15 「でも、条件がある」
イリーナは上官を送り届け、扉の側で待機していると、控えの間の方から遠慮がちな声がした。
みやると、すぐ横でも、下士官たちがこそこそと噂している。
「廃工場で爆発があったらしい」
「この場所がばれたのか」
「合衆国の工作員はどこにでもいるだろう」
「誰が責任を押し付けられるのやら」
やれやれ、という口調で話す彼らの態度は、昨日の爆発事件を、退屈な日常に対する刺激的な出来事として捉えているようだった。彼らの態度に、イリーナは、無意識のうちに拳を握りしめた。
「あるいは、爆発事故がなかったことになるか」
「なかった事になれば、誰も傷つかない優しい世界だな」
「爆発が起こってるのに?」
「だからこそだよ、同志」
「とまれ、どちらが面白いと思う?」
「そりゃあ、工作員の方さ。我らが兄弟はなにをしているんだか」
「なにもしてない事はないだろう。俺たちは、まだマシな暮らしができているしな。あちら側と違って、一日に十二時間も働く必要はないんだぜ」
そうなのだろうか、とイリーナは疑問に思う。
だって、自分の上官は、疲れたらマットレスに突っ伏して眠る。党の掲げる労働基準にいちじるしく反していることは明らかだ。
かつて見せられた、西側の映像と、彼の働き方は妙に重なるところがある。
資本主義の始まりであるブリテン王国では、貧しい子供たちが冷酷な主人にこき使われ、休憩中に鞭を振るわれ、労働に戻れと強要される事態になっていたという。
合衆国では、今もなお一部の資本家があらゆるものを所有し、ほかの誰もが誰かの奴隷なのだとか。全ての土地、家、工場、そして、金を支配しているのが、資本家という一握りの人間だという。
だが、中央委員会の目が行き届いているサ連では、そうした貧困と差別はなく、この国では誰もが、等しく八時間働けば、食事にありつくことができる。
パンが少々固かったり、野菜を買うのに三十分から一時間は並ぶ必要があり、挙句売り切れだといって追い返されたとしても、餓死するほどのことはない。
軍という、配給が保証されている組織が中心にある街であれば、なおのことである。
平等という中にある、わずかな格差のなかで、彼ら軍人は恵まれている。だからこそ、笑っていられるのだ。
悪い人たちではないのだろう。
今の恵まれている労働環境を踏まえ、意見することは十分に理解できる行動である。
だが、イリーナの目には、どうにも違うように思えた。彼は、誰かのためにというより、自分自身が成したいがために、延々と時間を費やしている。
それは、嘲笑される生き方ではないはずだ。
一度疑問に思うと、今まで見えていなかったことが見えてくるらしい。自分の視点が絶対的でないという気づきは、イリーナを不思議な気分にさせていた。
彼らはきっと、普通の生活を送ってきた人たちなのだ。
普通の学校に通い、普通に社会にでたのだろう。福祉施設で性的な悪戯を受けることもなく、育ってきた人たちなのだ。
一度たりともレールを踏み外したことのない者だからこそ、あれほど無邪気に、他人の処遇を笑うことができるのだろう。
たまたま、国がこの街を選んだから、職員をやっている。そんなところ。
他の世界をのぞき、自分たちは恵まれていると安心したくなる気持ちは、わからないでもない。
けれど、これ以上は我慢ならなかった。
これ以上、二人の立ち話に聞き耳を立てていると、聞いてはいけないような事を耳にしてしまいそうだったし、なにより、いつ自分が、口出ししてしまうかわかったものではなかったのだから。
イリーナは軽く咳払いする。
二人はチラリとイリーナをみて不審な顔をし、続いて胸元の階級章を目にして、同時に押し黙った。
やがて、片方の男が言った。
「昼食にいかないか」
「そうだな。また売り切れだのなんだの言われても困るしな」
もう片方の男も冗談まじりに肩をすくめて歩き出す。
「食堂のおばちゃんも、あと二十年若かったら美人だったろうに」
「違いない」
「ああ、俺にも美人さんのおこぼれが回ってこないかなあ」
「よせやい」
最後まで軽口の止まらなかった二人が、廊下の角の向こうへ消えていく。
思わずため息を吐きかけたところで、耳元で甘くささやかれたような気がして、イリーナは文字通り飛び上がった。
「美人さんに睨まれて、ちょっとかわいそうだったね」
もちろん、耳元でささやかれた、というのは気のせいである。
振り返ると、ヴェルナーが後ろでかたかたと笑っている。
イリーナは恨みを込めてヴェルナーを睨んだ。
「後ろに立たないでください」
「ずいぶん悲痛な顔をしていたから、声をかけずにはいられなかったんだ」
「いつからみていらしたんですか」
「怖い顔をしたお嬢さんが下士官の二人に聞き耳を立てているあたりかな」
「もっと早く声をかけてくださってもいいじゃないですか」
「上官がいない方が盛り上がる話もあると思って」
「そんな物騒な話はしていませんから」
「そっか、そっか。でも、本当にそんな話をするときは、見えないところでやってね。そんなことより、食事にしない?」
軽い口調だった。どちらでも良いと思っているのか、あるいは欠片も気にしていないのか。
前者であれば要注意人物であり、後者であればただの馬鹿である。イリーナの心は後者であることに大いに傾いているが、彼はイリーナがどう感じようが構わないという態度で食堂に向かう。
急いで距離を詰めると、イリーナは尋ねる。
「あの、処遇はどうなったんですか?」
「うん? これまでどおりだよ。君の心配していたことはない」
ヴェルナーは笑う。それが無性に、腹立たしい。
イリーナは、彼が責任を取らされ、即刻拘束されることを想像していた。そして、ささやかな取り調べにかけられ、その後は、言葉で表現することのはばかられる様々な困難が彼に降りかかるのだとばかり思っていた。
だから、どこに賄賂を積めば穏便に解放できるか、考えていたくらいだったはずなのに。
自分の口調に恨めしげな響きが入っていたことは否定しない。目元も、おそらくは半開きであることを自覚しながら、イリーナはいう。
「ちょっと嬉しそうじゃありません?」
「なんで?」
「鼻歌まじりにスキップしそうな塩梅です。控えめにいって、感情が表に出過ぎです」
「予算を回してもらえそうなんだ。ざっと三倍くらい」
「は?」
目を剥くとはこのことである。
――なぜ、炎上させたのに予算が増えるのだろう。
そもそもの話、自分が立ち聞きしていた時間は五分にも満たないはずである。だというのに、目の前の彼はあっさりと話を引き揚げ、呑気に昼食に行こうとしているのである。
イリーナにはわからない、奇妙な力学が働いたようだった。
まさか、自らの上官は、粛清逆巻くこの国で、事態をもみ消すだけの充分なコネクションを持っているとでもいうのだろうか?
