19 「わたし、頑張りましたか?」
「んあ」
横たわったまま、イリーナは自分のうめき声を聞いた。
おかしいくらいに頭がぼんやりしており、自分がどこにいるかどうしても思い出せなかった。
けれど、ひどく安心している自分がいる。ずいぶんと、懐かしいような。
誰かが上掛けを直してくれたらしい。でも、自分の衣服は、冷たい汗に濡れていて気持ち悪い。
「やーです、兄さん」
あれ、何日くらい寝ていたんだろうって気がする。
身体が浮ついていて、不思議なくらい、どこにも力が入らなかった。
部屋ががまぶしい。薄目を開けると、ながく伸びて力強い陽光が、天井を明るく照らしていた。
そこは、いつもと違う、古びた天井だった。知らないベッドだったし、知らない匂いのする枕である。なにもかも違うはずなのに、ひどく落ち着いている自分がいて、ひどく不思議な感じがした。
「おはよう、イリーナ。気分はどう?」
兄はそういいながら、柔らかく湿ったもので額や首のあたりを拭いてくれる。丁寧で、優しい手つきだった。
――そっか。兄さんが帰って来てくれたんだ。
兄の存在を認めたイリーナのなかで、不思議な感覚は安心にゆっくり変わっていく。
それと、鼻腔をくすぐる、暖かいオニオンスープの匂いがする。
風邪を引いているときに、兄が作ってくれた優しい味のするスープの匂い。
その匂いのおかげで、自分は、風邪を引いているらしいと分かった。
「兄さん。お腹すいた」
「うん、ちょっと待っててね」
風邪を引くのは、辛いけれど、嫌いではなかった。
一日中寝ていても叱られないし、喉にじんわりと染み渡るオニオンスープを作ってもらえるし、なにより大好きな兄が一緒にいてくれる。
幸せというのは、今のような心地のことをいうのだろ。
それにしても、こんなに安心できるのは、施設に入ってから一度もなかった。
ひょっとして、いまだに夢現な状態なのだろうか。
幸せな夢であるならば、覚めないで欲しい。
そんなことを思いながら、心地よさに身をまかせていると、視界の端に、見慣れぬ人影を見つけた。
そいつは、酷く心配そうな顔で、自分を見つめている。
束の間、思考が固まる。
「少佐!?」
反射的に飛び上がった。全身の毛穴から一気に汗が吹き出した。
正確には、気持ちだけが飛び上がっていて、彼女の身体はベッドの上から微動だにしていない。
「そのままでいいから」
「すみません、その」
身体が異様なくらいに熱かった。
首のあたりまで赤くなっている気がしてならない。
なんというか、寝ている間に、いろいろといけないものを見られている気がする。顔をまともにみられなくて、弱々しい手に鞭打って上掛けを口元まで持っていく。
「なんで少佐がここに」
「そりゃあ、ここが工場だからさ。いまが夏でよかったよ。冬だったら、おおごとになってたところだよ。なにか食べられそう?」
あれ、と思う。季節ってそんなに進んでいただろうか、と。
夢中で突っ走っているうちに、時間がうんと進んでしまったのかもしれなかった。
時間に取り残されたような気がして、少し寂しくなる。
ヴェルナーがいつものように、少し困ったように微笑んでいるのをみて、スープをください、とお願いする。
「なんでわたし、フラフラなんでしょう?」
よだれでだるだるになってしまった枕を、なんとなく毛布の中に押し込みながら、イリーナはもぞもぞと起き上がろうと頑張る。
が、まったく身体に力がはいらない。
「ダメだよ、無理しちゃ。熱があるんだから」
彼はイリーナのうなじのあたりに手を差し入れると、優しく抱き起こしてくれた。
深めの木皿を手渡される。
食欲はなかったが、口の中はからからだった。
ちらっと、唇と舌先だけ、触れてみる。人肌に冷ましたスープだった。
「料理ができるんですね」
廃工場で、大きな口を開けて眠っていた彼の姿からは、仕事以外に一切興味をもたない生活破綻者にしか見えず、家庭的な料理ができる人と結びつかない。
「覚える必要があったからね。朝食を準備しないと、すごく厄介なことになったから」
ヴェルナーは、苦笑いする。
「それで、飲めそう? 口にあうといいんだけど」
