘れていたカインだったが、そのミレーユと会うことが叶わぬため、せめてもと書類上だけでも繋がった婚姻協議書を眺めみて――――驚いた。
「なぜ婚資の提示額が、百分の一に減っているんだ!?」
よもや指示した婚資の金額から、桁が二つも減っていたとは。
「事前の会議でも、婚資額は母上の時と同額で通ったはずだ。一体なぜこんな額に……」
これまたクラウスの忠告通り、ミレーユの母国に支払う婚資は、カインの母と同じ金額で調整していた。
齧歯族の寿命を知らなかったとはいえ、ミレーユにはかなり長く待たせてしまった手前、母の時よりも額を増やした方がよいのではないかと思案したくらいだったのに、よもやその額が百分の一などありない。
これは看過することのできない大問題だ。
「こんな不備のある書面を、ミレーユの祖国に調印させたのか!?」
「事の発端は、婚姻協議書にカイン様が婚資の額を記入されなかったことから始まったんですよ」
「それはっ、あちらが婚資の額に異議を唱えた場合に備え、提示額をすぐに変えられるようにするためだろう!」
婚資の額に納得されなければ、使者はまた確認のために自国に戻らなければならない。カインとしては、とにかく一回の派遣で終わらせたかった。婚姻協議が遅れれば、そのぶんミレーユとの再会も遠くなる。それだけは避けたかったのだ。このことは派遣する使者にも再三伝えてあった。
「額が増えるならまだしも、なぜこんなに減っているんだ?!」
「貨幣価値があちらとこちらでは桁が違ったそうです。つまり、こちらが掲示した一億ギルは、あちらのお国換算でいうと百億ラット。ですが。どうも一億ギルを一億ラットだと勘違いされて書類に記載されたようです」
「――――訂正しろっっっ!!!!!」
その差は百倍。
確かにいち早く締結させろとは言ったが、そこはちゃんと訂正すべき点だ。
「雑すぎるだろう! レネは気づかなかったのか!?」
任せた使者・レネは体格に恵まれ過ぎる竜族には珍しく優男で、柔和な顔立ちの青年だ。
齧歯族にとって竜族は遠い異国。怯えさせぬよう、筋肉隆々の男よりも、あまり脅威を感じさせない彼を選抜した。風貌だけでなく、順応性に優れ礼儀正しい振る舞いができるという点でもレネは優秀だった。
「それがなぜ……」
「レネも、あちらが記入した額の誤りにはすぐに気づいたようですが」
しかしそれを指摘する前に、グリレス国王や高官たちから次々に「一億ラットなどという婚資の額は見たことがない! こんな額を掲示されるとは、さすが偉大なる大国は違っていらっしゃる!」と興奮したように誉めそやされ、言葉を噤んだという。
「…………百分の一が多い?」
意味が分からず、カインは首を傾げる。
それは世にいう接待的な賛辞というやつか? と問えば、ゼルギスはゆっくりと首を振った。
「レネも戸惑いのあまり、近隣諸国での婚資額を聞いたそうなのですが。……一億ラットですら、数字の桁が多くても一つ減り、相場は二つの桁が減るのが通例だそうです」
「…………そんな低い婚資の額があるのか?」
「大陸が違えば婚資の額も違うのでしょう。いえ、もしかしたら世界的にみれば、婚資額一億ギルという設定額がそもそも高額だったのかもしれません」
「そんなはずはないだろう。母上の時と同じ額だぞ」
「虎族にとって姉上は“至宝の君”と謳われていた方。日頃から忌み嫌っていた竜族になど、間違っても嫁がせたくなかったことはご存じでしょう?」
ご存じどころか、聞き飽きている。
「よくよく考えれば、あの虎族が普通の婚資額を掲示すると思いますか?」
「…………」
確かに、それはありえない。
実際、彼らは婚儀の邪魔をこれでもかと行い、怒り狂った母に城を半壊状態にさせられて、やっと諦めたと伝え聞いている。
「こちらとしては、兄上に嫁いでくださるならさして気にならない額でしたので忘れていましたが、あの時の婚資額は半壊した城の修繕費も含まれていたはずです」
齧歯族が位置する大陸は、虎族よりも物価価値が低い国ばかりが集まっている。
