至宝の君Ⅷ
当時、黒竜王として竜王を継いでいたオリヴェルは、一向に花嫁を娶る気配も、花嫁を探す素振りも見せず、ただただ惰眠を貪っていた。
そんな彼に危機感を抱いていたのはゼルギスだけではなかったが、番に関してだけはけっして強制することはできない。それほど竜族にとっては何人にも侵すことのできない権利なのだ。
仕事はしない。なんなら執務室に入ることすら嫌がる。嫌がるあまり、すでに数えきれないほど建物を倒壊させ、普段めったなことでは見せない本気さで逃亡を図る。
ゼルギスとしてはオリヴェルが竜王の儀式を終え、継いでくれたことだけでも御の字ではあるが、できることならもう少し意欲を見せて欲しいという願望はあった。
そのため、ゼルギスは兄への苦言にある人物の名を出していた。
虎族の至宝の君にして、王位継承前だというのに、すでに『雷帝皇』と呼ばれる人物。
エリアス・ティーガー。
邪竜を退治し、世界に平和をもたらしたとされる物語の主人公、勇者エリアスと同じ名を持つ青年の名声は高く、伝え聞くだけでも数多くの武勇伝があった。
わずか十歳での初陣にはじまり、参戦すれば全戦全勝。
どれほど不利な状況下でも、すべてを無に返す才智。
とくに有名な戦いは、鰐族との一戦。数万の兵を相手に、エリアスはわずか七名の兵で完勝したという。
その七名も歴戦のつわものなどではなく、寄せ集めの兵だったとか。エリアスの強さに感化された七名は、その後隊長クラスまで昇格。
反対に敗北を喫した鰐族は、力の違いを見せつけられたことで、蛮族として恐れられていた性格が一変し、温厚で戦争を嫌う一族へと変わった。
そんな人望、統率力、実行力に優れたエリアスの話を聴くたびに、ゼルギスは兄に言った。
「兄上、エリアス殿までとは言いませんが、少しは竜王として仕事に取り組みましょう」
とりあえず、この書類に印を押すだけでいい。書類に目を通せとは言わない。意見をもらうなど夢のまた夢。
竜王を継ぎたくなかったゼルギスにとって、兄の仕事への無関心さは許容範囲内だ。それでもわずかな期待を託し、なにかあればエリアスの名を出した。
このとき、ゼルギスも他の竜族の者たちも、エリアスのことを男だと信じて疑っていなかったのだ。
事件が起きたのは、虎族の領土で開かれた世界種族会議が発端だった。
数年に一度の世界種族会議だけは、竜王として、どうしても出席してもらわねばならない。
だが、オリヴェルは基本的にすべての会議を嫌がる。逃げ出し、それが失敗に終われば暴れる。本人は軽く嫌がっている程度のつもりだろうが、魔力と攻撃力が尋常ではないため、どうしても影響は大きい。
その日、オリヴェルは意外にもさほど嫌がることなく向かってくれた。が、やはり土壇場で嫌になったのか、軽く放った魔弾が虎族の歴史的文化遺産の塔に命中、右半分を失うこととなってしまった。
世界種族会議後、もちろん虎族からは賠償を求められた。
正直、この時のゼルギスは「はいはい。またですね」程度にしか思っていなかった。
オリヴェルのこうしたうっかりは日常茶飯事。自国でも他国でも場所を選ばず起こるため、すっかり賠償慣れしていたのだ。
意外だったのは、この交渉の席に立ったのが、現王ではなく、エリアスだったことだ。
虎族の民族衣装でもある白いシャツに長い羽織をキッチリと着こみ、皮のブーツを履いたエリアスの姿は、一分の隙もない青年貴公子。
あまり間近で見たことはなかったが、なるほどと納得してしまう風格があった。
陰でいくらオリヴェルのことを怠惰王と罵っても、実際目の前にすると、ほとんどの虎族が彼の膨大な魔力に圧倒される。けれど、エリアスには怯みなど一切なく、常に淡々とした態度で賠償を求めてきた。
もっとも、その求めはゼルギスですら過剰すぎると唸るものだったが――。
エリアスが求めたのは、多額の修理費と竜族が保有する領土。
そして、国宝刀『赤爪』だったのだ。
これにはさすがのゼルギスも異を唱えた。
「修理費と領土については了承いたしましょう。ですが、『赤爪』については譲歩いたしかねます。あれは初代竜王陛下の持ち物であり、赤竜王のみが帯刀を許される品です」
「赤竜は初代竜王以外では、これまで一度も生まれていないのだろう。使わぬ刀になんの意味がある。私が使ってやる」
エリアスの尊大な言い様に、ゼルギスは口元を歪めた。
(なぜ赤爪を欲するんだ。あれは私ですら重く、扱うなど考えたこともない刀だぞ)
赤爪は、見た目は細身の刃だが、手にした途端それは大剣へと形を変え、赤黒い光沢を放つ。オリヴェルが竜王を継承したときに何度か保管庫から持ち運んだことがあるが、ゼルギスとしては素晴らしい遺産だと思ったことはない。
赤爪から放たれる初代竜王の陰力は凄まじく、同じく陰力の高いゼルギスとは相性が悪い。それはオリヴェルも同じ。
そういえば、エリアスはその魔力の高さに比例して、やたら陽力が高い。
冷静に分析すれば、陰力の強い竜族よりも彼の方が赤爪を扱えるかもしれない。
(まぁ、あれが国宝である以上、他種族に渡すなどあり得ない話ですが)
「帯刀を許されるのは赤竜のみですが、刀の継承権は現竜王にあります。竜王の持ち物を、他種族に差し上げるわけにはまいりません」
赤爪を奪うと言うならば、それはすなわち現竜王を敵に回すことだと暗に告げれば、虎族たちに戦慄が走った。
そんな中にあっても、エリアスだけが何食わぬ顔を崩さない。
(これは、もう少し脅しが必要ですかね……)
ゼルギスは、オリヴェルに意見を求めることにした。
兄はこういった際、判断をすべてゼルギスに一任する。一任すると言うよりは、完全なる丸投げなのだが、今回はそちらの方が好都合だ。
竜王の了承という名目で、多少刃を交えれば引いてくれるだろう。赤爪の分は、別の賠償で補填すればいい。
しかし、オリヴェルの発した言葉は、思わぬものだった。
「じゃあ、竜王になればいいんじゃない」
「は?」
この場にいる虎族側だけでなく、竜族の家臣ですらオリヴェルの意図が瞬時には理解できなかった。
だが、付き合いの長いゼルギスだけは兄の魂胆をすぐに察した。
ゼルギスは、長年オリヴェルに対し、「エリアス殿を見習え」と言ってきた。
オリヴェルはそれを、エリアスは王として有能。なら、エリアスに竜王をしてもらえばいい。
そしたら自分が仕事をしなくてすむようになる! と、普通の者では到底理解できない、謎理論を展開しているのだ。