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宇宙から地球を見下ろしたとき、君はなんというだろう?  作者: トトノ
第二章 イリーナ・セルゲーヴナ
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14 「嘘に決まってます」

 書類をかかえたまま、大口を開けて眠るヴェルナーを見て、イリーナは小さくため息をついた。

 そして、魔がさした彼女は、その辺りにあったタオルをもって化粧室へ。

 戻ってきたイリーナは、タオルを彼の顔にぺろっと被せて、知らんぷり。

 ヴェルナーの散らかした工具を片付けはじめた。ちなみにタオルは水をたっぷり含んでいる。

 胸の動きが止まる。

 つっかえたように、喉の動きもとまって、次の瞬間がばっと飛び起きるヴェルナー。


「おはようございます」


 イリーナは、自分の悪戯なんて素知らぬ顔で、いつものように挨拶する。


「うん」


 覚めやらぬぼんやりした頭で、濡れたタオルを摘み上げ、首を傾げるヴェルナー。


「ああ、おはよう。イリーナ」


「きりっとしている必要がなくなると、どこでもいつでもダメ人間さんですね」


 イリーナがくすりと笑う。


「原因をはやく見つけたくてね」


 彼は両手を上げて伸びをする。彼の身体はイリーナがぎょっとするくらい、ばきばきと鳴っている。

 彼の視線が正体不明の機械油に塗れた試験機に向かっていることに気づいたイリーナは、彼と機械との間に立ちはだかると、コップと歯ブラシを差し出した。


「はやく顔を洗ってきてください」


 本来であれば、立場的にも、自分の経験からも、彼に対して許されるはずがない態度である。

 だが、言葉は取り消せないし、取り消すつもりも、彼女にはない。

 聞き分けのない男の子には、時に、毅然とした態度で挑まないといけないというのが、経験と直感の命じるところである。


 素直に自分の言葉に従う彼の背中を見送りながら、イリーナ自身は、大人の男性に強い態度が取れることに驚いていた。

 なぜかと自問し、やがて気がつく。ヴェルナーの飄然とした態度が、わがままになることを許してくれていることに。

 彼は、決して手放したり、蔑ろにしたりしない。

 怒鳴りつけてこなければ、暴力を振るうなんてこともない。

 彼は、なんというか、今まで見てきた男とは、一線を画している。

 自分がありったけの感情をぶつけても、ヴェルナーはきっちりと受け止めてくれるに違いない。そんな、確信めいた予感すらあるのだ。


 部屋に散らばっている機械の欠片たちを眺めやる。

 昨日の試験で散った欠片を拾ってきて、いろいろと見繕っているようだった。さすがに瓦礫の側で寝なかったのは、底冷えするのが辛すぎるのだろうと思うと、妙に親近感が湧いてくる自分に、イリーナは戸惑いを隠せない。

 他にも、数冊の本が開かれたまま置かれており、その端々に走り書きがある。ノートには気づきの走り書きがある。もっとも、彼にしか読めない文字であるが。

 倒れ込むまで、寸刻を惜しんで取り組んでいる。


「そんなに面白いんでしょうか……」


「最高に面白いよ」


 力強い声に、イリーナは思わず背筋がしゃんとなった。

 いつもの、ぼんやりしてるくせに妙に冴えたことをいう、いつもの少佐殿の声であるはずなのに、きっちりしなければならないと思ったのだ。

 もっとも、彼の頭はぼさぼさで、いつもと変わらぬヴェルナーであったのだけれど。

 イリーナは、彼に座るように促し、ヴェルナーは大人しく椅子に座る。

 彼の後ろで髪を撫でつけているから、特に顔を見られる訳でもないはずなのだが、独り言を聞かれたのが無性に気恥ずかしく、イリーナはすこし強い口調でいった。


「昨日だって失敗したじゃないですか」


「そうなんだけど、ちょっと休んでると、またやりたくなるんだよね」


「また失敗したくなるんですか?」


 イリーナが意地悪くいう。だというのにヴェルナーは真面目な口調でいうのである。


「そうなんだ。失敗するたびに、わるいところが明確になるからね。どんどん機体がよくなっていくのがいい。わかる?」


「ありえませんよ。嘘に決まってます」


「やってみたらわかるよ」


「それは少佐が特別だからです」


 話しているうちに、イリーナは本当に腹が立ってきた。


「違うよ。僕はプロジェクトメンバーのなかで、一番頭が悪かったんだから」


 ――そんな訳ないじゃないですか。


 イリーナは叫びそうなるのをぐっとこらえる。

 訳のわからぬ記号をつかい、理解の及ばぬ文献を読み込み、どれだけ金を注ぎ込んだかわからないエンジンを吹き飛ばしても飄々としている人間が、一番頭が悪い訳がない。


「だとすると、とんでもない天才集団の中にいらっしゃったんですね」


 ちっとも信じていなさそうな口調で、イリーナがいう。

 けれど、彼女の視界の端では、ヴェルナーは大真面目に頷いている。


「そりゃあもう。肉体美がどうとか、筋肉量の黄金比がどうとかいい出すと止まらない連中だった」


 物理とか数学とかいう言葉が出てくると思っていたイリーナは、ヴェルナーの言葉にはしごを外された気分になった。

 肉体美などという単語を彼が口にするのは想像だにしなかったし、学者といえば、目の前で困ったように笑みを浮かべているひょろひょろの背高のっぽの男性という印象しか持ち得ていない。