レネが婚資額に対して訂正できなかったのも、高官の一人から、「いやはや、国ごとお買いになられるおつもりかと危惧してしまう金額ですわい!」と言われたことにあった。
齧歯族にとっては、こんな小国を得たところで価値など皆無だと理解しているからこそのジョークだったのだが、ここでレネは完全に諦めた。
本当の額を口にすれば、国の買収まで疑われかねないことになる、と。
よもや婚儀前に、花嫁の祖国から不信感を持たれるわけにもいかない。そんなことになれば、初恋の君の為に、必死で《竜王の儀式》を耐えた若き王に合わせる顔がない――――。
「まぁ、経緯はどうあれ、レネもカイン様の意に適うよう職務を果たすのに尽力したかと」
「それは……そうかもしれないが……」
確かに彼に与えた命は“なにがなんでも婚約を取り付けてくること!”であり、婚資の額など本題ではない。きっちりミレーユとの婚姻協議書を取り交わしてきた彼は、十分仕事をまっとうしたといえる。
「――――いや、やっぱり納得できない! ミレーユの婚資が母上の百分の一など業腹だッ!」
レネの成果に文句はないが、この婚資額についてはやはり許容できず、カインは抗議の声をあげた。
ゼルギスとしては、『まぁそうなるだろう』と踏んでいた事態。代案もすでに用意済みだ。
「別段、払わぬというわけではございません。差額については、ミレーユ様の資産とすればよろしいかと」
「ミレーユの資産?」
「大抵のものはこちらで準備できますが、女性ですから欲しいものは多いでしょう。個人資産はあって困るものではございません。お好きな場所に離宮を建てられてもよろしいですし、お国に出資される形で新しい事業を立ち上げてもよろしいかと」
ゼルギスが幾つかの候補をあげると、カインは不満そうにじっとりと眉根を寄せた。
「……嫌だ。ミレーユが欲するものは私が贈りたい。会話のきっかけにもなりそうだし。好感度を上げるチャンスは逃したくない」
いじけた子供のようなことを口にするカインに、ゼルギスは呆れた。
「何をせせこましいことを仰っているのですか。好感度を上げたければ物にたよらず、ミレーユ様の想いに寄り添える策でも講じてください」
「具体的にそれが難しいから困っているんだろう!」
ゼルギスは、悶々と頭を抱える若き竜王の悩みには感知したくないようで、素知らぬ顔だ。カインとて、ゼルギスが名案を与えてくれるなど最初から期待していない。
カインは、一つ大きなため息を吐くと、大窓から見える景色に視線を移した。せめてここからミレーユの姿が一瞬でも垣間見ることができたなら、書類の山を片付ける張り合いもあるというのに。
そこで、ふと最近の日課を思い出す。
「少し出掛けてくる」
「どちらへ?」
「【陽炎の森】に行く。明日の朝食用のチュシャの実をまだ取りに行ってなかったからな」
ミレーユが口にするチュシャの実は、すべてカインが採ってきていた。
本来、自国にチュシャの木は自生していなかったが、カインは《竜王の儀式》が終わるやいなや、【陽炎の森】と呼ばれる、王家の者だけが足を踏み入れることのできる場所にチュシャの木を移植させた。
チュシャの実が好きだとほほ笑んでくれた初恋の君が、いつでも食せるようにと。
「どうぞいってらっしゃいませ。ミレーユ様のためにできる唯一の日課ですから、奪いはしませんよ」
嫌みでいったつもりはないのだろうか、唯一という点が気に食わない。事実だからこそ、余計に。
「――――ゼルギス。お前が唯一の番に出会ったとしても、私は絶対に協力してやらないからな!」
「お言葉ですが、唯一の番に出会えるほうが稀ですよ。ご自分の幸福を十分にご甘受ください」
精一杯の皮肉を、ゼルギスはサラリと返す。
事実、唯一の番に出会える確率は、砂漠で砂金を見つけるほど低い。少女の夢物語といってもいいだろう。
ゼルギスは憤っている若き竜王を涼しい顔で見送ると、長椅子に深く腰をかけ、また書類の束に意識を戻した。
彼が、その“稀”と出会うのは、もうしばらくしてからのことだった――――。
日常編 終わり




