第一話
この世界は、「0」と「1」で成り立っている。
ないものと、あるもの。
それは、この世界のすべて。
この世界には、「1」があふれている。
この世界は、「1」である。
存在するものは、すべて「1」。
存在しないものは、すべて「0」。
ゼロの中に「1」は存在せず、1の中に「0」は存在しない。
この、「1」と、「0」が複雑に絡み合い、無限を生み出す。
・・・二進法を知っているだろうか。
「0」と「1」で、無限に広がる数値。
1 ―――1
10 ―――2
11 ―――3
100 ―――4
101 ―――5
110 ―――6
111 ―――7
1000―――8
1001―――9
1010―――10
数字はすべて、「0」と「1」で、表すことができる。
「0」と「1」があれば、無限の数値を、たった二つの数字で表すことができる。
このシステムは、とりわけコンピューターにおいて、なくてはならないものだ。
…演算負担を限りなく縮小したもの、それが二進法。
デジタル回路のマッピング。コンピューターの中には、「0」と「1」であふれている。
「0」 と「1」であふれるパソコンの世界は、現実世界において、情報として存在している。
情報として存在している・・・「1」だ。
…だが。
「1」 として確かに存在しているはずなのに、物質としての「1」は存在していない。
…情報は、現実世界においては、「1」の姿をした、「0」。
俺は、そこに、可能性を、見出した。
この世界は、「1」と、「0」ですべてが構築されている。
俺の頭の中の『1』は、この世界では「0」だ。
俺の頭の中の、俺だけの思考、欲望、願い、鬱憤、無念、妄想、執心、絶望、興奮、悲しみ、恨み、嘆き、楽しみ、空虚・・・すべての、感情。
この、現実世界では「0」である、俺の頭の中のすべてを、この「1」の世界に、引きずり出せたら。
この俺だけが持つ『1』を。
俺の頭の中に広がる、無限の『1』を。
この恐ろしく無機質な、意味のない、「1」の世界に…持ち出すことができたなら。
夜な夜な、パソコンのデジタル回路マッピングを睨み付けながら、「0」を「1」へ引っ張り出す方法を探る。日の射さない、暗い部屋に、ただキーボードを叩きつける音が響く。俺の目の前のモニターには、0と1がずらりと並ぶ。
01000101011100001010011010010100110001010100010000001010010100101100100101100110010100010011000010010111110101000101011101010001010101011101001000100001100001001010110001001000000101001101001010011000101010001000000101001010010110010010110011001010001001100001001011111010100010101110101000101010101110100100010000110000100101011000100100000010100110100101001100010101000100000010100101001011001001011001100101000100110000100101111101010001010111010100010101010111010010001000011000010010101100010010000…
どこだ。
どこに、俺の『1』を「1」に変えるヒントがある?
どこに、俺の生きる活路はある?
どこに、俺の居場所はある?
どこに。
…どこに。
・・・どこ、に。
夢中になって、キーボードを叩く俺は、飯を食う事も、睡眠をとることも忘れた。
ただ、一心不乱に、キーボードを叩きつけて。
そのまま、意識を、失った。
……。
日の射すはずがない、俺の部屋に光が射している。
この場所に引っ越してきて以来一度も開けることの無かったカーテンが…開いて、いる?
…なぜ。
パソコンのキーボードに右頬を突っ伏して眠っていた俺は、自分に当たる光の明るさで…目を、覚ました。眩しさに、顔をしかめる。重たい瞼をゆっくりと開け、上体を起こし、そのまま背中を反らしつつ…部屋の中を、見渡す。
俺の部屋は、こんなだったか?…ずいぶん汚いな。雑誌やペットボトルのごみがそこらかしこに転がっている。服も脱ぎっぱなしだ。パイプベットの上には、しみだらけのせんべい布団と、茶色く変色したカバー無しの枕。パイプハンガーには収まりきらない安物の服が無造作にかけられていて…冬のコートの上には、くたびれたTシャツが置いてある。壊れた扇風機と、小さな電気ヒーターが並んで放置してある。
季節感のかけらもない、汚れ切った部屋だ。…明るいと、こんなにも不愉快なものが見えるのか。
…カーテンを、閉めよう。
俺は、椅子から、立ち上がろうと。
「あ、目、覚めた?」
ガシャッ!!ガッツ!!ドガシャッ!!