イリーナは、木皿の縁に口をつけ、ゆっくりと呑み下す。
「美味しい、です」
「よかった」
そのまま抱き抱えるような優しい手つきでベッドに寝かせる。
ぼんやりしている頭に、心臓の鼓動がうるさいと、イリーナは自分を叱責する。けれど、ちっとも沈まらない。
「ごめんなさい」
「ん?」
「わたし、いま、病気なんて治らなくていいって思っちゃいました。わたし、悪い子ですね」
ヴェルナーはちょっとだけ首を傾げて微笑した。
まるで、いうことを聞かない子どもをあやす、父親のような顔だった。
「君は、頑張れる子だ。ちょっと頑張りすぎちゃうくらいね」
そういって、髪をすくって、額に濡れタオルを置いてくれる。ひんやりと心地よい。
「それじゃあ、何かあったら言って。今日はここにいるからさ」
「業務はいいんですか?」
「一応、僕の出来ることはやり切ったからね。今日一日は、勉強に充てることにするよ」
彼はベッドの側に寄せた椅子に腰掛け、本を開く。
青い背表紙のそれは、たしか、物体表面流れの境界層について論じた本だったはずだ。
あまり美しくない式だったのを覚えている。良い解法を思いついたから、後で教えてあげようと、イリーナはぼんやりと思う。
ゆったりとした時間が流れていく。眠りすぎたせいか、すこし胃が動いて身体が起きてしまったのか、眠気がなかなか訪れない。
「ひとつ、聞いてもいいですか」
「なに」
「なんで、こんなに面倒をみてくれるのですか」
「君が、辛くて辛くてたまらないって顔をしていたからね」
「それ、二回目です。なんなんですか、それ」
「なんなんだろうね、本当に。でも、君はとても寂しそうな顔をしてたから、助けてあげたくなったんだ。僕は、そういう性分なんだ。それに」
「それに?」
「それに、君は頑張りやさんだから」
イリーナは、短く息を呑んだ。
ヴェルナーは、しみじみという。
「質問の質は上がって来ていたし、的確に受け答えしてくれるようになってきたから、ちゃんと勉強してくれてるんだなあって感じていたんだけどね。この書き込みをみて、改めて確信した」
そうなのだ。
積まれた本の一冊一冊に、何が書いてあるのか、今のイリーナならばそらんじることができる。余白は余すことなく書き込んだし、理解できるまで七回は読み直した。
けれど。
「わたし、頑張りましたか?」
実感がなかった。
ただ、無我夢中だった。
ずっと試験をして、文献を読み込んで、ヴェルナーに良い笑顔で凄まれる。だから、また、仮説を立てて、試験の準備をして……。
いまだって、いつものように困ったような笑みを浮かべているではないか。
けれど、イリーナだって気づいている。彼は、許してもいい甘さと、やるべき事とをきちんと切り分けていることくらい。
期待されていない人間がどんな扱いを受けるのかも、彼女はよくよく承知している。
自分が大切にされていることは、はっきりと理解している。だから、頑張った。
頑張りすぎて、体調を崩してしまった。そんな自分を、彼は看病してくれて、しかも、ちゃんと努力を認めてくれるのだ。
「そりゃあ、ものすごく」
その一言が欲しかった。
彼女はこれまで一度も覚えたことのない、花開くような軽やかで心地よい気持ちを味わった。
――がんばりやさん、だって。えへへ。
この頼りなさげでひょろひょろの男は、ちっとも兄とは似ていない。
もっと男らしくて、格好いいのが、兄さんなのだから。けれど、こんなに安らいでいる気持ちになったのは、兄以来だった。
イリーナは毛布を口元まで引き寄せて、ぎゅっと握りしめる。
「あの、少佐」
「ん?」
いまの気持ちを言葉にするなら、どんな言葉が適切だろう。
どうすれば、いまの気持ちのたかぶりを、余すことなく伝えられるだろうか。
イリーナは、ささやかな葛藤ののち、恐るおそる尋ねた。
「兄さん、と、呼んでも怒りませんか?」
ヴェルナーは目を丸くして、首を傾げた。
「ごめん、なんだって? もういっかい」
――この人は、わたしのなけなしの勇気をなんだと思ってるんだろう!
内緒話をするような小声だったことを棚に上げ、イリーナはよだれでダルダルになった枕を、投げつけてやるのだった。




