エピローグⅡ
(ならば、招かれているのは――――ルル?)
足早にルルの前まで急ぐと、窺うように最愛なる少女の顔を見下ろした。
大きな瞳をきょとんとさせて、不思議そうな表情をつくるルルを、初めて恋心以外の感情を持って見つめた。
なぜだ。なぜ、ルルなのか。
(赤竜たるカイン様の花嫁、ミレーユ様ですら開かなかったというのに……)
分からない。
どれほど思考力を働かせても、答えは出ず。
その間、部屋の中が気になるのか、ルルはちらちらと視線を扉の方へと向けていた。
扉は確かに開いているが、中は見えない。
踏み入れなければ室内の様子が分からぬよう、黒いベールが下りているのだ。これ一つとっても、ゾッとするほどの力が込められている。
ゼルギスでも嫌気がさすほどの高濃度の術にも、ルルは平然としており。それどころか、先ほどの好奇心とは違う瞳の色で扉を見つめていた。
幼子が大切なものを見つけ出そうとする、そんな瞳だった。
(……招かれているのならば、入らねばならない)
覚悟を決め、ゼルギスはふぅと深く息を吐き出した。
「ルル、けっして私から離れないと誓ってくれますか?」
ゼルギスの言葉に、ルルの表情がぱっと綻ぶ。
はーいと大きく返事をすると、小さな足は扉をくぐった。
ザクッ。
部屋に一歩踏み入れた途端、足裏から伝わってきたのは、深い雪の上を歩く感触だった。
「わぁ、うちの国の道みたいです。冬になると、雪が積もって歩くのが大変なんですよ」
大変だと言いつつも慣れた様子でルルが歩き出す。
「お部屋の中なのにお外みたいですね!」
足元の雪だけでなく、目の前には数歩先も分からぬほどの深い霧がかかっていたが、ルルは見えぬ視界に怯えることなく、ずんずんと前に進んでいく。
ゼルギスはルルの歩幅に合わせて並行して歩きながらも、彼女に分からぬよう、そっと火炎の術を雪に放ってみた。
極限まで細く練った術は、その分威力を込めたもの。しかし、雪は一滴たりとも解けず、自身の術が敵わないことを知らしめられるだけで終わった。
(この空間は、紛れもなく初代竜王様の力で作られた空間だ……)
やはり術は通用しないかと納得していると、不意に雪の大地が一変した。
深い霧が晴れ、雪が消え、目の前に広がるのは、どこまでも続く青い空と、一面に咲くシロツメクサ。
「すごいっ、イリュージョンです!」
冬から春が到来したかのような変わり様に、ルルが歓喜の声をあげた。
緑の葉と白い花の絨毯に、ルルは心を弾ませるあまり、いまにも走り出しそうな勢いだった。
そんな仕草も愛らしく映ったが、ここは異空間。
ルルを守るためにも、けっして隙を見せてはならないと、ゼルギスはルルの手を取る。
「遠くには行かないでくださいね」
「はーい! ルル、ちゃんと約束も守りま……――あ」
元気な声が、突然小さくなった。ルルの異変に気付いたゼルギスは、咄嗟に当たりを見渡す。
バッと目に映ったのは、宙に浮く一枚の絵だった。
「ッ!?」
ゼルギスは探るようにその絵を見つめた。
突然目の前に現れたことには驚いたが、攻撃を主とする魔力は感じなかった。
なにより、描かれていたのは危険性などとは無縁な、艶やかな黒髪の少女の姿絵で。
少女は黒曜石の瞳をこちらに向け、柔らかな笑みを浮かべている。その笑顔には見ている者を和ませる力があった。
ゼルギスも例外ではなく、ほんのわずかに警戒心を解く。
「どなたかは存じませんが、どこかミレーユ様に雰囲気が似ている方ですね」
自分で口にして理解した。
(ああ、そうか。ミレーユ様に似ていらっしゃるから、警戒心が薄れたのか)
ミレーユが大好きなルルなら、きっとこの姿絵も気に入るのだろうと視線をルルに落とし、
「……ルル?」
虚をつかれた。
ルルは、泣いていたいのだ。
大きな目に涙をいっぱいに溜め、丸みの残る頬をボロボロと雫が滑り落ちていく。
驚くゼルギスが手を伸ばそうとするも、それよりも先に、ルルは姿絵の方へと歩き出した。
どこか虚ろな足取りが、ゆっくりと動き。
ルルの小さく唇から、絞り出すような声が漏れた。
「笑ってる……」
笑ってくれている。
とても幸せそうな笑顔で。
――――ああ、守ってくれたのだ。
ちゃんと、『約束』を守ってくれたんだ。
そこで、ふっとルルの意識は途切れた。