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宇宙から地球を見下ろしたとき、君はなんというだろう?  作者: トトノ
第二章 イリーナ・セルゲーヴナ
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18 「楽がしたいです」

「楽がしたいです」


 シュリーレン撮影で燃焼の可視化には成功した。

 だが、今度はそれを、どう解釈していいのかわからない。そして、わからないことをヴェルナーに告げると、また実験と言われるだろう。


 もう、限界だった。

 叱られても、しょうがない。見放されても、構わない。どうにでもなれ。

 疲労が投げやりな気分を作り出していることを自覚しながらも、イリーナは隠すつもりはなかった。どうせ、実験だけでは、限界なのだから。

 ところが、ヴェルナーは、彼女の感情の吐露を歓迎するように、心からの笑みをうかべたのである。


「君がそれをいいだすのを待ってたんだ」


「どういうことですか?」


「やっと君が、頭を使い始めた、ということだよ」





 翌朝。


「字が読めません!」


 イリーナは悲痛な声をあげる。

 彼から受けた指示。

 それは、すでに渡した書物を深く読み返してみろ、ということだった。


「そんなにひどい?」


「ひどすぎます! 誰の字だか存じませんが、自分でも解読不能であると断言できます!

 というのは冗談なんですが、内容がさっぱりなんです」


「どこがわからない?」


 ヴェルナーが面白そうに身を乗り出した。


「全部です」


 するとヴェルナーが、とても悲しそうな顔をするのだ。


 ――あーもう、わかったわよ。


 実験に逃げていたはずなのに、気がつくと勉強の世界に戻ってきてしまっている。

 けれど、原理の部分を読み飛ばすのではなく、読み込み、理解しなければならない。時間はいくらあっても足りなかった。





 さらに翌朝。


「記号の意味がわかりません」


「冒頭で定義してると思うけれど」


 ぐぬぬ。


 少しだけ読む。彼は彼で、まったく別種の仕事に没頭している。

 これ以上時間を作ってくれる様子はなさそうだった。


 ――彼も苦労したのだろうか。いや、飄々と笑っている天才が苦労するはずがない。




 さらにさらに翌朝。

 イリーナの目元には、いつからになるかわからない濃いクマがある。

 ヴェルナーの放任ぷりに息巻いたイリーナは、この本だけではわからないことを証明してやろうと徹底的に読み込んだ。

 すると、腹立たしいことに、確かに、どこかしかに答えが書いてあるのだ。


 『ない』と思って探していると見つからなかったくせに、『ある』と思って探すと見つけられてしまうものらしい。世の中ままならない。

 すると、やはり壁に突き当たる。


「式というか、記号同士の繋がりがわかりません」


 彼女が取り組んでいたのは俗にいう経験を理屈に落とし込んだ工学という世界の本で、種々ある機械にまつわる経験をできるだけ単純な数字や物理現象に置き換えて説明しようとしているらしい。

 そこまではわかるのだが、そこかしこに、見慣れぬ記号に省略された式展開。

 これじゃあ、式の想定している環境とまったく同じ環境を現実で再現しないと、使い物にならない。

 するとヴェルナーは、どんっと紙の山を机においた。


「好きな結果を代入してみるといい」


 それは、イリーナが粛々と計測し続けた、実験の結果である。

 げっそりした顔を隠せた自信は、イリーナにはなかった。

 だが、自分で考えているだけでは足りないから、彼の指示を仰いだわけで、指示を仰いだ以上、まったく手をつけないでいる勇気は、イリーナにはない。


 ――あ、すごい。


 面白いくらいに、燃焼の結果があたってるのだ。

過去の偉人が積み立てた理論は、イリーナの実験結果を予言しているかのような一致具合だった。理論を学ぶということは、確かに時間の省略になるらしい。

それに、思い通りというか、狙った通りの数字が出てくるのは、ちょっと面白い。




 徹夜明けの朝、ヴェルナーに伝えた第一声。


「式同士の繋がりに飛躍があって、わかりません」


「じゃあ、これに目を通してみるといいよ」


 理論を補強するところだね、といいながら机代わりの木箱の蓋を開け、数冊の本を差し出す。

 今度は、イリーナも素直に受け取った。

 中には、見覚えのある字で走り書きが沢山あった。

 イリーナがわからなくなったところでは大抵、落書きした誰かも、まったく同じところで躓いていたりする。

 馬鹿やろうをあらゆる比喩で表現しなおした罵倒が面白くて、イリーナはこっそり笑った。


 最近気づいた事がある。

 書籍の随所に見受けられる落書きの筆跡と、彼の部屋に立てかけられた黒板の筆跡が、よくよく一致するのである。

 ――ちょっと、悪口を言いすぎたかもしれない。




 さらに数日が経った。悩んでいたら夜が明けている日々が続いた。

 時間を掛けているうちに、わかってきたこと。

 工学の分野の本は、著者の説明したいことはそれ一冊でまとまっていることが多いということである。

 もし、その本の内容を理解できないのであれば、自分は想定された読者ではないらしい、ということも見えてきた。


 つまり、読めない本は、自分のなかの欠けている部分を教えてくれるのだ。

 それが数学か物理か、あるいは言語力かは定かではないが、その欠けを探して、別のそれらしい書を紐解いてみる。

 すると、明らかに下地になったであろう知見が見つかる。人類の歴史は、誰かが遺した結果の上に積み重なるように成り立っているのだと、よくわかった。

 けれど、この方法は、とてつもなく時間が必要になる。


 ――だから、時間をかければ、か。


 イリーナの眠れぬ夜は続いていくのだった。




 イリーナは、廃工場のマットに横になる。

 もっとも、彼女の準備したマットは、ヴェルナーのものみたいにどろどろで、嫌な匂いがするものではない。

 でも、いずれそうなるだろうという確信めいた予感がする。

 けれど、油塗れになったとしても、ちっとも嫌じゃないだろうと思われた。

 むしろ、誇らしさすら感じているかも。

 ひょっとしたら、努力の証のような錯覚にすら感じられるかもしれない。


 ――燃え尽きたとき、すぐに眠れるって、素晴らしい。


 心のどこかで、報告書をまとめなければ、という生真面目な自分がささやく。

 けれど、今の内容をまとめたところで、どれくらいのことが伝わるのだろう。なら、あまり意味はないはずだ。

 そんな事を考えながらイリーナは、夢ひとつ見ない、深い眠りにすっと落ちていった。

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