変わらぬ想いⅨ
「絶望のふちに立ち、私を憎むことでルトガー様が今日まで来られたというのなら、それは生きるために必要なことだったのでしょう」
ルトガーは視線から逃れるように伏せていた目をあげ、驚いたような表情でミレーユを見つめた。
引き結んだ薄い唇が、なにかを発しようとしたが、それよりも先に冷たい言葉が落ちる。
「その矛先がミレーユである必要はない!」
どれほど言葉を重ねてもカインの表情に変化はなく、怒りを収めることのない目をしていた。
エミリアやその夫であるヨルムの行いに憤慨していたときですら、ミレーユの懇願にはもっと耳を傾けてくれていた。けれど、いまの彼にはすべての声がすり抜けているように感じられた。
(……それでも怯むわけにはいかない。ここで諦めれば、ルトガー様の命も、鷹族の民の命も危うい)
そんなミレーユの想いを察するかのように、カインの眉が顰められる。
いつもなら身をかがめ、こちらの目線に合わせて話しかけてくれる彼が、見下ろすように言葉を続けた。
「ミレーユ、君がどれ程願おうが、この男の助命だけは叶えてやれない。たとえこのさき邪竜として歴史に名が刻まれようと、私の花嫁を害そうとした者を許すことはできない」
邪竜という言葉が、ミレーユの胸に突き刺さる。
「君が望むなら、世界だってくれてやる。だが、この男を許すことだけは絶対にない!」
灼熱を吐き出すかのような咆哮だった。背筋がぞっと凍るほどの威圧の中で、ミレーユは汗に滑る拳を握り締め、カインを見上げて問いかけた。
「…………私が望めば、カイン様はこの世界すら私に下さるというのですか?」
思い出すのは初対面のときにルトガーが放った言葉。
彼は、もしも花嫁が世界のすべてを我がものにと願えば、竜王は直ちにそれを実行すると。花嫁のためならば世界を滅ぼすことすら厭わないと、そう言った。
「ああ、竜約を交わしてもかまわない」
あのときのルトガーの言葉が真実であったように、カインは難なく頷いた。
「そうですか……ならばいただきましょう。世界のすべてを――」
「?!」
まさかミレーユが本当に世界など望むとは思っていなかったカインは、一瞬呆けた顔をしたが、二人の宣言が嘘偽りでないことを証明するとばかりに、カインの右手の甲と、ミレーユの胸元が七色の光を発した。
――――新たな形で、竜約が結ばれたのだ。
竜約を交わしてもいいと口にしたのは確かにカインだったが、婚姻以外で竜約が使われることなどほぼ皆無。
しかも、最初の竜約は生きているのだ。
これにまた別の竜約を重ねるのは術を二重にするということになる。
魔力は重ねることはできず、強いものに打ち消されるもの。
だというのに、なぜ可能となったのか。
訝しがるカインの一方で、ミレーユはやはり竜印を視認することはできなかったが、自身の胸元が熱く光ったことだけは分かった。
十年前に七色の少年と交わした約束のときに感じた、あの熱を。
「なぜ?……いや、好都合か」
術が重なり合ったことには驚いたが、これで証明できるのであれば、それに越したことはない。
「約束は守ろう。代わりに、この男の処遇は私に決めさせてもらう」
「……はい」
掠れた声で答え、小さく頷く。
ミレーユの了承を得たカインは、ルトガーの元へ足を進める。
しかし、すぐさま立ち塞がるようにミレーユは両手を広げると、行く手を阻んだ。
「ミレーユ……?」
「ルトガー様の行いに対し、お許しがいただけないことは承知いたしました。ですが、この世界が私のものになったというのならば、ルトガー様は私の民になったということになります」
「――――ん?」
「ならば私は王として、民を守らねばなりません。竜王に背いた罪も、王たる私の罪です。――罰はいかようにもお受けいたしましょう」
そう言って、ドレスの裾を持ち上げ、深々と頭を下げる。
恭しい礼を見せられ、カインはギョッとした。
「ちょ、ちょっと待ってくれ……!」
慌ててミレーユの両肩に手を置くが、迷いのない黒曜石の瞳は瞬きもせず、背筋を真っ直ぐに伸ばして告げた。
「世界という、身の丈に合わぬ望みを欲したのです。代償は承知の上です」
絶句するカインとは逆に、床に膝をついていたルトガーが立ち上がり声をあげる。
「花嫁殿っ、貴女にそこまでしていただく義理はない。今回のことは私の愚行が招いたことだ!」
すでに死は覚悟しており、民の助命嘆願だけは申し出るつもりだったと言うルトガーに、ミレーユは口調を強めた。
「それでは新たな遺恨を生み出すだけです。ルトガー様を失った国民の気持ちはどうなります」
「その国民を窮地に立たせてしまったのは私です……」
「兵は皆、ルトガー様の身を案じておりました。竜王に背く行為と知りながらもそれでも手を貸されたのは、命令されたからではなく、彼らに慕う心があったからです。貴方はこれから残りの人生を、彼らに報いるために使うべきです」
たとえ下位種族であろうと、齧歯族の王女として、使い物にならぬ王を支えてきたミレーユの言葉はルトガーにも刺さったのか、迷うように黒青の瞳が揺れ動く。
そんなやり取りの横で、カインは肝を冷やしていた。
ミレーユは、カインの愛に縋るような甘い考えは持っていない。
もしもそれが極刑だとしても、自分の罪だと思えば受け入れるだろう。