だとすれば、呑気にロケットのことしか考えられない、単純なやつだというヴェルナーへの評価を、大いに改めねばならない。
「これで夢にまた一歩近づいたよ」
聞き方によっては、随分と皮肉な言葉だと、イリーナは思う。しかも、皮肉な笑顔がとても丁寧で無邪気に聞こえるところが、なんとも恐ろしい。
「夢ですか」
「そうとも。なにが素晴らしいって、失敗する余地が出来たことだね」
「失敗が、ですか」
「だから君も好きなだけ失敗するといい。いざこざは全部、僕がやっつけるから」
わかりやすいくらいの警告にしか聞こえない。イリーナの内心は冷や汗をだらだらである。取り繕う余裕もない。
試されているのだと、彼女の半生が告げていた。
その場で這いつくばって許しを乞いたいくらいであるが、周りの目がある。誠意を示す方法は限られている。
あとでなにを言われるかは考えない。いまはただ、誠意を見せる為だけに平伏する。
「なるべく早く、お力になれるようにいたします」
イリーナは壮絶な表情でいう。
「そんなに重々しく考えることはないよ。科学は失敗しながら前に進むんだ。いくらでも、失敗してくれて構わない。でも、やる気になってくれるのは嬉しいかな」
その顔に、裏の意味はやっぱり見えなくて。
陰謀を巡らせる策略家か、ロケットが好きなだけのただの阿呆か、イリーナにはさっぱりわからなくなってしまった。だから、自分の立場をはっきりさせるためにも、つい、言ってしまったのである。
「今夜も、あそこに泊まるんですか?」
「あそこ?」
「工具箱の上に、機械油の染み付いたマットレスが敷いてある場所です」
「そのつもりだけど?」
出ていくことなど微塵も考えもしていない顔で、ヴェルナーがいう。
「毎朝、丸まって毛布をかぶって眠るより、よっぽど良い場所がありますが?」
「どこ?」
「わたしの家です」
「でも、あそこも、そんなに悪くないと思うんだけど」
ヴェルナーは悲しそうにいう。
「少佐は、埃だらけの自室を、信頼できるシェルターか何かと勘違いしているんですか?」
「そんなにひどいかな」
ヴェルナーは傷ついた顔をする。
本質はともかくとして、工具棚と埃と、大好きな機械の塊という一面を持っていることは真実だと、イリーナは思う。
彼の顔は、自慢の秘密基地をけなされて傷つく少年の顔である。人目につかない学校の片隅に、家から離れた山の麓、あるいは空き地。
なんというか、ちょうど良い狭さのところにこもっての暴露大会だとか。告白大会だとか、いくつまでおねしょしたいってはやしたてたり。そういう、口じゃ言えない独特の感覚。そこでは、思考も感情も妙に露骨で、生々しくて、普段言えないことを言い合える場所。そして、自分たちだけの秘密の武器なんかを、こっそり考えたりできる聖域だった。
そんな秘密基地で、彼はただ、自分の好きなことをやっていて、それを否定されたから、悲しい。
そんな事柄が、彼の顔に書いてあった。
悲しそうな彼をみていると、なんというか、力になってあげたくなってくる。
少しくらい協力してあげても、罰はあたらないのではないか。そんな風に思わせてしまう何かが、彼にはあった。
だから、イリーナはわざとらしく、灰色の黒っぽい瞳をすうっと細めていう。
「下のものにしめしが付かなくなりますよ」
「そんなことはないんじゃないかな。だって、今のところ、部下は君だけだし」
「では、上にしめしが付かなくなります」
イリーナは凄みを込めていった。策謀家だろうとロケット馬鹿のどちらだとしても、同じである。
――わたしが気にならない程度には、しゃんとしてくれないと。
ヴェルナーはイリーナをじっと見つめていたが、やがて一度だけうなずいた。
「わかった。でも、条件がある」
「なんでしょう?」
「裸になって迫ってこないならね」