椅子から立ち上がろうとしたその時、俺の真後ろから、声がした。ビビった俺は、思わず、椅子を倒してしまった。危うく転びそうになったが…床から積まれている汚いタオルの山のおかげで難を逃れた。
…人というものは、あまりにも驚くと、声が出ないらしい。突っ立ったまま、ただ、無言で、声の主を確認する、俺。
俺よりも身長の低い、少しつり目の大きな目をした少女が・・・微笑みながら、こちらを見上げている。薄茶色の長い髪はポニーテールにまとめられていて、耳元には水色のピアスが揺れている。耳?福耳?少し長いような気がする、もしかして、エルフなのか?まさか!
…ここまで一瞬で考えて、俺は倒れた椅子を起こし、座り直した。椅子の上で腕を組み、横に立つ少女の足元を…盗み見る。少女は俺を見ているようだが、俺は初対面の少女の目を見る勇気は、ない。そもそも、まだ声すらかけていない。人と話すなんざ、久しぶり、なんでね。さて、どうしたものか。
「はじめまして!」
伏し目がちに足元を見つめる俺の目の前に、少女がずかずかとその姿を割り込ませてきた。人の顔を下から覗き込むだと…?なんという、破廉恥、いや、違うな。堂々とした態度? 少し高めの、あどけなさの残る声が、耳元に、響く。
・・・女子と会話したのなんて、何年ぶりだ?いや、まだ会話はしていない。一方的に話しかけられて、何も返せて、いない。
話しかけて、いいんだよな。
…話すぞ?
この俺が。
今から。
「・・・おう。」
思いのほか、普通に、声が出た。俺は、こんな声を、していたのか。久しぶりに発した自分の声に、少々、驚いた。
思わず、右手を頭にもっていく。…ずいぶん、髪も伸びているな。
「あのね、お話する前に…この部屋、片づけて、いい?」
「・・・ああ。」
部屋が明るいから、足の踏み場もないのが…よくわかる。よく見ると、少女が俺の脱ぎ散らかした下着を踏んでいる。
「ちょっとうるさくなるけど…我慢、してね?」
少女が、手をかざすと。
ベフォッ!ズザサッ!!ブゥフワァッ!!ベッコベッコ!!!ベフォッ!ズザサッ!!ブゥフワァッ!!ベッコベッコ!!!
部屋中の、ゴミ、雑誌、服、出しっぱなしだった雑品、そういうものが、ひゅんひゅんと移動を始めた。
なんだ?!なんなんだ!!これは!!!
魔法?!超能力?!
そもそもこの少女はいったい何なんだ?!いつからここにいた?!何のために俺の部屋に?!…クソっ、今頃テンパってきやがった、混乱がハンパねえ!!!
部屋中の荷物が宙を舞い、細かいゴミやホコリが飛び散り、すごいことになっている。思わず袖で鼻と口を覆い、目を伏せる。この空気、吸いたくねえな、そう思っていると、ホコリは螺旋を描いて、ゴミ箱の中に吸収されていった。
「ちょっと空気悪いから、窓開けるね!」
少女が窓を開けると、風がぶわっと入ってきた。…外の空気、風をこの部屋に取り込むなんてのは…いったいいつぶりになるんだろうか。何年前に入れ替えたのかわからない部屋の空気は…すんなりと俺の部屋になじんだ。新鮮な空気ってのは、案外感動がないんだな。汚れた都会の空気だから、仕方がないのかもしれない。
ごみがはけてすっきりした部屋の片隅を見ると、姿見があった。…ずいぶん久しぶりに見た。上京して、大学に入学した時に身だしなみチェック用に買った奴だ。買ったことすら忘れていた。
俺はふと…自分の姿を、鏡に映したくなって、椅子から立ち上がり、久しぶりにフローリングの上を踏んだ。何年も掃除をしていなかったのに、ゴミさえ片付けてしまえば傷ひとつない、奇麗な床があるだけだ。なるほどね、荷物が乗っかってる分、汚れはそっちが引き受けてくれたってことだな。
…鏡に映るのは。
肩まで伸びた、直毛の黒い髪。太い眉毛に、切れ長の一重瞼。薄い唇は、いつも不機嫌そうな、骨太の男。このところパソコンばかりやっていたから、ずいぶん姿勢が悪くなったな。175ある身長が、やけに低く見える。
俺。
城崎一…27歳の、引きこもり。
少女は、どこからかゴミ袋を持ってきて、ごみを分別している。几帳面なことだ。どうせ積み重ねられていただけのいらないものばかり。この機会にすっきり捨ててしまえば、それで良い。
・・・良くないのは。
この状況が、まるで理解できていない、俺の方だ。
・・・この少女はいったい何なんだ。どう、理解したらいいんだ。俺は気が付く前、何をしていた?
