永遠の誓い
「さぁ、もうすぐ闇を抜ける。身体の具合はどうだ?」
「とくになにも変化はございません。……なさ過ぎて、拍子抜けしているのですが。これでいいのでしょうか?」
前を進むエリアスの言葉に、ミレーユは自身の身体を探るように手をあてるが、やはりまったく変わりはない。
「そうか……君はこの空間と相性がいいのかもしれないな。喜ぶべきことだ。あの子も首を長くして待っている。早く会ってあげなさい」
「はい、――お義母様」
自然と零れた呼び名に、エリアスがほほ笑むのが後姿からも気配で分かった。
それから数歩足を進めたのち、エリアスが立ち止まり片手をあげる。すると、扉が少しずつ開き。同時に、ほとばしる歓喜の声が鼓膜を震わせ、真夜中とは思えぬほど光に溢れた光景が目の前に広がった。
「――え?」
頭上に煌めく星空と静かな月は、この地を訪れてから毎夜眺め見ていたもの。
けれど、今日はそれだけではなく、ふわりふわりと、たくさんの小さな熱気球が空を埋め尽くし、遠くで打ち上げられる花火と相まって、まるで光の渦のような光景を作り出していた。
通路の左右には白を基調とした花々が咲き乱れ、花からは優しい光が放たれている。
黄泉の間と同じく夜の帳が下り、闇に包まれていると思っていたミレーユは、その美しい光景にしばし目を奪われた。
「なんて美しい……」
舞う熱気球の色は七色。中でも赤色が多いのは、カインが赤竜だからだろうか。
神殿へと進む細長い直線の通路から下を見下ろせば、たくさんの観衆が笑顔で熱気球をあげている姿が見えた。
「私の案内はここで終わりだ。ここから先は、二人で行きなさい」
そう言ってエリアスが指し示す先には、大階段の下、婚儀衣装に身を包んだカインが待っていた。
身体のラインに完璧に沿って仕立てられた白の衣装は、金の装飾も相まって夜の中にあっても光り輝いて見え、思わず立ち姿だけでも見とれて呆けそうになる。
カインはミレーユと視線が合うと、どこかほっとした安堵を浮かべた。
本当に婚儀があげられるのか、最後まで不安だったのかもしれない。
もしかしたら、自分よりもずっと――。
しかしそんな安堵も、ミレーユの横に立つエリアスに視線が移ると、途端にムッとした顔へと変わる。
ナイルが言っていた、『どちらが花婿か分からない』という言葉を思い出してしまったようだ。実際、黒竜王に似た衣装を纏ったエリアスは、とびきりの美男子にしか見えない。
「お前、婚儀を前に花嫁に見せる表情じゃないぞ」
エリアスの呆れたような言い様に、すぐさまカインは反論した。
「この顔は母上に向けているんですよ」
「この場で母親の方が気にかかるのか。そんなことでは先行きが不安だな」
「気にかけているのではなく、敵意を向けているんですよ!」
ミレーユは二人のやり取りを笑って聞きながら、カインの元へと足を進めた。
カインの前まで来ると、エリアスが思い出したように「あぁ、そうだった」と呟き。
「お前も花嫁を迎え、真に赤竜王として立つんだ。そろそろ赤爪を返そう」
エリアスは鞘ごと刀を抜き取ると、カインに投げてよこそうとした。
なんとも雑な母親の行動に、カインは眉根を寄せた。
「別にいりませんよ、そんなもの。さして歩くのも邪魔ですから、母上に差し上げます」
赤爪はエリアスにとって黒竜王と共にいるための因だ。
そんな心中など一切知りえぬ息子の言葉に、エリアスは一瞬表情に動揺を見せた。
「……そうか」
手放したくない感情を殺していたのだろう。
返還は不要と言われたことに、エリアスの凛々しい顔が、いまはほんのりと安堵をもらす少女のように見える。
母親の安堵には気づかず、カインは白い手袋を嵌めた手をミレーユに伸ばす。
「行こう、ミレーユ」
「はい!」
手に手を重ね、長い階段を上がる。
ここに至るまで、心の葛藤は何度もあった。
けれど、いまのミレーユの胸中は心穏やかで、厳かな気持ちで階段の上に敷かれた白いベルベットの上を歩くことができた。
いまは仮式のときのような不安も、緊張も、恐怖もない。
あるのは、ただ幸福感。
まるで雪の上を歩いているような不思議な感触を感じ、ほんの一瞬頭がくらりとした。
