22 「まだ根に持ってるの?」
現実のナウアは、今まさに、世界が流転しているような錯覚に襲われていた。
捲き上る砂塵。吹き付ける熱風。そして、燃え盛るガスの香り。
彼女がいるのは、ホワイトサンズ・デスと呼ばれる砂漠の真っ只中である。
カルマン渦という名称で流体力学の歴史に名を刻んだ研究者フォン・カルマンの提唱で、短距離ミサイルの実験場として定められた荒野は、連日の好天気により、むき出しの岩肌や砂地に水気はかけらもない。
当然、植物など影も形も見当たらない。
広大な荒野の終わりの稜線からは、灼熱を思わせる太陽が顔をのぞかせており、大地の端をホワイトサンドという名に相応しく、白く染めている。
その地平線を追い求めるように、いままさに、荒野で唯一と言っても過言ではない人工物が、飛び立とうとしていた。
高さ十五・五メートル。重量十一・五トン。ドクツが威信をかけて開発した、自立型飛行装置。
通称、V2である。
簡易式というより、手抜きにしか思えない発射台の側でナウアが見守るなか、ひとりの少女が頬を拭う。
「かんっぺき」
形のよい唇が開く。
快活で意思のこもった、力強い声。そして、若い女性の声でもあった。
声の主は、機械油を頬につけ、気持ちよさそうに目を細めている。
歳は、十五か六くらい。服装にはまるで無頓着。迷彩服をだぼだぼのままに着て、せっかくの金髪を腰のあたりでざっくばらんにひとまとめに括っている。
髪は手入れがなされておらず絡まっており、頬に機械油を拭ったあとがある様と相まって、ぱっとみは完璧に野生児である。
なのに、陽に当たっても、肌はなぜか赤くなるだけでちっとも黒くならないという、同性の目線で言わせてもらえば、同じ人間として扱いたくないくらいの、白い肌の持ち主だった。
ちなみに、彼女が人間ではない、という証言を集めるだけなら、簡単にできるのではないかとナウアは密かに信じている。
日々の言動からしてずれているし、なにより、ナウア自身が、驚愕の現場を目撃していた。
彼女は、宇宙から突如飛来する人工物に乗って、やってきたのだから。
従軍していたあの日。
緊張と共に臨んだドクツの地で、ナウアは目撃したのだ。
それは、はじめは、流れ星に見えた。
燃え尽きることなく地上に迫るのを見て、ドクツの開発した新兵器ではないかと、胸騒ぎがした。
それは、自分たちの部隊のすぐ近くに落下したため、ナウアは斥候として、落下地点に向かった。
――ひとが乗っていたら即死ね。
そんな感想をいだいた、その時。
ナウアは目撃した。
地面に衝突し、ひしゃげて燃え盛る残骸のなかから、悠然と立ち上がる生き物を。こちらに向かって手を伸ばした時の驚愕を、ナウアは生涯忘れることはない。
ナウアの不運。
それは、戦場で、ヤスミンカと名乗る宇宙人を拾ったことである。
――わたしの発明したロケットは、大西洋をたった四十分で横断できる技術を持っています。
それが、宇宙人・ヤスミンカの売り文句だった。
ヤスミンカは語る。
多段ロケットを使えば、地球周回軌道に衛星や宇宙船を打ち上げられること、宇宙ステーションを建造すれば、物理学や天文学、重力に妨げられて不可能だった医療に新薬の研究開発が可能になることを。
近い将来、人類が月に降り立つことができるのだ、と。
そしてヤスミンカは、結果でもって、自分の言葉が流言ではないことを証明する。
彼女が亡命したのが、一九四五年の二月。
亡命が受理されると共に、ヤスミンカは合衆国へ渡る。
女性で手頃な人間がいなかったためか、ヤスミンカの付き人みたいな形になっていたナウアは、ヤスミンカと共に帰国する。
三月には、合衆国への亡命したペーネミュンデ機関の学者たちは勢揃いし、地上燃焼試験を開始。四月十六日にV2の打ち上げに成功する。
合衆国の技術者は驚愕した。
多種多様な感情が彼らの心中に溢れていたらしく、博覧会の様相を呈しており、ナウアは笑いを堪えるのに必死だった。ちなみに一番多数派だったのは、自分の顎が外れていないかと、慌てて顎に手をやる仕草だった。
まあ、彼らの気持ちを、ナウアもわからなくはない。
聞けば、向こう十年は実現しないと髙を括っていた技術を、これでもかというくらいに実演されたということになるらしいのだから。
だが、彼女に言わせてみれば、ヤスミンカ自身は、目新しいことをしている自覚は微塵もない。かつて習得した技術の再現にすぎないと思っているに違いなかった。
むしろ、ヤスミンカを戸惑わせたのは、新しい日常の方なのだから。
「ショッピング?」
その証拠に、ナウアが持ってきた提案に対し、ヤスミンカは未だかつてないほどの驚きを持って答えたのだった。
いつも振り回されっぱなしのヤスミンカを驚かせたことにささやかな喜びを感じながらナウアは告げる。
「ええ。V2の打ち上げの功績の報酬として、市街地への出入りが許可されたのよ。わたしが同行することになるけど、すこしでも合衆国の空気を感じてもらえれば、と」
「報酬をくれるというのなら」
ヤスミンカの目が泳いだのを機敏に察したナウアが、すかさず牽制する。
「今度危険物を要求したら、叩き出すわよ?」
「ヒトラジンの件で、まだ根に持ってるの?」
ヤスミンカがからからと笑う。ショッピングの件よりもよほど楽しそうな声音である。
ヒトラジン。
アンモニアににた刺激臭を持つ無色の液体。
人体へ腐食をもたらし、中毒症状を及ぼすため、毒物及び劇物の取締法により毒物指定されている劇薬である。
食事の配給のおり、軽い口調で頼まれたため、ドクツでは当たり前に手に入るジュースの類だと思ったナウアは軽い気持ちで問い合わせて、大目玉を喰らったのである。
翌日、彼女が怒り心頭にヤスミンカに詰め寄ったところ、眠たげな表情でもふもふとパンを食べていたヤスミンカは悪びれることなく、あっさりといった。
――わたしがここにきた理由、知ってる?
