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宇宙から地球を見下ろしたとき、君はなんというだろう?  作者: トトノ
第二章 イリーナ・セルゲーヴナ
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16 「僕は、君に武器を渡したい」

 ――普通、逆なんじゃないだろうか。


 イリーナだって、乙女である。

 恋愛というものに憧れを抱いていることは、なんら不思議なことではないし、言ってみたいことや、言われてみたいことのひとつやふたつはある。

 例えば、ここから先には踏み込んで来ないように、という言葉は、どことなく大人なお姉さんな言い回しに感じられて、いつ口にできるのだろうと、ぼんやり憧れていたものである。


 けれど、現実は非情だった。

 同じ意味合いの言葉を発したのは、自分ではなく招いた男の方だったのだから。

 イリーナは目を細め、今すぐにでも叩き出したい衝動を必死を押し殺しながらいう。


「はいはい、勝手にしてください」


「本気だよ?」


「口先だけでも本心からでも構いませんけど、夜中に出て行ったら死んじゃいますよ」


 ヴェルナーは、気がつかなかったというように動きを止める。

 イリーナは、少しだけ溜飲が下がり、自然と笑みが浮かんだ。


「人間ひとりの運命を手中におさめているのだと思うと、少し気分がいいですね」


「大人でからかわないでほしいな」


「大人扱いしていただきたいのでしたら、乙女心にもう少し気を配るべきかと」


 イリーナは取り合わない。

 情けない顔をしているであろう彼のペースに合わせないことが、彼と付き合う上で重要な事だと分かり始めていた。

 素直で、愚直で、童貞を捨てる覚悟のない男に主導権を握らせていると、いつまでたっても世界は回らないのである。


「それで、明日はどの様な予定ですか」


「運輸省と鉄道局に案内してくれるかい? 物流が開発の礎なんだから、まずは足元をかためたい」


「承知しました。他には」


「燃焼と超音速流体の専門家が欲しい。中央研とかいうところに掛け合ってみる必要があるんだけど」


 他にも金属材料の専門家から、無線遠隔操作法(テレメトリー)、弾道計算および計測装置、蓄電に各種センサ系などなど、ヴェルナーの提示する要求は多岐に渡った。


 それにしても、とイリーナは思う。鉄道架線の専門家まで探している事には驚きを禁じ得ない。地図にない街に鉄道を引きたいのかと思ったら、そういう訳ではないらしい。

 とにかく、ロケット開発には、想像もつかない知識と費用が費やされることを、彼女はおぼろげながら理解し始めていた。

 ロケット開発に費やされる費用で、生まれてから死ぬまでお金に困らない生活が何度送れるかについて考えていると、ヴェルナーが自分の鞄から数冊の本をとりだした。


「それから、これが君にとっては重要なわけなんだが……」


 そういって、彼はイリーナに本を手渡す。

 イリーナの細腕にはずっしりと重く、分厚い本たちだった。

 それは、概論となのつく、線形代数、ベクトル、確率に、微積分と書かれている。

 どれもこれも、欠片も聞いたことがない。辛うじて想像できる機構学という本を手に取って、イリーナは口を開いた。


「わたしは、機械いじりを趣味にするつもりはありませんよ」


「君は僕の秘書なんだろう? 僕が何をしているか理解した方がいろいろと上手くいくと思わない?」


 そうかも知れない。

 けれど、すこしページを開いてみただけで、彼が要求することがあまりに難しい事なのだと、すぐにわかった。

 見たことのない単語や、概略図、複雑怪奇な数式の入り混じった式が列挙されているのだから。


「数学なんて、ちっともわかりませんよ」


「できるようになる。時間をかければ、いつだって。それに、僕がついている」


「わたしができるようになるわけないじゃないですか」


「そんなことは、やってみてからいいなさい」


「それは命令ですか」


 イリーナは冷たく尋ねた。ヴェルナーは意外な顔でわずかに息をのんでからいった。


「そうだね。君が、その方が受けとりやすいのなら、命令だと思ってもらって構わない」


 イリーナは危うく傷つきそうになった。

 あなたも結局、立場で人を従わせようとするのか、と。

 やっぱり卑怯な大人の一員なのか、と。

 そして、ヴェルナーの発言にがっかりしそうになっている自分を発見して驚いた。

 傷つくということは、傷つくことになるほどに彼に興味を抱いているという、何よりの証明だったからである。

 

