黄泉の間Ⅱ
「ドレイク国というのは、始終そんな感じだ。この国の歴史はあまりに古く、言い伝えもその由来も疑わしいものが多い。その点では君も苦労するかもしれないな」
呆れを滲ませて言うエリアスに、ミレーユはハッとした。
彼女に相談するなら、いまがチャンスかもしれない。
「あの……エリアス様」
意気込んで口を開くも、まず義母様と呼ぶことが許されるのか分からず、つい名で窺ってしまう。
しどろもどろに名を呼んでも、彼女は特段気にした風もなく。
「なんだ?」
「えっと、その……、あ、母国でのお探し物は見つかられたのですか?」
自分の聞きたいことをどう尋ねるべきか考えあぐねるあまり当たり障りのないものがつい口を出てしまった。
黄泉の間で、そんなことを聴かれるとは思っていなかったのだろう。
エリアスは軽く目をまたたくと、ふっと笑ってポケットの中から何かを取り出した。
「ああ、見つかったよ。婚儀前に出払って悪かったね。これを取りに行っていたんだ。思っていた以上に探すのに手間取った」
そう言って、一つの箱をミレーユに手渡した。
「? これは?」
暗がりではすぐに何か分からず首を傾げると、エリアスがランプをかざしてくれた。
箱の蓋を開き、中をのぞけば、そこには菫色の耳飾りが納められていた。
藤の花を模り、ダイヤと淡水のパールが揺れる美しい意匠だ。
「うちの一族には、代々その家の家宝を母親から娘に贈る習わしがある。私にはカインしか子供がいない。その花嫁となる君に贈るのがふさわしいだろう」
「そのような大切な品を私が持つなど、虎族の方にとって不本意なのでは……」
「気にする必要はない。私の物を私がどうしようが私の自由だ。君も子が生まれたら同じようにたくして欲しい。こういうものは連綿と受け繋がれることに意味がある」
目を優しく細め、ほほ笑む彼女の瞳に、いまは亡き母の顔が浮かんだ。
たった三年という短い月日でも、ミレーユの軸をつくってくれた母。その面影が、エリアスに重なる。
「……では、ありがたくちょうだいいたします」
「式が終わるまではポケットの中にでも入れておけ」
エリアスの言葉は、まるで母親が娘に教示してくれているかのようだ。
ミレーユは亡き母が生前たくさんの教えを施してくれたことを思い出し、目の下に薄っすらと涙を滲ませた。
いまなら、自分の気持ちを話せる気がする。
そういう雰囲気に、彼女がしてくれたから。
「幾つかお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「ああ、なんでもきけ」
エリアスの明朗な声は暗闇の中でもよく響き、陽の下で会話をしている時となんら変わらない心地にさせてくれる。
快諾を受け、ミレーユは一つ深呼吸をすると、胸の内を吐露した。
「どうすれば、エリアス様のように広く世界を見る目が養われるのでしょうか? 私には欠けたものが多く、それはきっとカイン様のご負担に繋がるでしょう。現に、ルトガー様のこともそうです。カイン様のお怒りも袖にし、大それた願いを口にしてしまいました」
ルトガーを助けるためにはあれしか手段が考えられなかったとはいえ、世界を欲するなどいま思い出しても恐れ多い。
だが、どうしても鷹族からルトガーという王を奪うことも、過度な報復を行うことでカインが邪竜などと呼ばれる未来をつくることも絶対に阻止したかった。
「どれほどの理由があれど、世界のことなど何一つ理解していない私が下していい判断でなかったことは承知しております……。今後も私の至らなさが、カイン様の足を引っ張ることに繋がるのではないかと、私はそれが恐ろしいのです」
素直な気持ちをそのままに吐露すれば、エリアスは一言だけ、「真面目だな」と呟いた。
「君は竜王の、しかも赤竜王の花嫁になるんだ。多少のことは大目に見られる。それこそ明日世界を亡ぼせと命令する権利すらある」
「そ、そんなことは望みたくありませんが……」
そもそもそんな権利は誰にもないのではないだろうかと心の端で思うが、そこはエリアス。たとえ話も壮大だ。