そのときのことを思い出すと、ナウアはいつも、頭を抱えてしゃがみ込みたくなってしまう。
ヒトラジンのもうひとつの特性。
強い還元性を持ち、分解しやすい。しかも、酸化剤を混ぜるだけで化学反応で着火するため、火をつける必要がない。
安定して火をつけ続けるメカニズムの確立に苦労するのがロケット開発である。
要するに、ロケットエンジンの推進剤にもってこいだから試してみたかった、ということなのだ。
ただ、どう考えても取り扱い厳の危険物は、捕虜の立場で要求するものではないと、ナウアは声を大にして主張したい。
以降、ナウアのなかでヤスミンカは、放っておくと何をしでかすかわからない要注意な人間の筆頭である。
「まさか猛毒を捕虜が要求するだなんて、考えてもみなかったのよ」
今も昔も変わらぬ、いつわりなき本心である。
「知識は武器だと気づく、またとない経験だったんじゃない?」
「前向きな姿勢だけは尊敬するわ」
当のヤスミンカは、やはり興味なさそうに、そしてヒトラジンを要求したときとすんぶん違わずつまらなそうな顔をしながら、朝食のパンをもしゃもしゃとやっている。
ショッピングというか、おしゃれに興味を示さない女が、この世にいることそのものが、ナウアには信じられない。
素材がいいだけに、余計にいらだたしい。
「だから、ショッピングをして、レストランで食事をして、映画館でデェズニーを観にいって構わないといっているのよ?」
「へえ」
あからさまに乗り気でないヤスミンカに、彼女は一計を講ずる。まあ、策というほどではないのだけれど。
「わたしたちは、人類史上初となる、生活必需品以外を購入できる社会で生まれたのよ?
どのような結果になるか予測するためにも、ショッピングを試すのは女の義務と言っても過言ではないわ」
ふんっと鼻をならす。ヤスミンカは降参して両手をあげる。
「理屈っぽく屁理屈をこねるあたり、わたし好みに染まってきたわね」
「順応したといってくれる?」
ナイアは肩をすくめる。
「それとも、ぼそぼそのパン切れとか、マッシュポットらしき破片とか、毒々しい青色で果物のかけらが入っていたら幸運の証といわれるゼリーだとか、うっすら紫に変色した肉らしきものだとか。そういうのが好きでたまらないというのなら、行かなくてもいいんだけど」
「なるほど、そう考えると魅力的に思えなくもないわね」
「それじゃあ、早く服を着替えてくる。あと、髪もちゃんとする。せっかく綺麗な髪なんだから。きちんとすれば、くらってくる殿方がいるかもしれないわよ?」
「いらないわよ。男なら間に合ってるんだから」
男の気の字もないくせに何を悠長な、とナウアは思う。
亡命した研究者のほとんどは男性で、独身の者もそれなりにいる。
だが、彼らのなかでヤスミンカは女王にも等しく、どう贔屓目に見ても、恋愛感情を持ち合わせているようには見えない。
なんなら、恐れ多いとすら思っていそうな塩梅である。
あなたが男と縁があるなら、自分はとっくに結婚して家庭を持っているわよ、とまでナウアは考えている。
「とにかく、ヤースナ。あなたは、乙女としての矜持が欠落しています。だから今日は、一緒に遊び方を学びましょう。はい、決定」
「ねえ、ひとつ聞いておきたいのだけれど」
「なに?」
「ここ、砂漠の真ん中よ?」