 なぜ、気を許してしまったのだろう。

 今みたいに、無害で人の良さそうな、困った顔をしているせいだろうか。

 今みたいに、睨みつける自分の視線を、やんわりと受け止めてくれるからだろうか。

 実験の前後で自分の感情に差があることについては、あえて蓋をしながら、イリーナが何か言おうと何度か口を開く。

 けれど、何を言えばいいのかわからず、結局口を閉じるしかない。ヴェルナーはいう。


「僕は、君に武器を渡したい」


 彼の言葉は、イリーナの心に一石を投じた。武器、などという強い言葉が出てくると思わず、彼女の思考はぴたりと止まる。


 君のためを思って。

 彼の口調から感じ取れる真意だった。そんな感情を向けられたのは初めてだった。

 ヴェルナーは静かにいう。


「僕はね、数字と物理を使って理屈で説明する技術を身につけて、本当によかったと思っている。

 数字は、誰かと誤解なく分かり合うための、とても便利な道具なんだ。見た目は厳ついしとっつき難いし、そもそもどこからてをつけて良いかもわからない。

 でも、道具なんだ。

 使い慣れれば慣れるほど、便利で手放せなくなるほどに強力な、ただの道具なんだ。

 もちろん、使いこなすのは大変だ。たっぷり時間をかけて習熟しないと、思う通りに動いてはくれない。

 特に、人間の頭は人間の突拍子のない感情が大好きで、論理立てて説明できるようには出来ていない。

 だから、君が手を出すのをためらう気持ちは、よくわかる」


 ヴェルナーがゆっくりと、書の上に手を置いた。

 イリーナの手に、重ねるように。イリーナは、ぴくりと肩を震わせる。けれど、彼の手を振り払うことはない。

 ヴェルナーは続ける。


「もし、君がこの道具を使いこなしてくれるのであれば、僕は君を、胸をはって手元に置くことができる。

 そうすれば、少なくとも、心を切り売りするような仕事から、それを許容せざるを得ない環境から君を引っ張ってあげられる」


「別に、わたしは、今の仕事を悪いとは思っていません」


 イリーナは手を引こうとする。その手を、ヴェルナーはしっかりと捕まえる。

 きっと睨むイリーナに、彼は変わらない口調でいう。


「本当は、もっと簡単なものをあげられれば良いんだけど。僕にはこれしか思いつかないんだ」


 そして、ヴェルナーは黙りこんだ。

 とても、悲しそうな顔をしていた。沈黙が重く、イリーナは黙っていられなくなって、尋ねた。


「あなたには、義務も利点もないでしょう? 無学な一人の、淫乱な娘に、目をかけようとする理由はなんなんですか?」


 かすれた声だった。すがるような声だった。

 信用したいけれど、裏切られるのが怖い。だから、彼の行為を素直に受け止められず、戸惑っている。そんな、迷いが、彼女の声をかすれさせていた。


「君が、苦しくってたまらないっていう顔をしているからだよ」


「そんな顔はしてません」


「してるさ。今だって。君は、ちっとも笑わないんだもの」


「そんなこと、ありません」


 イリーナは笑みを浮かべていう。挑むように。

 けれど、ヴェルナーは静かに首を振ると、彼女の頬に手を添える。


「正直に告白するよ。君は綺麗だ。

 笑っていると、今よりずっと可愛く見えると思う。

 でも、時折垣間見える自然な笑みは、いまよりずっとずっとかわいいと思った。僕は、君の笑顔をずっと見てみたい」


 ――なんなんだ、この男は!


 イリーナは急いでいう。


「あなたは他人を信用しすぎではありませんか? そんなに無防備に好意を振りまいていると、いつか足元を救われますよ」


 存外に強い口調で、しかも早口だった。動揺しているのが丸わかりである。

 けれど、イリーナにできる精一杯だったし、ヴェルナーは、彼女の動揺を上手に使えるほど、女性の扱いに長けているわけでもない。

 だから、彼は大真面目にいう。


「その時は、君が助けてくれるとうれしい」


 次の瞬間、イリーナは、もう一方の手で枕を放り投げた。

 潰れたカエルみたいな声をあげるヴェルナー。

 その隙に彼女は、布団の中に潜り込んだ。そして、顔だけだして、ぼそりいった。


「仕方がありません。話にだけは乗ってあげます」


「うん。明日から、よろしくね」


「知りません。もう寝ますから、少佐もさっさと寝てください」


「そうだね。おやすみ」


 まもなく、明かりが消える。

 イリーナは、背後でもぞもぞと動き回るヴェルナーの気配を鋭く感じていた。

 微妙に身体が強張っているし、あらくなりそうな息を沈めるのに一苦労だった。

 心臓もばくばくと脈打っていて、ちっとも思い通りにならない。


 ――もし、いま迫られたら、どうするだろう。蹴飛ばすか、ひっかくか、噛みつくか。あるいは。


 自分で自分がわからなかった。

 これからどうなるかも。

 けれど、いつまでたっても来ない。

 触れられる気配すらない。

 なんなら、静かになっているような気がする。

 ちらりと、布団をめくってみる。


 ――普通、踏み越えてくるものなんですけど!


 彼は、月明かりを頼りに、いつのまに持ち込んだのか、本を開いている。

 自分が観察している事にも気付いていないかもしれない。

 彼は、家に招かれたら女を抱けるものだという風に理解をする人間ではない。

 力で解決する代わりに、対話を好むという変わった人間である。

 そして、男としての本能すらどこかに置き忘れているような人間である。

 だからこそ、自分は、家に泊まるように勧めたのではあるまいか。


 ――なにを期待していたんだろう。


 イリーナは深々とため息をつく。


 ――わたしが、心から笑えるようになれば。踏み越えてくるんだろうか。


 そうなったら困る、と反射的に思考を否定する。

 けれど、その対極にも自分の心があることを、認めざるを得ない。

 そうでなければ、こんなにも、もやもやするはずがないのだから。

 自分でも理解できぬ、もやもやである。


 なんとか心を鎮めたくて、枕に顔を埋めた。

 ぐにぐにした。

 もやもやは、一向に鎮まらない。

 だというのに、矛盾するようだが、今日はぐっすり眠れそうな予感がした。

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