17 「いつ終わるかわかりませんよ?」
イリーナは、自分の記憶を信じるかぎり、学習の成果として学術称号を受けるような教育とは程遠い世界を歩んできているはずであった。
彼女は、大多数の子どもたちと同じく、およそ勉強と呼ばれるものを好んではなかったし、彼女の知る教育といえば、取っ組み合いの喧嘩であり、建国の祖の足跡を辿ることであり、党への絶対的な忠誠だった。あるいはベッドの上でおこなうなにがしだった。
親のいない彼女にとって学びとは、生き残ることの全てであり、大人の機嫌を機敏に察することや、あざの隠し方であり、あるいは、わずかな時間でも眠れるよう身体を休めることだった。
もっとも偉大な学びは、男という生き物は、いくら威張りくさっていても、ベッドの上では阿呆になるということであった。
なにより、身体を触らせることがお金になると発見したことは、彼女史上最大の学びだった。
従って、彼女の価値観に照らし合わせれば、知識や倫理、技術を深める世界など、生きていく上ではまったくの無用の長物であり、時間を費やすことは理解の範疇外である。
だが、どういうわけか。
このエリア68では、自分の発見がまったく機能しないのである。
いや、正確には、ヴェルナーという男には、まったく自らの学びが通用しなかった。
どこをどう間違えたのか、気がつくと彼女の仕事の大半は、お金をもらう対価として、なんたら理論やなんたら仮説などという、およそ高等教育の最先端に位置する学問を咀嚼し、嚥下し、血肉とすることになってしまっていた。
「勉強の下地がないのに数学などできるはずがないんですよ」
イリーナがたまらず漏らすと、ヴェルナーは大袈裟なくらいにうなずいてみせる。
「ちゃんと分析できているじゃないか。それじゃあ、わからないところ探していこう」
どうやら、わからない点が初歩の初歩らしいという結論に達したイリーナが、嘆くようにいう。
「これじゃあ、いつ終わるかわかりませんよ?」
「いいよ。歩き始めたら辿り着けるから。君は歩きはじめた。だから、大丈夫」
ヴェルナーは、明らかに大した問題だとは考えていなかった。
そして、必要とあらば、初等教育の教科書すら調達するほどの徹底ぶりである。
昼も夜も、寝る前も寝る時間も、何もかもが勉強だった。山ほど選択科目を抱えて潰れそうになってしまった学生の気持ちが、わかる気がするイリーナだった。
唯一の安らぎは眠る時間。
そのうち夢の中でも勉強を始めて、彼女は心底げっそりした。
けれど、泣こうが喚こうが、学ばなければならないという現実はかわらない。
本当は、投げ出してしまってもいいのだろう。だというのに、イリーナには、そうすることができなかった。
純粋に、付き合ってくれるものだと信じているヴェルナーを裏切ることが、なんとなく出来ないのだ。
けれど、そのうちにイリーナは、罪悪感を覚えない方向への逃避路を発見する。
実験である。
「二号試験機をお借りしてもいいですか」
廃工場二階で、執務に励むヴェルナーに、イリーナはそんな風に声をかける。彼は書類から目を上げて、イリーナを視界にいれる。
「もちろん。でも、どうして?」
「各種燃料の実物を見てみたいんです。この間みたいな爆発事故が起こらないように、知見を蓄えておきたいので」
するすると、口から言い訳がでてくる。
即席ででっち上げた言い訳にしては、なかなか良いところを突いているのではないだろうかと、イリーナは自画自賛である。
本当は、あんまりにも机にかじりついているのが嫌になって、たまたま目についた燃焼という言葉から、実物をみてやろうと連想しただけなのだが。
「あれはデトネーションが生じたことことによる配管の破断だけど、再現させるのはちょっと危険すぎるなあ」
ヴェルナーが困ったように頭をかく。
「ですが、言葉だけじゃ、イメージし辛いんです」
イリーナは、真摯に聞こえるように静かに、だが力強くいう。
最もらしく聞こえたのか、少し考え込むヴェルナー。
イリーナは、しおらしく彼の決断を待っている。けれど、彼女の心の中は、外観から読み取れる雰囲気とはかけ離れていた。
――デトネーションってなんだよ! 知るかよ! わかる言葉使えよ!
とまれ、ヴェルナーは許諾し、イリーナは試験に取り掛かれることになった。
意気込みを買おう、というのが許可をくれた理由らしい。
二号機は、イリーナが抱えられるくらいに小さく、大惨事になり難いことも一因であろう。
燃焼自体はつつがなく終了する。
結果を報告して、帰路につく。
排ガスとオイルの臭いと、は好きではないが、身体を動かしている分だけ、教科書のカビ臭さより我慢できるというものである。
くたくたに疲れたイリーナは、ほうほうの体でアパートにたどり着くと、外套だけを脱ぎ捨てて突っ伏すようにベッドに顔を沈める。
そのまま眠気に身を任せようとまどろみはじめたところで、昼間の言葉を思い出す。ちょっとだけ顔をあげ、ベッドから手を伸ばせるぎりぎりのところに、燃焼工学なる題をつけた本を見つける。
うーんと手を伸ばして、目次をぱらぱらとみやり、目的の項に飛ぶ。
デトネーション。
可燃混合気中を音速で伝播し、衝撃波とそれに伴う壁面からの反応面との相互作用で維持される燃焼現象である。
――なるほど、わからん。
「この間の配合比はどんなだったか覚えてる?」
「燃料比ですよね。一対三くらいだったと思いますが」
「割合を変えてみるとどうだろう」
「推力が上がるんじゃないですか」
「なんで?」
じっと見つめられると、たじろいでしまう。
自分の勘に自信がないことを見透かされていたらしい。
「では、実際にやってみよう。他の条件は揃えてね」
「わかってますよ。比較しないと、わからないじゃないですか」
「お、ちゃんとわかってるね」
――あなたのくれた資料は全部そうなってるじゃないですか!