確か。
二進法の在り方に、無限の可能性を感じて。そこに、囚われて。…。だめだ。いまいち、記憶が、はっきりしない。
…もしかして、この少女は。
俺が、『1』の世界から連れ出したと、言うのか…?
肝心の、『1』を「1」の世界に持ち出した瞬間を、覚えていない。
俺の中に、その記憶は、ゼロ、だ。
まず、俺がすべきこと。
それは、この少女との、対峙。・・・できるのか? この俺に。人と話すのなんて、何年ぶりだ? しかし、話さねば、何一つ、解決は望めない。何から、聞いたらいいのか。なんと話しかけたらいいのか。
…混乱が、止まらない。
少女は、細かい汚れの残るフローリングの床を乾拭きしている。濡らした雑巾も用意している。徹底的に、掃除をし始めたようだ。でかいゴミを退かしただけでもかなりきれいになったんだ、わざわざ拭き掃除なんかしなくてもいいのに。・・・なんというか、申し訳ないな。
「ありがとう。」
感謝の言葉が、ふいに出た。俺にも、まだ誰かに感謝する心が残っていたのか。知らなかった。
「いえいえ。ゴミ、ベランダに置いとくね。」
ゴミ袋を四つベランダに出すと、広々とした空間が広がった。・・・こんなにも俺の部屋は広かったのか。部屋の広さを確認しながら、ふらふらとゴミを移動させている少女の近くに移動した時、風が、俺の髪を、巻き上げた。
「ああ、そういうお顔だったんだ。イケメンですね。」
風にあおられて俺の顔があらわになり、少女はじっと見つめて、言い放った。
「何、言って・・・。」
何を、言っているんだ。この少女、は。思わず顔を、見つめてしまったじゃないか。うっ、青緑色の、瞳っ…!慌てて、視線を外す。ベランダのサッシが、汚い。
「私、パイ=ノイン=パーセンテージ。パイって呼んでね。」
少女…パイは、無邪気な声を、俺に向ける。「0」の世界から飛び出した、パイか。なるほどね、超越数円周率と、「0」に、共通点を見た。除法において商の値は無限大であり…
「ハジメって呼んでいい?」
・・・パイは、どうも僕の目線の中に無理やり入ってきたがるようだ。汚いサッシを見ていた僕の視点は、再び青緑色の、瞳でピントが整った。まつ毛長いな…。
「・・・どうぞ。」
パイは、にっこり笑うと、僕の手を取りっ…!! ちょっ!! 女子と手をつなぐとかっ!!! 小学生以来、だぞ…? 勘弁、してくれ!!! でも!! 振り払う訳にはっ!!!
「ね、ハジメ、私と一緒に、世界を、乗っ取ろう!!!」
「・・・はあ?!」
思わず、パイの目をにらみ返した。手は、つながれたままだ。
「私、あなたの『1』の世界、すべて持ち出してきたから。」
僕を見つめる、青緑色の目が、少し細くなった。眼光の鋭さが、増す。
「この世界の神になろう!!!なれるから、ねっ!!!」
1000100001100001001010110001001
0000001010011
0100101001100010101000100000010100101001011001001011001100101000100110000100101111101010001010111010100010101010111010010001000011000010010101100010010000001010011010010100110001010100010000001010010100101100100101100110010100010011000010010111110101000101011101010001010101011101001
0001000011000010
010101100010
0100
001
10 1
パイの足元から、0と1があふれだした。0と1は、螺旋を描いて、くるくるとパイを包み始める。包み始めた0と1は、やがてパイの頭上で色を無くし、空に消える。
0と1が、現実世界に、溢れている…?!
「あなたは0と1をこの世界で使いこなせる、ただ一人の人。…私は貴方の、見届け人。」
「さあ、ハジメは、何を願い、何を成す?」
無限の数字にあれほどまでに執着していた俺は、事の次第の途方も無い壮大さに、正直たじろぎ、一歩も動くことができない。
それは、まるで。
計算式をグラフに書き込む前の静けさ。
「0」と「1」で構築された無限大の可能性を展開する、未知の数式。
x軸とy軸との交わる原点を、ゼロと読まずに オーと読む、(0,0)の座標。
オーから始まる、「0」と「1」が無双する、世界の始まり。
・・・俺の世界が、今、始まる。
作者は文系なので、専門家の皆さんは生暖かく見守って下さい(。>д<)