 イリーナには、筋肉美について語りあう学者の姿がうまく想像できなかった。

 向かいあう二人の筋肉質な紳士が、突如上着をはだけ、極限まで鍛え上げた肉体にあらんかぎりの力を込め、互いを牽制し合う世界。それは退廃的で世紀末的で。


 ――なんだそのうらやまけしからん光景は。


 あらぬ方向に思考をはせる彼女を現実に引き戻したのは、ヴェルナーのひょろひょろな声だった。


「でも、僕も君くらいのときは本当にダメだったんだよ」


「お兄さんがひょろひょろなところなんて想像しかできませんが」


「そうじゃなくて」


「わかってます。でも、慰めてもらわなくても結構です。どうにもわたしは、数字が苦手みたいですから」


「僕が数学で落第寸前だったって告白も、嘘にしか聞こえないかな」


 なにがおかしいのか、ヴェルナーは軽く笑っている。


「ある程度のところまでは、時間をかけるだけでできるんだよ」


「ある程度?」


「そう。天才が言っていることを、ぼんやりと理解できる程度。何を議論しているのか、根拠がなにか、議論の末になにを得ようとしているかが把握できれば、ブロジェクトは回るんだ」


 天才と接した経験のないイリーナとしては、頷くことも否定することもできない。

 けれど、彼が天才に囲まれていたのであれば、意識が勝手に落ちるまで作業する必要はないのではないだろうか。

 イリーナは素直に、疑問をぶつける。


「じゃあ、なんでお兄さんは、いまここで作業に没頭しているんですか」


「そりゃ、趣味だからね。天才に捕まったら、天才同士の折衝で時間がすっからかんになっちゃうからね」


「苦労されているんですね」


「そりゃあ、もう」


 ヴェルナーがいう。言葉尻に強い意識が宿っているように思われて、イリーナは思わず手を止めた。


「どうかした?」


「いいえ。貴方は良い上官になると思っていたので、すこし残念に思いまして」


「どういうこと?」


 イリーナは、すこしばかり間をおくと、唇をちろりと舐めた。思いのほか乾いていて、それで彼女は、自分が、これから告げることを躊躇っているのだと気がついた。


「大変心苦しいですが、これから少し、苦労なさることになりそうです」


「苦労?」


「その、向こうでも、身なりはきちんとなさってくださいね」


「向こう?」


「その、この国は人がよく消える場所ですから」


 そういって、言葉を濁すイリーナ。これからシベリヤへ送られるかもしれない相手に、事実を正確に告げることもはばかられる。


「ああ、なるほど。それで今日の君は、世話を焼いてくれたんだね。大佐は怒っていたかな?」


 彼が能天気なままでいられる、意味がわからなかった。

 上官から呼び出されるという事の重大さについても、しっかり認識していないようである。

 イリーナは、かすれた声でいう。


「あれだけ派手に燃やしていて、目についていない、は通用しないと思います」


「やっぱり? でも、あれだけの騒ぎを起こしたら、普通、みんな飛んでこないかな?」


「実験はちょうど、お昼休みでしたから。就業時間外の出来事で、ひとが飛んでくることは稀でしょう」


 イリーナはお茶を濁すようにいう。

 けれど、彼女にとっても、誰も駆けつけなかった点は理解できていなかった。

 街中で火事が起こったのなら、さすがに動き出すだろうが、爆発が起こったのは森のはずれの、しかも軍管轄下の敷地で、民間人の立ち入り禁止区域である。

 軍が動き出さないのであれば、誰も手出しができない。

 だから、民間の消防隊が動かないことは納得できる。だが、仮想敵国の攻撃という可能性があるにもかかわらず、軍が動かない理由をイリーナは掴めなかった。

 彼女が今朝方受けた指示は、ヴェルナーを出頭させることまでである。

 イリーナの葛藤を知らないヴェルナーは、妙に感心した口調で、的外れなことを口にした。


「この国のひとたちは、お人好しで良い人たちってことだね」


「はあ、なぜです?」


「だって、事故をなかったことにしてくれているんだろう?」

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