イリーナは心の中でこっそりとごちる。
彼女にとってみれば、特段かわった気づきではない。
先人のやり方を忠実に真似るのは、夜の世界では至極当然のことだったからだ。
向こうでは、大人の機微が読めないと、生死にかかわる一大事だった。
だから自然と、上手い先輩をそっくりそのまま真似るようになっていたのである。
ここでも同じようにするべきだと考えて、そういったまで。
だから、褒められても嬉しくない。
例えば、各種条件を同じにして、調べたい事柄だけを変えていく。
いい結果が欲しくて、とにかくいろいろなところをいじってしまいたくなるのをぐっと堪えて試験をする。
他にも、結果が不安定なら、とにかく数を重ねて、点じゃなくて群で見るようにするだとか、結果を一覧できるように記載していくだとか、細かいところまで再現する。
とにかく、資料や教科書でもらった『見せ方』と同じになるように真似ていく。
大人の機微を察するという力が、妙なところで役にたっているらしかった。
「シリンダの形状が、なによりの検討事項になりそうだね」
――そりゃ、そうなりますよね。
イリーナの偽らざる感想である。燃焼がさっぱり安定しないのは、燃料の配合比だけではいかんともし難いと思うようになっていた。やっていれば、どこが悪いかなんとなくわかってくるらしい。
「緩衝材の量を変えてみようか」
「どのくらい厚くしますか」
「実験してみよう」
「相手は金属ですよ? そう簡単に変えれる部分じゃないと思うんですが」
「お金なら、心配しなくていいよ。いっぱい試作しちゃおう」
次第に実験したい項目が増えていき、時間に追われるようになっていく。
やるべきことが山積みで、そろそろ身動きが取れなくなりそうな塩梅だった。
ヴェルナーは気づいていないはずがなかったが、彼は何も言わなかった。
「それに、自分で答えを見つけていくのは面白いだろう?」
「そう、ですね」
そう言われては、引き下がれない。
また眠れぬ夜が続くことに、げっそりとした気持ちになる。
――誰が試験すると思ってるんですか!
けれど、彼は解を出すと、ちゃんとほめてくれるのである。
褒められるということに慣れていないイリーナにとって、誰かに褒められるという経験それ自体が麻薬である。
褒められたいがために、実験を頑張ってしまうという、自分でも馬鹿だと思うくらいの単純な動機で、頑張れてしまう。
悔しいことに、こと褒めることに関して、ヴェルナーは天才的だった。
「以前からの試験機の異常ですが、答えがみつかりました。配管の一部が溶けていています」
「いいね。答えに辿りつけたじゃないか」
「でも、お兄さんならもっと早くできたはずです。見に来てくだされば、もっとはやく進んだはずですが」
「たぶんね。でも、君は自分でやり遂げたじゃないか。僕はそれが嬉しい」
「ありがとうございます」
「それで、次はどうする?」
「試験のやり直しですね。どこから溶けていたのかわからないので、試験をもう一度やり直さないと」
「いいね。僕もそうおもっていたところだ」
「どのくらいやりますか?」
「実験してみたら、見えてくるんじゃないかな?」
「わかりました、やればいいんでしょう!」
「点火プラグの取り付け角を変えてみたいんですが、どうでしょう?」
「いいね。燃焼効率が如実に変わりそうだ」
「どのくらい変えましょう?」
「実験してみよう」
にっこりわらうヴェルナー。
「……やってやりますよ」
「ついでにシュリーレンで撮影とか出来ないかな?」
「なんですか、それ?」
彼は答える代わりに、数枚の鏡と、定盤を指し示す。
――それだけで、なにを察しろと。
また、ベッドに突っ伏しながら、ごそごそと本を開く。
シュリーレン撮影法。
光のムラを撮影して、気体の密度差を映し出し、可視化する手法だった。エンジンの燃焼や混合気の状態がわかる優れものらしい。
ちなみに、この撮影法は、すごく扱いが繊細だった。
光のムラを捉えるだなんて発想する段階で、気づくべきだったし、シュリーレンの原理をさらった時に、はっきりと拒絶しなかった自分を、イリーナは本気でなぐりたかった。
ピントが欠片も合わないところから始まり、並行に凹レンズを揃えられないとか、レンズに入ったはずの光がフィルムに入らないとか、課題が山積する。
特に、振動には滅法弱く、トラックが建物の側を走行するのはダメ、廊下を誰かが歩くのもダメ、鏡のそばで息をするのもダメという徹底ぶり。
結局イリーナは、誰もいない真夜中、三日三晩をかけ、一人で粛々と作業する羽目になった。




