黄泉の間
そこから先は、本当に目まぐるしかった。
(こ、この慌ただしさと心の動揺……なにかしら、すごく既視感を覚えるのは)
考えて思い出した。そうだ。はじめてドレイク国へ訪れ、偽の花嫁としてウエディングドレスに袖を通したときも、こんな風に感情が慌ただしく動いていた。
(少し前までは、婚儀の支度は静粛な気持ちで挑むのだと思っていたけれど……!)
実際は台風の目の中にいて、周りをナイルたちがグルグルと走り回ってくれているという形だ。
遠くの源泉から引かれるエメラルドグリーンの湯あみを怒涛の勢いですまし、美しい純白のドレスも、煌めく宝石の数々も、着けるというよりはこなすという表現がしっくりくるのはどうしてだろう。
そうやって仕上がったミレーユの花嫁姿は、ナイルたちの必死な仕事ぶりのお陰で、舞台裏の慌ただしさなど一切感じさせない出来となった。
カインの婚礼衣装はさきに見せてもらっていたが、自身のドレスを見るのはこれが初めてだ。
極上のシルク生地を使用したドレスは、見た目の豪華さに反してふわりと軽く。大きく広がるスカートには、横に流れるようなレースが縫い付けられている。
装飾も華やかで、連なる真珠が胸元を飾り、その中心にはひと際大きな虹石が輝いていた。
シャンデリアの光に反射し、キラキラと七色を放つ様はまるで夜空に輝く星々のよう。
ドレスの美しさに思わず見とれそうになるが、残念ながらゆっくりと鑑賞する時間もなく。
ミレーユが次に案内されたのは、ドレイク国では珍しい古い扉の前だった。
支度中、ナイルから受けた説明では、この扉の中に入り、花嫁に課せられた《追想の儀》を行わなければならないらしい。
(記憶の継承を目的としているとお聴きしたけれど、どのような儀式が執り行われるのかしら)
緊張のあまりゴクリと息を呑んでいると、ナイルをはじめとする女官たちがずらりと列をなし頭を下げる。
「ここより先は花嫁しか許されない領域となります。ご案内はエリアス様が」
ナイルの言葉に、柱の陰からエリアスが現れる。
相変わらず何度見ても凛々しい義母はドレスではなく、黒竜王の着衣していたものとよく似た黒の長衣に金刺繍が施された衣装を身にまとっていた。
「せめてドレスを着ていただきたかったのですが……」
「私は基本的にドレスを好まない。有事のさい動きにくいからな」
歯ぎしりが聞こえてきそうなナイルの顰めっ面にも、エリアスは堂々と返す。
きっと衣装のことで口論をしている時間もなかったのだろうと推測しつつ、ミレーユはエリアスに導かれるように扉の前へと立った。
石を溶かして固めたような色合いの扉は、重そうな見た目にもかかわらず軽やかに開き、ほんの少し湿った風がミレーユの頬を撫でていく。
目を凝らしても扉の奥は深い闇に包まれており、まったく先を見通すことができない。
(部屋というよりは、まるで洞窟だわ)
まじまじと部屋の様子を見つめていると、ナイルからランプを受け取ったエリアスが逡巡することなく扉の奥へと歩き出した。
ミレーユも迷わず中に入ると、同時に扉が閉まり、エリアスが持つランプの光だけが暗闇の中に浮かび上がる。
真っ暗な空間は静寂と暗闇に支配され、時の流れすら忘れさせる。
自分の身体と闇の境界線が曖昧となり、溶けて消えてしまいそう。
その感覚に、ミレーユは不思議となじみ深さを感じていた。
(なんだか、仮死の術を施しているときとよく似ているのよね……)
キョロキョロと視線を動かすミレーユを心配してか、エリアスが振り返る。
「怖くないか?」
「え? いえ、どちらかと言えば落ち着きます」
ミレーユの言葉に、エリアスは感心したように笑った。
「そうか、なかなか度胸があるな。私は強烈な不快感を覚えたものだ。ここは黄泉の下――――死人の通り道だからな」
「?!」
死人という言葉に驚き、ミレーユは思わず声をあげそうになった。
「ナイルはこの儀式を追想の儀と呼び、力の継承を目的としたものだと説明しただろうが、実際は違う。ああ、ナイルが嘘をいっているというわけではないよ。竜族の奴らは本当にそうだと信じているだけだ」
「それは、竜族の皆様の認識と事実は違うということでしょうか?」
ミレーユの問いにエリアスは涼しい顔で頷くと、話を続けた。
「初代花嫁が一度死んでいることはすでに聞いたんだろう?」
「は、はい……」
「実際、初代花嫁が本当に初代竜王の手によって殺されたのかは分からないが、彼女が一度死んでいることは事実だ。そしてそれが原因で、人間としての寿命しか生きることができなかったことも」
エリアスはそこで言葉を切ると、おもむろにランプを上げ、暗闇の中を照らした。
天井は思っていたよりも低く、ゴツゴツとした岩肌が見える。
ミレーユは最初、この部屋を洞窟のようだと思ったが、こうやって見ると違う。
(まるで大きな石の中にいるみたい……)
「この部屋は、初代竜王の悔恨の念でつくられたとされている《黄泉の間》だ。この中を抜けたとき、齧歯族の君は死に、新たな生を受ける。竜族の花嫁として生まれ変わるんだ」
「生まれ、変わる……」
「竜族どもがこのことを知らないのは、歴代の花嫁たちが秘密にしてきたからだ。アイツらは初代竜王が初代花嫁を殺した過去に強い忌避感を持っているからな。たとえ身体をつくりかえるためとはいえ、花嫁が死ぬと聞けば冷静ではいられない」
確かに、もしカインが追想の儀の本当の意味を知れば、冷や汗を流しながら拒絶しそうだ。
「この黄泉の間 は、竜族と同じ寿命を得るためには通らねばならない道だ。それを竜王自身に邪魔されてはかなわない」
しかし必要があるとはいえ、黄泉の世界を一人で渡らせるのも酷。
ならばと、力を継承するという名目で前任の花嫁が付き添い、その際に理由を明かすという形が出来上がったのだそうだ。
「まぁ、嘘も方便というやつだな。このことを知っているのは花嫁以外ではローラ一人だ。もしも、この黄泉の間で花嫁の身体に急激な異変が起こった場合、医竜官の彼女が対処するようになっている」
「まぁ、ローラ様はご存じなのですね」
ミレーユはウエディングドレスの支度中にあいさつに来てくれたローラの顔を思い出す。
『婚儀中にお疲れが出た際はすぐに仰ってくださいね。わたくしが全身全霊で拝診いたします』
彼女らしい気遣いをいつも通りに受け取っていたが、あの言葉には多少の危惧も含まれていたのだろう。