「君の竜印は特殊のようだが、カインを慕う心に偽りはない。偽らぬこと、謀らぬこと、ただひたすらに竜王を愛し信じることが、何よりも花嫁に求められる資質だ。竜は、大雑把でいて、その実約束を守らぬものを嫌う。初代竜王が人間を忌み嫌ったのも、すぐにコロコロと意見や考えを変えるところだったと聞く。その点、君には花嫁としての心得がある。それ以外のものなど、取るに足りないことだ」
彼女はそう言い切ったが、ミレーユはすぐには納得できなかった。
「エリアス様はオリヴェル様の代わりに公務をこなされていらっしゃったとお聴きしました。私もエリアス様のように、少しでもカイン様のご負担を支えられるだけの器量を磨くべきではないでしょうか」
生真面目に答えるミレーユに、エリアスがふっと笑った。
「それは買いかぶり過ぎだ。そもそも、私と君とでは立場が違いすぎる。私は押し掛けの花嫁だからな。私がオリヴェルと竜印を交わしていないことは知っているだろう?」
「はい。竜印の盾がなくとも、エリアス様はなんの支障もないほどに魔力に溢れていらっしゃるからと」
「それはうちの一族が勝手に言い出したことだ。実際は違う。私が竜約を拒んだのは、拒否されることを恐れたからにすぎない」
そう言ってまた笑うが、それは彼女らしくない自嘲気味な笑みだった。
「竜約は互いが想い合っていないと成立しない。知っての通り、私は花嫁の地位が欲しかっただけだ。竜約を結べるはずがない」
「それは……エリアス様には、オリヴェル様へのお気持ちがなかったということでしょうか?」
「いや。ないのはオリヴェルの方だよ。あれは私に言われ、いわれるがままに結婚したからな」
常に尊大な雰囲気を漂わせ、それがまたよく似合っている彼女の憂いを帯びた瞳がランプに照らされている。
「私はね、虎族の王になどたいして興味はなかった。だが、幼いときにオリヴェルを一目見た瞬間に、どうしても彼の花嫁になりたいと強く願ったんだ」
そのためだけに王を目指した。王女という立場だけでは、竜王との謁見は難しい。
エリアスは竜王の花嫁の地位が欲しかったのではなく、オリヴェルの花嫁になりたかったのだ。
「赤爪を手に入れたのも保険だよ。これは、初代竜王が唯一残したとされている国宝だ。竜族にとっては至宝中の至宝。奪われたままで済まされる品ではない」
エリアスは腰に差していた刀を片手で抜くと、どこか遠い目で刃先を見つめた。
「カインにとって、君は間違いなく唯一の番だ。だが、オリヴェルと私は違う。世界のどこかに、彼の唯一の番がいるかもしれない。私は恐ろしかったよ。いつか本当の番が現れたとき、私はオリヴェルを諦めることができるだろうかと……」
闇の中で浮かぶ金色の瞳がかすかに揺れていた。
「本来、花嫁が政に口を出すなど必要ない。私がそれをしたのは、それしかオリヴェルにしてあげられることがなかったからだ」
微かに口元をあげ、ほほ笑む彼女はやはり美しかった。
男性にも女性にも見える、どちらの美しさも持ちえるエリアス。
(オリヴェル様がエリアス様を愛していらっしゃらないなんて、到底思えないわ)
思わず口をついて出そうになった言葉が喉から流れる前に、エリアスは赤爪を鞘に納めると、ミレーユの顔を見つめて言った。
「なるほど、君と話しているとどうやら口が軽くなるようだ。そういう雰囲気があるんだろうな」
カインが好きになるわけだと頷くと、真っすぐにミレーユを見つめた。
「私と同じである必要はない。君は君らしく進みなさい。過ちも正しさも貫かなければ分からないものだ。貫いてみなさい、その先の答えを知るために」
さきほどとは打って変わって、母親の口調で告げられる。
その眼差しには、一切の憂いはなく。
「自身がまだまだ萌芽だというなら、ゆっくりと育てればいいだけだ。なに、時間はたくさんある。竜族の一生は長く退屈だ。やるべきことがある方が楽しいだろう」
「エリアス様……」
「心配することはない。私に教授できることはすべて教えよう。だから安心しなさい」
「は、はい!」
(カイン様のお言葉が優しい真綿なら、エリアス様の下さる助言は気を引き締めてくれる鞭だわ)
どちらにもあたたかな気遣いがあり、ミレーユは自然とほほ笑みを零していた。