(何かしら、この感覚……とても懐かしく感じる)
ふわりふわりと、まるで夢心地の気分。
一歩上がるごとにその感覚が強くなっていると、ふいにカインが階段の真ん中あたりで立ち止まり、一段下にいたミレーユを振り返った。
「どうかされました?」
じっと見つめられ、不思議に思い尋ねれば。
「いや……、ずっと夢見てきたことが叶うのだと思うと、これが夢じゃないんだと再確認したくなった。十年という月日は、竜族にとってはそう長い時間じゃないが、私にとってはとても長く感じられた」
「それは……それだけ、竜王の儀式が過酷な試練だったのですね……」
「いや、そうじゃない。ミレーユは、ルトガーの話を聞いて、竜王の儀式を恐ろしいものだと想像したのかもしれないが、私にとっては、あの時間すら幸福なものだったよ」
あの日、あの時、あの場所に降りて、唯一無二の存在と出会えた。
あの子が幸せにほほ笑んでくれるなら、どんな世界でも望むままにつくってあげたい。
この儀式がそのための一歩なら、膨大な魔力に身体を切り刻まれるような感触すら心地よかった。
語りながら、彼は一点の曇りもない笑みで、ミレーユを見据えて言う。
「竜王の儀式で、あれほど幸福感に満たされた時間を過ごした竜王はきっと他にはいないだろう。私にとってあの十年は、ここへ通じるための時間だった。辛いわけがない」
その言葉に胸が詰まって、急いで唇を引き結ばなければ、涙が零れてしまいそうだった。
ミレーユは一瞬だけ下を向き、唇を噛みしめてぐっと我慢すると、すぐに顔を上げた。
「では、私はカイン様が感じてくださった幸福感を偽りとせぬよう、費やしてくださったお時間以上のものを差し上げなくてはなりませんね」
悪戯っぽく笑って、繋いでいた手を強く握りしめると、カインも同じく優しく握り返してくれた。
二人でゆっくりと階段を上り終わると、左右に設けられた白い椅子の前で起立して待っていた数十人の列席者たちが一斉にこちらを振り返り、二人を拍手で出迎えてくれた。
左側は竜族の関係者席なのか、ゼルギスやナイルたちが、右側にはロベルトとエミリアがいた。ルルは左側の、ゼルギスの横でニコニコと笑っており、なんだかすっかり竜族の一員のように見えた。
祭壇へ進むと、あることに気づく。
仮式のときとは違い、三段ほど高い壇上には聖職者がおらず、左右を見渡しても見つからない。不思議に思いながらも、ミレーユはカインに倣って登壇した。
「祭司様はいらっしゃらないのですね」
「ああ、仮式のときは他の種族と同じような婚儀の形を取ったが、これが本来の竜族の婚儀になる。両手を出して」
「はい」
両手の手のひらを差し出せば、下から手を添えるように包み込まれ。
「このまま魔力を少し放出して」
言われるがままにすると、カインの魔力と交じり合い、両手の中にふわふわとした七色の光を放つ球が現れた。
それはほんのりと温かく。
まるで、優しい陽の光をしゃぼん玉の中に閉じ込めたかのようだ。
「両手を離して、手のひらに残ったものを私の口に。ほら、十年前にミレーユがしてくれたように」
チュシャの実を分け合ったことを指しているのだと気づき、ミレーユは当時を思い出しながら、手のひらの七色の光をカインに与えた。
カインは真珠の大きさ程度のそれを難なく嚥下する。
続いて、ミレーユの番となり。カインは口元に運びながら、こんなことを言ってきた。
「そういえば、仮式のときは美しく成長したミレーユに戸惑って言えなかったが、あの時のドレスも、そのドレスもミレーユにとても似合っている。――すごく綺麗だ」
「え? あ、ありがとうございますっ」
賛辞に、顔を赤くして礼を返す。
(仮式で対面したときに驚かれていたのは、そういうことだったの?)
いまごろになって謎が解けるとは。
たくさんの話をして、少しは彼のことを知ったつもりになっていたが、実際はまだまだ分かっていないことや知らなかったことはたくさんあるのだろう。
でも、いまはそれでいいのだ。
少しずつ分かり合って、話し合って。
そうやって時を紡いでいけば。
きっと、
――――だって、――様とも、そうやって過ごしたじゃない。