消えた竜印Ⅴ
とっさの言い訳も出てこず、固まったままのカインに、ミレーユの白く色の抜けた唇が動く。
「いまのは……私が、触れたからですよね?」
「ち、違う!」
か細く震えながらも必死に声を絞り出すミレーユが痛々しく、必死に否定した。
けれど、それで納得するわけもなく。
「私が触れるたびに、カイン様を傷つけていたなんて……」
「いや、だから違うと! そもそも私がミレーユに触れたいから触れていただけで、ミレーユが気にするようなことじゃない!」
「気にするようなことじゃない……?」
ミレーユはなぜかひどくショックを受けた顔で黒曜石の瞳を揺らし、カインを見つめた。
「私との約束を果たすために、過酷な継承を早めて下さったのですよね。私を守るために結んで下さった竜約が、カイン様を傷つけているのに。……それは、私が気にすることではないのですか?」
(過酷な継承? まさか、竜王の儀式のことを言っているのか?)
「どこでそれを……」
ゼルギスがうっかり口を滑らせたあのときだって、詳しい内容は伝えていない。ナイルたちにも箝口令を敷いている。
なぜ? と疑問を持ったのがまずかったのだろう。ミレーユは渋い顔をするカインの表情で、なにかを確信してしまったようだ。
下を向き、顔を上げてはくれない。灰褐色の前髪越しに、強く唇を噛みしめているのが見え、カインは思わず手を伸ばす。
「ミレーユ!?」
「――やめてください」
か細くも、強い意志と拒絶が含まれた声に、カインはビクリと指を止めた。
いや、止めたのではなく。一瞬、漂った何かが、止めさせたのだ。
しかしカインはミレーユの様子ばかりが気にかかり、わずかに放たれたそれに気を払わなかった。
そんな気まずく張り詰めた空気は、第三者の声で壊された。
「カイン様、少々面倒な事が起こり――あ、これは失礼。ミレーユ様もご一緒でしたか」
ゼルギスだった。
彼はカインの後ろにいたミレーユの姿を見つけると、言いかけていた言葉を止めた。
「後にしてくれ」
なんてタイミングが悪いんだと、ゼルギスを睨みつつ、短く命令するも「残念ながらこちらも緊急です」と引かずに、ゼルギスが耳打ちする。
「――ッ!」
聞けば、確かに緊急だった。
婚儀で使用する箇所に、いくつかの問題が発生したというのだ。
「どうやら人為的な妨害による可能性が高いようです」
ミレーユに聞こえぬよう囁くゼルギスの表情は、普段通りの柔和な笑み。
けれど、声音には十分な怒りが込められていた。
「手口からして、他種族の犯行とみていいでしょう」
よもや我が一族に喧嘩を売る種族がいるとは。時と場所を考えろよ、消し飛ばすぞ。そんな苛立ちが伝わってくる。
「私も動きますが、どうしても一か所だけ。儀式で使用する火山帯だけは、カイン様のお力が必要です」
看過できない事情に、カインは舌を打ちそうになる。
だが、先んずるはミレーユだ。なんとか、竜王の儀式や竜約の力のことを隠していたことを釈明しなければと意気込んだものの――。
「どうか、私にはかまわず行ってください」
ミレーユはいつもと変わらぬ佇まいで、静かにそう言った。
「いや、だが……」
さきほどまで睫毛を伏せ、沈んだ瞳をしていたミレーユを放ってはおけない。
カインの狼狽をよそに、一連のやり取りを知らぬゼルギスが提案する。
「では、ミレーユ様は私がお部屋にお送りいたしましょう」
「いいえ、心配には及びません。さすがに道に迷うほどの距離でもございませんから、お気になさらず」
丁寧な辞退だった。彼女が自身よりも他人を優先するのは日ごろからの常とはいえ、今日ばかりは違和感があった。
「あの……、ミレーユ?」
「婚儀に差し障る事が起こっているなら、私も不安ですから。どうか、そちらを優先なさってください」
困ったようにほほ笑まれ、カインは言葉を呑み込む。
(仕方ない。とっとと解決して、婚儀の前に十分な時間を設けよう)
もともとミレーユに伝えなければならないことは多く、その時間も取る予定だった。
後ろ髪をひかれながらも、その場を後にするカインの姿を、ミレーユは見えなくなるまで静かに見つめていた。
一応納得して歩みを進めていたカインだったが、憤りが収まっていたわけではない。
「せめてあと少し待てなかったのか。あんな間の悪いところに……」
「そう、仰られましても。婚儀における、重大欠陥に繋がる事項ですよ。対処を急ぐにこしたことはありません。実行犯も見つけなければなりませんし。それに――」
真剣な面持ちでカインをいなしていたゼルギスはいったん言葉を切ると、エメラルドの瞳に不信感を映して言った。
「最後の最後で気持ちを緩められて、竜印の力で灰にでもなられては困ります。婚儀まであと少しの辛抱なのですから、ミレーユ様との接触は極力控えてくださ……――ッ!」
小言が始まるかと思いきや、ゼルギスの視線がある一点で止まった。
「――カイン様。……もしや、ミレーユ様と喧嘩でもされていらっしゃいましたか?」
「私とミレーユが喧嘩などするわけないだろう」
口論などするはずがない。なぜなら、ミレーユに怒られれば、その理由がなんであれ自分はすぐに全面降伏するし、ミレーユは性格上怒りを見せるタイプでもない。
(だが、さっきのアレは少し戸惑ったな……)
やめてくださいと告げた、固い声。
あれは、明確な拒絶の色をはらんでいた気がする。
(拒絶……ちょっと待て。アレは、本当は怒っていたんじゃないか?)
怒りと攻撃は同時に放たれるのが常である女性陣に囲まれて育った弊害から、その場では気づけなかったが、実はミレーユの最上級の怒り方だったのかもしれない。
ひゅっと息を呑んで、思わず足を止めた。
そんなカインに、ゼルギスの切羽詰まった声が耳に響く。
「喧嘩ではないと? それでは……、その右手はどうされました!?」
「は?」
血の気の引いた顔で指さす先を、カインは訝しみながら追った。
最初はその意味が分からなかったが、自分の右手を見て――――絶句した。
消えていたのだ。
さきほどまでは確かに色濃く映えていた竜印が、まるで最初から刻まれてなどいなかったように。
「――ッ!」
まさか。そんなはずはない。
竜約が解消され、竜印が消えれば、自分が気づかないはずがない。
だが、自分の右手の甲を何度擦ったところで竜印が蘇ることはなく。
カインはすぐさま踵を返し、ミレーユの元へと引き返した。
けれど――――。
「……ミレーユ?」
そこに、ミレーユの姿はなかった。
別れて戻ってくるまで時間にしてもわずかだったはずだ。
そのわずかな時間で、彼の大切な人は忽然と姿を消していたのだ――――。