変わらぬ想い
時は、少し前に遡る。
カインと別れ、その後ろ姿を見送ったミレーユは、沈んだ気持ちのまま深いため息を吐き出した。
とたん、まるで大量の魔力を消費した時なような疲労感がずしんときた。
(……ッ。身体が重い……)
きっと精神的なものからきているのだろう。
己でも情けないと呆れるが、短時間で知り得た情報は意想外のことばかり。心を重くさせるには十分な威力があった。
死と隣り合わせの竜王の儀式、頑丈な竜族の身体に傷を負わせるほどの竜約の攻撃。
衝撃の事実を知り、ふいに耳に蘇ったのはイライザの言葉だった。
『いったい貴女は、カイン様のためになにができるのかしら?』
本当に、自分はカインのためになにができるのだろう。
早すぎる継承の儀で大変な思いをしたのも、ミレーユの憂いを慮って争いを禁じる告示を発令したのも、距離を縮めようと手を伸ばしてくれたのもすべてカイン。
彼が引き換えにした時間と労力と痛み。それらが大きければ大きいほど、なにもできない我が身が辛い。
(そこまでしていただけるだけの価値が、はたして私にあるといえるの?)
くらりと、世界が揺れた気がした。
罪悪感と焦燥感に似たものがせり上がり、うまく呼吸ができない。
さきほどもカインが目の前にいるというのに、混乱のあまり感情を抑えることができなかった。
「……やっぱり、このまま何食わぬ顔で婚儀を迎えることなどできないわ」
ミレーユは暗雲を散らすように首を振ると、ぐっと眉根を寄せ、表情を引き締めた。
いま心の中にある自分の感情をきちんと言葉にして、カインに伝えなければ。
決意を固め、一歩を踏み出したときだ。――身体に何かが走った。
背筋に氷柱が滑るような、ゾクッとする嫌な感覚。思わず後ろを振り向く。
「……ルトガー様」
「――おや、意外と勘がいいですね」
そこには、てっきり辞したとばかり思っていたルトガーの姿があった。
彼は少し意外そうに笑うと、ゆっくりとした足取りで木々の隙間を抜け、こちらに向かってくる。その後ろには、さきほどはいなかったはずの正装着姿の鷹族と思しき者が数名いた 。一見すると高官を引き連れた一行にも思えるが、それにしてはなんだかおかしい。
なぜかと考えて、すぐにたどり着いた答え――目だ。
口元だけは初対面のときと変わらぬ笑顔を向けているが、頭飾りを通していても分かるほどに、ルトガーの瞳の色は薄暗く淀んで見える。
ミレーユはやや緊張の面持ちで口を開いた。
「これはルトガー様、さきほどは大変失礼いたしました。……道に迷われましたか?」
動揺を気取られたくなくて笑みを浮かべるも、ルトガーの瞳が和らぐことはない。
彼はミレーユの問いかけには応じず、ドレイク国の壮麗な宮殿を見上げながら淡々と言った。
「昔から、この国の者は平和ボケばかりだ。門番はおざなり、他国では国宝級の品も竜族にとっては普段使いが当然とばかりに鍵のない部屋に平気で放置しているありさま。――神の種族から何かを強奪する者などいないと、高を括っているのでしょうね」
静かでありながら含みのある声が滔々と続く。
「否、高を括っているわけではなく、奪われたところで困ることはないと考えているのかもしれません。しょせんどんな逸品も、彼にとってはすべてにおいて替えがきくものばかり。神の種族には、その技術と力がありますからね」
「……、なんのお話をされていらっしゃるのです?」
ごくりと息を呑み、窺うように問うも、答えはなく。
頭の中に警鐘が鳴り響き、反射的に後ずさりしたくなる。
「けれどこの傲慢な国にも、決して替えのきかぬものが存在します。それを盗めば、少しは失うことの恐怖を知ってもらえるのではないかと」
そう思うのですよと、平坦に言い放ちながら、ミレーユを見下ろす。
ミレーユとて、彼の意図するところが分からぬほど愚鈍ではない。
ドレイク国での生活はあまりに平和で、のんびりとした日々を過ごさせてもらっていたが、母国では弱国故に常に狩られる脅威に晒されてきた。
いま、まさにルトガーから放たれているのは、それと同じもの。
潰されたくなければ、従順に応じろという命令だ。
ミレーユは、さっと身に着けている小物に目をやった。
髪には薔薇の型を模ったダイヤモンド。耳には真珠を使ったイヤリング。ルビーの小花がちりばめられたブレスレット。すべての装飾品に、これでもかというほどの宝石が使用されている。
以前、母国の森でヨルムと遭遇した際、魔術を付与できる石が見つからず焦った経験から、必ず一つは石のついた装飾品を身に着けるように していた。
(厚い氷の壁をつくり、その隙に逃げれば、助けを求められるかもしれない。カイン様も、ゼルギス様もまだ近くにいらっしゃるはず……)
ミレーユはぐっと右手に力を入れる。
しかし、まるでこちらの考えなどお見通しとばかりに、ルトガーは乾いた笑みを零す。
「貴女の術が、石を媒体にすることは知っていますよ。宝石類はすべて捨ててください。でなければ、――あの侍女の命は保証できません」
「え――?」
ルトガーの指がくいっと動くと、控えていた者とは違う男が、大木の後ろから現れた。
その腕には、口元を塞がれながらも「んー! んー!」と呻きながらジタバタと暴れているルルの姿。
「ルル!?」
男がおもむろに上衣に隠していた短剣を取り出し、ルルの細い首に銀光を放つ切っ先をあてる。
その光景は、ミレーユにとって己に刃が向くよりも大きな恐怖をもたらした。