至宝の君Ⅳ
元始体――――それは上位種族の中でも 特別な者だけが、人へと進化する以前の姿に戻れることを指す言葉。
ミレーユもカインの翼を見たとき、失われたはずの姿を一部でも引き継いでいることに驚いたが、しかし元始体はまた別だ。
完全体の元始の姿になるなど、もはや神話。あるはずがない現象だとも思っていた。
(それがまさか……)
その姿を見ることになろうとは、想像だにしていなかった。
数日前、各国の来賓を招いた絢爛の間。
そこには、一匹の巨大な竜がいた。
七匹の古代竜と同じ姿をした、漆黒の竜が。
「げ、元始体……」
小さく零した声は掠れ、どうしても震えてしまう。
「捕縛隊っ、何をしているっ。早くオリヴェル様に鎖をかけろ!」
大広間では、大勢の竜兵たちが一丸となって巨大な黒竜を抑えようと躍起になっていた。動きを押さえるための道具か、大木ほどの太い鎖が宙を飛び交う。
しかし、そんな彼らの努力も黒竜の前ではまったくの無意味。悲しいことに、ピクリとも動かすことができない。
「いやぁ、これ本気で嫌がってらっしゃるから無理だろう……」
「いつもなら床に這いつくばって一歩も動かれないのに、今日はお元気だな」
対して黒竜はというと、長い尻尾がほんの少し壁や柱にかすっただけでドォーンと轟音を響かせながら粉々に砕け散っていく。まさに阿鼻叫喚。
カインからひとまず地震については心配ないと聞き、共にやってきたミレーユだったが。
(この状況は一体……)
ルルとけだまには部屋に留まるよう言い聞かせておいてよかった。こんな壮絶な現場など、さすがに見せられない。
威厳ある大広間が狭く感じられる巨体への恐怖もさることながら、なにより畏怖するのは、むせ返るような大量の魔力だ。
いっそ失神したいという願望がミレーユの頭を横切るほどに、凄まじい量が大広間中に流入していた。
(こ、わい……)
いままで感じたことのない異次元の威圧に、ミレーユの足は震え、立っていることすらままならない。
恐怖のあまり意識を手放しそうになる寸前、その異変にいち早く気づいたカインが、ミレーユを守るように後ろから抱き留める。
「父上っ、元始体を解いてください! ミレーユが脅える!」
充満していた魔力を自身の力で薙ぎ払いながらカインが叫ぶと、怒声が聞こえたのか巨体は動きを止め、ゆっくりとこちらに振り返った。
大きく開いた口から覗く尖った牙。長い角の下にある闇色の眼球がぎょろりと動く。
目が合ったと思った刹那鋭い閃光が走り、ミレーユはとっさに目を閉じた。
ややあって恐る恐る瞼を開くと、巻き上がる砂煙の中から誰かが歩いてくる姿が見えた。
それは黒の衣装に身を包んだ、闇を纏ったかのような美丈夫だった。
腰まである長い黒髪は月のない夜空のようで、どこか不穏を思わせる色がゆったりと揺れている。
「――誰?」
発せられた低い声には起伏がなく、一切の喜怒哀楽が読み取れない。
(カイン様ともゼルギス様とも雰囲気がまったく違う……)
冷たく暗い地の底を彷彿とさせる漆黒の瞳は、触れてはならない深淵を覗き込んでいるかのようで、いまだに放出される大量の魔力とも相まって生きた心地がしなかった。
それでもミレーユは手のひらに爪を食い込ませ、正気を保った。
初対面の前竜王に挨拶もせず、恐怖に脅えるなど無礼すぎる。
ミレーユは必死に平静を装いながら膝を深く折り、口を開いた。
「ご、ご拝顔の栄に浴し恐悦に存じます……。グリレス国第一王女、ミレーユ・グリレスと申します」
恐ろしいまでの魔力を有する相手でも、口上はなんとか述べることができた。
できることなら、エリアスのときにも同様のあいさつを口にしたかったが……。
想い人に似ているというだけで動揺し、ポンコツになる我が身が恨めしい。
そんな後悔に苛まれながらも、ミレーユは前竜王の言葉を待った。
果たして、カインの父である前竜王は、齧歯族の姫をどう思っているのだろう。不安はつきない。
腰を折ったままの姿勢を崩さないミレーユに、彼は事も無げに言った。
「ふーん……。いつ国に帰るの?」
彼の言葉に、身体が石のように硬直し、顔が強張った。
王族間の結婚だ。ましてや両国には距離もあることを踏まえれば、婚姻後の帰郷など、よほどの理由がなければあり得ない。
以前、エミリアの件で二度ほど母国に帰らせてもらったが、婚姻後は自由な行き来などできないと心得ていた。
(帰国を前提に話されるということは、やはり私は認められていないんだわ……)
当たり前と言えば当たり前の話だ。
神の種族の頂点たる竜王が、下位種族の娘と結婚するなど、親としては受け入れ難いだろう。
竜族の結婚は当人同士でのみ決まるものだと聞いているが、前竜王という立場なら、見解だって多少違っていてもおかしくない。
緊張と不安で、握りしめる指が痺れる。
(いえ、怖がっているだけではダメよ! ちゃんとカイン様の伴侶として認めてもらわなければ!)
胸元で両手を握り締め、ミレーユは意を決し顔を上げた。
「――え?」
すると、なぜか握り締めていた両手を彼の大きな手に包み込まれた。
それはエリアスが求めたような友好な意思を示すものではなく、なにやら哀願に近い手つきだった。
「里帰りするときは、僕も一緒に連れて行って欲しい」
「はい……?」
「うちには帰りたくないって言ったのにっ、エリアスが僕に嘘をついた……っ」
闇よりも深い、漆黒の瞳。
さきほどまであれほど恐怖していたその瞳からは、涙が零れていた。
男性の肌とは思えない滑らかな頬を落ちていく玉の粒に、ミレーユは度肝を抜かれる。
(ええっ、な、泣いていらっしゃる!?)
見た目の年齢はゼルギスとそう変わらない大の大人が悲しそうに眉を寄せ、まるで子供のようにえぐえぐと泣いているのだ。驚かずにはいられない。